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 意識を失っても、その間の記憶があったらおかしい。それは、たとえ魔女であっても例外ではない。
 その上、シュリは、きっかりと十と八年を森に暮らして、それ以外の外の世界を知らなかった。
 辛うじて人間と会って話した事はあったが、それも数回。片手の指で数えて、足りるほどだ。
 当り前に食べ物や、最低限の生活必需品は必要だったが、森から得られる恵みでこと足りた。
 ひとりで暮らしていれば、着飾る必要も、見栄をはって家を飾る必要もない。
 家は、寒暖や雨露を凌ぎ、獣から身を守るためのもの。
 人間相手には通用しなかったけれど。
 服は、やはり寒さや怪我から身を守るためのもの。
 やはり、人間相手には役たたずではあったけれど。
 とにもかくにも、そもそも『飾る』という言葉の意味を娘はしらなかった。
 知る機会もなかったし、必要もなかったからだ。
 完全なエコライフ。
 どこかの国が泣いて喜びそうな、模範的省資源生活。
 それができなければ、引き篭もりを常とする魔女なんかやっていられない、というわけだ。
 だから。
「ここどこ? 天国……?」
 色とりどりの装飾に溢れた豪華な一室で目が覚めた娘が、開口一番、そう言葉にしたのは、なんら不思議なことではなかった。ただ、天国と勘違いするばかりの地獄かもしれない、という可能性までは気付かなかったにしろ。
「うわあ、ふわふわだあ」
 彼女がいるのは、豪華な広いベッドの上。
 真っ白で清潔なシーツと羽根布団の感触は、普段、娘が使っているものとは比べ物にならないほど手触りが良い。
 肌にひっかかるようなけば立ちや、ごわごわとした感触など、どこにもない。
「ふわふわあ」
 腕に抱く枕の柔らかさには、まさに夢見心地。
 ざりざり音を立てるそば殻の枕とは、比べ物にならない弾力と、ソフト感。
 むにむにと枕に懐きながらもあたりを見回せば、シュリにとっては、はじめて目にする物ばかりが揃っていた。
 優美な曲線を描く、つるり、と表面を光らせる調度品の数々。数々の色を折り込まれた、奇麗な模様入りのぶ厚い織物。表面に彩色された陶器の花瓶。きらきら光るガラスの照明に、連続模様の入った壁紙、ほかエトセトラ、エトセトラ。
 実のところ、ここではそれほどまで装飾された部屋ではなかったが、生まれてこの方、世間から外れて生きてきたシュリにとっては、極彩色の世界に映った。
 とても、とても、綺麗なところ。奇麗なものばかりが、ここにはある。
 しかし、つい油断してしまったのは、迂闊だったかもしれない。
「お目覚めになられましたか」
 かけられた声に、飛び上がらんばかりに驚いた。
「あ、は、え、あ、」
 目の前に、いつの間に入ってきたのだろうひとりの女性。
 年齢も体形も、シュリよりも倍はあるらしい栗色の髪の女性だ。
「マウリア・リスティ・ド・キルディバランドと申します。御滞在中の身の回りのお世話をさせていただきます」
「あ、はあ、はじめまして。シュリです」
 自己紹介をしながら、娘の目は、マウリアと名乗った女性の身に着けたドレスに釘付けになった。
 ところどころ、白い繊細なレースで飾られた奇麗なラベンダー色をしたドレスだ。裾は丸い円を描き、見るからにふんわりとして、滑らかそうな生地をしている。
 それは、彼女がいるベッドのシーツよりも手触りが良さそうな。
「まずは、お食事を」
 ドレスに気を取られている隙に、またもや部屋にいる人数が増えていた。
 金髪とブルネットのふたりの女の子。
 こちらは、シュリと年頃は同じくらいだ。体形は、彼女よりもちょっとふくよかなくらい。
 ふたりは揃いの紺色のドレス――レースの飾りはついていなかったが、白い衿とエプロンが可愛い――を着ていて、また頭にも揃いの三角形の白い頭巾を被っていた。
 ふたりは、部屋に置かれた丸い小さなテーブルにクロスをかけ、そこに料理を並べはじめた。
 シュリは、彼女たちが侍女と呼ばれる召使いであることを知らなかったので、なぜ、彼女たちがそんなことをしているのか分からなかった。が、それを考えるよりも先に、テーブルに並べられた御馳走に目を奪われた。
 まさに、彼女にとっては御馳走だった。
 艶やかなきつね色のパンに、淡い緑色と薄い紫をした野菜のサラダに赤いトマト。湯気をたてる黄色い色のとろりとしたスープ。そして、卵立てに王者のように鎮座する真っ白なたまご。極め付けは、大きな盛付けられた、色とりどりの果物。
「うわあ」
 香ばしい匂いがベッドにいる彼女のところまで漂い、鼻をくすぐった。途端、ぐう、とシュリの腹の虫が鳴った。
「どうぞ、ごゆっくりお召し上がり下さい」
 マウリアと名乗った女性が言った。
「……食べていいんですか」
「ええ、どうぞ」
「ぜんぶ?」
「はい。お客様のために御用意したものです」
 夢のようだ。いや、夢なのかもしれない。
 そう思いつつ、おそるおそるベッドの中からシュリは這い出た。ずるずると、長い銀の髪を引き摺りながら。
 料理の前に立っても、煙のように消える様子はない。
 本当に、美味しそうだ。
 直前にして、口の中に唾液が溜る。
 それでも、こわごわと女性を見れば、髪の向こうに、にっこりとした優しげな微笑みがあった。
「どうぞ、席におつき下さい。遠慮はいりませんよ」
 シュリの頭の上に、ぽっ、と浮かんだハートマークは夫人には見えなかっただろう。
 だが、彼女は髪に隠れる下で、はにかんだ笑みを返した。
 『マウリアさんは、良い人』
 彼女の頭の中にある、数少ないカテゴリーに、そう分けられた。
 そして、ようやく安心して、御馳走に目を輝かせたのである。

