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 人生、山あり谷あり。
 最初にそう言ったのは、誰だったのか。
 しかし、シュリが経験したのは、天国から地獄への直行便。
 しかも、一瞬で。
 谷であれば、まだ這い上がれたものを、地獄ともなれば、這い上がれることなどまずない。
 お釈迦様が蜘蛛の糸を垂らしてくれればなんとかなるかもしれないが、そもそもお釈迦様の存在など、シュリどころかこの世界の誰も知らないだろう。
 おそらく、だが。

 食後のお茶も、とても美味しいものだった。
 はじめて口にする味ではあったが、美味しい、という言葉しか思い浮かばなかったし、必要がなかった。
 奇麗なベッドに、美味しい食事と美味しいお茶。
 それだけで、シュリにとっては十と八年と一日の人生の中で、最良の日と言えた。
 その人物が部屋に入って来るまでは。
「食事は終りましたか」
 かつ、と高い足音をさせて、その人物が部屋に入ってきた時、娘の口と瞳が大きく開かれたのには、誰も気づかなかった。というより、髪に隠れて見えなかった。
「はい、今おすみになられたところです」
「それは良かった。では、さっそくですが、」

 うっ、きゃあああああああああああっ!!

 魂消る悲鳴がした矢先に、シュリの姿は消えた。
 否、消えたように見えた。
 目にも止まらぬ早さで長い銀の髪が夫人の横を通り過ぎ、椅子からベッドへとダイブしていた。そして全身をすっぽりとシーツの中に隠した。いや、少しだけ遅れて、はみ出た銀の髪が、ずるずると引っ張り込まれた。
 ベッドの上にできた、白い塊。それが、ぶるぶると大きく震えた。
 おやおや、と部屋に入ってきた人物、カミーユは苦笑いを溢した。
「助けてええっ! やだああああ! 怖いよう! 人殺しぃいいっ!」
 白い塊の中から聞こえるくぐもった声に、男爵夫人の眉が、ぴくり、と跳ね上がった。
「一体、どういうことでしょうか」
 夫人は、冷ややかな目付きで自身の子と変わらぬ年頃の若者を見据えた。
「いえ、少々、行き違いがありましてね。彼女の可愛らしい勘違いです」
 悠然と笑みを浮かべながら、カミーユは答えた。
「人殺しと申されておりますが」
「ああ、王子が」

 こぉわいよぉおおおっ!

「王子が、何者かをお手討ちになされて?」
「いえ、違います、彼女を」

 こおろぉさあれぇるぅぅぅぅ!

「殺めようとなさったのですか!?」
「違いますよ。少々、脅されただけです」

 許してえええええっ! おうちに帰してぇえええ!

「脅したっ!?」
「ええ、虫の居所が悪かったというのか、八つ当たりというのか。でも、本気では」

 食べられるぅぅううううっ!

「なんて事をなさるんですかっ!」
 夫人の目が、この上なく吊り上がった。
「こんな純真な娘を、無理矢理、手篭めにしようなど、言語道断ですっ! 鬼畜ですっ! 外道ですっ! そこまで人の道を外れられたかっ! いくら王子のなさる事でも許されるものではありませんっ!」
「いや、そうではありません」
「何が違うのですかっ! この怯えようは徒事ではございませんでしょう!!」
「ですから、ほんの戯れで」
「戯れに脅した揚げ句、お手付きにされようとなさったのですかっ!!」
「違います、殿下は彼女に御依頼をされる為に」

 怖いぃぃぃ! 誰か助けてぇええ! お師匠さまあっ!

