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 で、と、戻ってきた執務室で短く問われる不機嫌極まりない顔を前に、カミーユはほとほと困り果てた表情を作ってみせた。
 だが、普通の者ならば容易く陥落されるであろうそれも、目の前の男には毛ほども心うごかすものではなかったようだ。それどころか、執務机の向こうから、長い瞳の端を光らせて睨みつけてくる。
「雌狸に追い立てられて、ほいほいと戻ってきたわけか」
 執務机の上に散らばった書類の一枚が、腹立たしげに指先ではね飛ばされた。
「あの様子では、話にもならないでしょう。無理矢理に連れて来たところで、泣きわめいて昨日の二の舞いかと」
 それよりも、と言う。
「暫くの間、キルディバランド男爵夫人に預けて、いくぶん懐柔してからの方がよろしいかと存じます。女性が相手ならば、あの魔女も心を開きましょう」
「おまえが言うのも妙だな」
「そうですか?」
「おまえも一応は女だろう。そのように男の恰好をしていてもな」
 ルーファスの言葉に、カミーユは薄く笑みを浮かべた。
「覚えておいででしたか。すっかり忘れられているかと」
「当り前だ。そんな細い腕と腰をもつ男がどこにいる」
 異性と知りながら、その見る目に艶めいた光はどこにも見当たらない。
 黙っていれば、間違いなく多くの女性を惹き付けるであろうその容姿は冷ややかで、なんら興味をもっていないことを示していた。
「御希望ならば、ドレスを身に着けますが」
 そんな気などさらさらなく言う。案の定、
「必要ない。不必要におまえとの仲を勘ぐられても、鬱陶しい。それでなくとも、腹が立つ話ばかりだというのに、これ以上の面倒事はいらん」
 まあ、とカミーユは淡い琥珀色の瞳を伏せた。
「私もその方がなにかと都合がよいですから」
「そうだな。おまえを女官程度の椅子に収めては、益となるより損失のほうが上回りもするだろう。いかに伯爵が嘆こうともな。しかし、その女官を前に尻込みしてきたとあっては、考え直さねばならんか」
「いいえ、夫人は女こどもの扱いには長けております。それに関しては、私も到底、彼女には敵いませんよ。上手くすれば、あの魔女を手懐けて、呪いを解くよう説得に加わって貰えるやもしれません」
「……そう上手くいくか」
 うんざりとした様子の深々とした息が吐かれ、艶のある黒髪がかきあげられる。
「解呪はこの国の者にとっては悲願とも言えるものですから。事情を話せば必ずや」
「一刻も時を争うのだ」
「急いてはことを仕損じる、と申しますでしょう。なに、ほんの二、三日の事です」
「その間に、あの無能な馬鹿オヤジが、なにか企むかもしれん」
「おそれながら、現国王陛下は無能ではございませんよ。それなりによくやってらっしゃるかと。ただ、目先のことに気を取られすぎる感はございますが」
 ハッ、と揶揄する笑い声が立った。
「そこが無能だと言うのだ。目先のことなど文官に任せておけば良いものを! お陰でこちらはいい迷惑だ。足下を見られやがって! 尻ぬぐいの為にあんな不細工な女と婚姻させられるなど冗談ではない! それならば、まだオウガの妖怪ババアを抱け、と言われた方がましだ!」
 おおよその者を震え上がらせるだろう怒鳴り声を前に、女の細い咽喉が、クッ、と中途半端に鳴りかける。
 『妖怪ババア』とは本人が耳にすれば腹も立てようが、膝を叩いて同意する者は多いだろう。
 大陸では、一、二をあらそう大国の王妹でありながら特定の伴侶ももたず、日毎に違う男を寝台に連れ込むという噂は、その筋の者ならば多くが知るところだ。そうしながらも、政治を裏から操る手腕は現王を上回りもする。
 カミーユはすまし顔を維持して答えた。