*


 マウリア・リスティ・ド・キルディバランド男爵夫人。
 侍女たちを取り纏める女官として、王宮勤めも三十年近くになろうかという、ベテラン中のベテラン。
 現国王陛下、並びに、女王陛下の信頼も厚く、同僚の女官たちからも一目置かれる存在。
 私生活では、男爵の身分にある夫を持ち、三人のこどもを産み育てた経験からその扱いには慣れ、また忍耐にも優れる母性愛の人。
 だれとも変わらず、些細な不満はそれなりにあれど、公私ともにそこそこ満足した生活を送っている。
 その彼女に、王子殿下よりじきじきに客人の世話を任されたのは、つい、先ほどのこと。
 突然の話ではあったが、彼女も場数慣れしているだけあって、さして慌てもしなかった。
 客人が魔女である、ということにはすこし驚きもしたが、上品に、「まあ」、とひとこと口にしただけだ。
 ただ、殿下の脇で薄い笑みを浮かべる若き側近の姿に、内心、眉をしかめ、舌打ちをした。
 カミーユ・ラスティス・ド・ガレサンドロ。
 ルーファス王子が次期王として立つ際には、宰相もしくは重要なポストに就任するであろうとの噂は夫人もよく聞き知っている。才知に溢れ、兼ね備える優雅な物腰とその美貌は、老若男女とわず、社交界では常に注目の的だ。
 だが、疎まれ、危険視もされている。主に、伝統的な考えを持つ者たちにとって。
 そして、男爵夫人の脳内でも、要注意人物の札がかけてある。
 夫人すらも、王宮という名の狐狸妖怪のひしめく山海を、伊達に長年わたってきたわけではない。
 たかが笑顔ひとつによろめき、黄色い声をあげるウブさなどとうにすり減り、捨ててしまった。それよりも、笑顔を絶やすことなく、相手の笑顔の裏にあるものを読み取り、賢く立ち回ることこそが、この王宮に長年務める上での真に必要な術と心得ている。
 ところが、海千山千の男爵夫人にすら、この側近の底が未だ知れない。
 齢二十二と、彼女の半分ほどの年齢であるにも関らず、口八丁手八丁で、堂々と貴族の古狸たちと渡り合うその手腕。ひとり敵を作れば、三人を味方につけるそつのなさ。末恐ろしいとはこの事だ。
 そういう者が、次期王の側近くに務めていることは、本来、喜ばしいことなのだろう。王子もなんだかんだ文句を言いながら、頼りにしている様子が伺える。
 だが、しかし。

 ――あの、お可愛らしかったルーファスさまがこんな風に育ってしまったのは、みんなこいつのせい!