「どうぞ、お引き取りを」
 すっ、と布を引くように、キルディバランド夫人は言い放った。
「シュリさまを、このような状態でお渡しするわけには参りません」
 やれやれ、と王子の側近は溜息を溢した。
「まあ、これでは、話にもならないでしょうね」
「当然です」
 夫人は、しかと目の前にいる王子の側近を見据えて言った。
「近頃の王子のお振舞いには、私から見ても無体が過ぎると感じる時がございます。シャスマール国の姫君との御婚約のお話もある中、斯様な噂がお相手の耳にでも入られでもしたら、問題にもなりましょう。そうならないよう王子をお諌めするのも、側近である貴方の務めかとも存じ上げますが」
「そうですね。私もそうありたいと思っておりますよ」
 美麗な笑みが答えた。
 そして、一歩も退く様子も見せない夫人の前に、軽い吐息がつかれた。
「王子はシュリ殿と話し合うことを御希望されております。出来るだけ早急に、穏便に。乱暴な手段を用いることは、王子とても本意ではございません。キルディバランド男爵夫人には、彼女が落ち着くよう取りなして頂き、王子のお話を聞くよう説得をお願い致します。勿論、充分なお世話もしてさしあげた上で」
「それでも、嫌だ、と申された場合には」
「その時には、嫌が応でも王子が部屋に押し掛けることにもなりましょう。それこそ、彼女にとっては、より恐ろしいことになりかねません。私もできるだけ王子をお留めするよう努力は致しますが、それにも限度が御座います。騒ぎを大きくしないためにも、是非、夫人の御助力を願いたい」

 ひーん!

 その会話は聞こえたのだろうか。シーツの中から泣き声が響く。
 夫人は後ろを振り返り、声の在り処を一瞥すると、「分かりました」、と答えた。
「出来るだけのことは致しましょう」
「お願い致します」
「しかし、その話し合いの場に私も同席させていただくようお許し願います」
「どうぞ、御随意に」
 肩を軽く竦めるような返事に、夫人はしかと頷いた。

 王子の側近の退室を見送って、キルディバランド夫人はもう一度ベッドを振り返った。
 なんと可哀想な娘。
 危うくケダモノの歯牙にかけられるところであったか。ならば、この怯えようも当然だろう。
 本来、王子のお手付きとなるのは栄誉ではあるが、それは、それなりの後ろ盾があった上での話。なにもない娘では、弄ばれてのポイ捨てはごく常識的なこと。後ろ盾があっても、そうなる事は多いのだ。
 お伽噺には、身分の低い娘が王子と結ばれるなどというものもあるが、そんなことは、まず有り得ない。彼女が属する世界では、許されざるべき、あってはならない話だ。
 とは言え。
 どうやら穢されるまでは至らなかったようだが、それにしても、慰めとするには哀れすぎる。
「シュリさま、もう大丈夫ですよ。あの者はもう出て行きました」
 そっ、とベッドの縁に腰かければ、えぐ、としゃくりあげる声が答える。
「怖がることはありません。ここにおられる間は、この私が、指一本たりともシュリさまに触れることなきようお守り致します。だから、もうお泣きあそばすな」
 幼子に語る甘さを声にのせ、労りを掌に籠めて、蹲る背であろう部分をあやして叩く。
 泣き声は続いていたが、もぞもぞと塊が動いた。
 縁から、震える銀色の毛玉が僅かに覗いた。
「……ご、めんな、さ、い」
 しゃくりあげながら、小さな声がとぎれとぎれの声で謝った。
「なにを謝ることがありましょう」
「だって……」
「怖れて恥じることはなにもありませんよ。逆に怖れない方が不思議です」
「ごめ、ん、な、さい」
「大丈夫ですよ、私がついております。さあ、もうそこから出て、顔を拭いてさっぱり致しましょう」
 シーツで硬く縛りつけるようにしている肩を誘い、胸元に抱く。
 繰り返ししゃくりあげる背中を、赤ん坊にするようにぽんぽんと軽く叩いた。

 ――まあまあ、なんと、まあ。

 間違いなく成人している筈なのに、この幼さは一体、どうしたことか。
 貴族の深窓の令嬢であっても、もうすこししっかりしている。というよりも、あれは、かえって耳年増であったりするから、並みの娘よりも捻くれていたりするものだ。そういう意味であれば、この娘の方がよほどウブで純真とも言えるだろう。見た目さえなんとかなれば。
 くん、と腕の中から立ち昇った匂いに、夫人は小鼻をひくつかせた。

 ――取り敢えずは、湯浴みをさせなければ。まず、この髪をなんとかして、ああ、なんて傷んでいるのかしら。これは、手入れのし甲斐がありそうね。ドレスも見繕って用意させて……

 細い背中を叩いてあやしながら、まずは娘を文化的な生活に相応しくすべく、手順を考えた。




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