 脳内に、幼かったころの王子の姿が蘇る。
 それは、黒髪の天使。
 凛々しさと気高さ、そして、賢さをそなえる自慢の王子。第一王位継承者。
 素直で礼儀正しく、微笑めば、万人の心をとろかせるほどに愛らしかった王子。下々の者にまで労りの言葉をかけ、不遇なお伽噺に胸をいためる心優しさをもっていた。
 将来は、さぞかし賢王として後々まで言い伝えられるだろう、と誰もが期待をした。王と立ったあかつきには、これまで以上の良き国を築くだろう、と。
 だが、結果はアレだ。
 御年、二十四才。幼き頃の面影はかけらも残ってはいない。
 どこでどう間違ったのか、出来上がったのは、猛々しいというには、野蛮。野蛮というには、獣かとも思うその佇まい。
 事実、陰口には、『ケダモノ』の枕詞がかならずつくほどだ。
 傲岸不遜とも言える口調と態度。腹を立てては下品極まる言葉を吐き、怒鳴り声をあげ、物を蹴り倒し、壁をぶち破る勢いをみせる。辺り構わず剣を振り回しては、怯える家臣を足蹴にする。
 まるで、大岩でできた『押す』という言葉を、木端微塵に粉砕してしまうような傍若無人さ。
 東に暴れる者があれば、それ以上に暴れて叩き潰し、西に殺戮者あれば、行ってそれ以上に死体の山を築き上げる。
 結果としては収めたことにはなっているが、自らが与える損害は冗談でも笑えない。
 王者の風格と言えば、そうなのかもしれないが、ひとつ睨みつければ、見る者すべてを石に変え、その笑顔は、見る者すべてを恐怖のどん底に突き落とす。
 如何に文武に秀で修めようとも、ちっとも役に立っていないように思えるのは、何故だろう。
 民の人気は高いが、それも対岸にいてこそだ。実際、王子に直接かかわった者たちの中では、再起不能になった者もひとりやふたりではない。
 しかし、それもこれも、みな、あの側近のせい。腹に一物も二物も抱えて歩く、ヤツのせいだ。
 あれが王子の傍についてからというもの、おかしくなった。
 憎きは、カミーユ・ラスティス・ド・ガレサンドロ。
 なにを企んでいるか知らないが、これ以上の蛮行は許しがたし。
 不穏な企みは、すべて阻む! 芽のうちに摘んでやる! 王子を改心させるためにも!
 夫人は人知れず、密かにそう決意する。
 例え、夫人の脳内にある幼少の王子の姿が、九割方の人間に首を傾げさせるほどの美化されたものであっても、彼女にとってはそれが真実。
 そして。
 今、彼女の前には、パンを手で千切っては頬張る魔女の娘がいる。
 魔女というからにはどれほどの者かと思って来てみれば、おそらく、まだ小娘と言える年頃。腰までもある銀色の長い髪で顔と言わず全身を覆いつくし、その表情は見えないけれど、どこかびくびくした様子が伺える。……まあ、あの凶悪の名がつくふたりを前にしては、無理もないが。
 細い身体につんつるてんの灰色のワンピース姿は、見るからに貧相というか、みすぼらしい。だが、全体のラインを見れば、長い手足に、出るべきところは出ているようだ。着飾れば、それなりに見られるようになるだろうと思われた。
 容姿はどうなのか、と思うが、髪を掻き分けて食べる口元を見る限りは、そう悪くもなさげだ。行儀も悪くない、というより良いと言えるだろう。
 それより、なにより。
「すごく美味しいです。こんなに美味しい食事は、生まれてはじめてです」
「それはようございました。宜しければ、お替わりをお持ちいたしましょうか」
「いいえ、これで充分です。もうお腹一杯ですごく幸せです。どうしよう」

 ――素直そうな良い娘だ。

 当り前の食事を前に、嬉しい、美味しい、幸せ、と繰り返し言いながら食べる様子は、とても演技とは思えない。
 これまで、よほど不遇な生活を送ってきたのか。しかし、その心は正しくあったと見るべきだろう。
 まるで、年端もいかないこどもを相手にしているような感覚さえ覚える。
 こうしていると、ついぞ忘れてしまっていた純朴な気持ちを思い出す。
 あの頃、私も若かった、と思わず視線も遠くなる。
 今はすっかりと禿げ散らかしたデブに変わってしまった夫だが、髪の毛もふさふさでスマートな若かりし頃の姿に頬を染め、胸をときめかせる時代もあったのだ。詩の一篇に溜息をもらし、贈られた花一輪に夢心地になれた初々しい少女時代。
 そして、小面憎いばかりになったうちの子たちも、ケダモノに変身してしまったあの王子も、皆、こんな可愛らしい時期があったのだ。或いは、あの側近でさえもそうであったかもしれない。
 それが、長く王宮暮らしをしている間に、いつの間にか妖怪の仲間入りを果たしてしまった。
 この娘も、いつかはそうなってしまうのか?
 そう思った途端、キルディバランド夫人の中の母性本能が、むくむくと膨れ上がった。
「ごちそうさまでした。ありがとうございました。本当に美味しかったです」
 銀色の簾の間から、にっこりと微笑む愛らしい口元が言う。
 ありがとうなど、何年振りに聞いた言葉だろう!
「では、お茶をお淹れいたしましょうね」
 夫人も微笑んで、甘く答える。
 その頭上にも、部屋を染め上げるほどの、大きなハートのマークが燦然と輝いていた。と、同時にその頭のなかでは、忙しなく考えを巡らせていた。
 こんな純朴な娘を連れてきて、ケダモノ王子とあの鬼畜な側近はなにを企んでいるのか?

 ――させてなるものかっ!

 なにが目的かは知らないが、こんな純真な娘を穢させてなるものか!
 断固阻止の拳が、夫人の胸中で振り上げられる。
 夫人の頭の中からは、すっかりと、『魔女』の二文字は忘却の海の彼方に葬り去られていた。
 だが、ある意味、それは正しかったかもしれない。
 当の娘はなにも知らず、満腹という幸せを抱えて、いまだ天国にいると信じて疑っていなかったのだから。




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