「オウガのキャメロス殿下は、たしか五十を超えていたかと。それでは、さすがに世継ぎは望めますまい。シャスマールのレディン姫は、一応、齢十七歳の才色兼備で知られる方ですよ。並び称するのも失礼かと存じますが」
 現王の正嫡であり、三番目の姫にあたるシャスマールのレディン姫。
 肌の色は抜けるように白く、流れるような金髪は艶やかで、蠱惑的な赤い瞳とひとたび目が合えば、男の理性は狂わされる、とシャスマール国では評判の美女だ。気品に溢れ、理知的であり、楽器や詩歌などにも才覚を示しているという。
 その姫から、このマジェストリア国王家のルーファス王子に熱烈なラブコールがあったのは、つい三ヶ月ほど前のこと。
 なんと、一目惚れだと言う。
 なにがどうなってそうなったのか。
 ふたつ隣の国、ブレンデス王国でたまたま行われた主要国の代表を招いての会議に、父王の名代でこのルーファスも出席した。その時、さすがに公の場ということもあって、ルーファスも比較的大人しくはしていた。
 が、あくまで比較的に、だ。
彼の基準として。念の為に言えば、それは一般基準とはちがうものだったりする。本人は否定するが。
 ルーファスは主張する。
 『つい、腹立ちまぎれに、会議机を真っ二つに瓦割りをした程度だ』、と。そして、その半分を持ち上げ、怒り任せにぶん投げもしたので、会議室の窓ガラスも割ってしまった。椅子も、二、三脚、いや四、五脚ぐらいは使い物にならなくなったかもしれない。
 その程度だと、後日、語った。
 その場にいたルーファス以外の者は口を揃えて主張する。
 会議机は、全員が座るに足る、長さが十メートル以上はあるものだった。上質の板を何枚も重ねて加工した厚みのある、磨き抜かれた高級感溢れる美しい机だった。『鉄の板ほどではないが、巨人族が寝台代わりに使ったとしても大丈夫だろうほどに、強度も充分だった』、と。
 それをルーファスはひとりで、しかも、素手で木くずに変えたのだ、と震える声で他者にその時の様子を話した。
 事実、その場にいた他国の代表は慌てたなんてものではない。悲鳴をあげ、逃げ出し、気を失う者もいた。
 だが、ルーファスにとっては、やはり、『その程度のこと』、だった。
 そして、ここで珍しいことに、ルーファスに同意する者がひとりいた。
 それが、父王の供として出席していたレディン姫である。
 阿鼻叫喚のその中で、同席していたレディン姫の乙女心は、ズッキュンバッキュン音をたてていた。
 レディン姫は主張する。
 『恋の矢の速射連撃を受け、よける間もなくハートどころか全身をグサグサに射貫かれた』
 以来、その時のルーファス王子の姿が瞼の裏に焼き付き、動悸が収まらず、息苦しさまで感じるという。

 ――なにかちがう。
 ――吊橋効果?

 話を聞いた誰もがそう思いもしたが、口にすることはなかった。言ったところで、赤い瞳孔をハート型に変えてしまった姫の耳にはとどかなかっただろう。
 レディン姫も例にもれず乙女だった。
 『我が背の君』。
 ルーファスを指してそう呟いては溜息をつくを繰返している。
 ある面において、この世でひとつの事柄にのめりこんだ乙女ほど最強の存在はいない。しかも、その対象が『恋』という名のものであれば。たとえ、それが勘違いや誤解からのものであったとしても。否、勘違いや誤解があってこそ、恋心は成立するものだろう。
 以来、寝ても醒めても、レディン姫の頭の中からルーファス王子の面影が消えることはないらしい。お陰で、食事も咽喉に通らない有り様で、すっかりと痩せ細ってしまったそうだ。
 それはそれで、儚げな美しさがあって尚よし、という声はあるが、親は心配する。
 シャスマール国王は、子煩悩でも知られる者だった。娘のあまりの様子に、父親である国王も黙ってはいられなくなった。
 ついには、外交政策という名のごり押しを開始したのである。
 それで、ルーファスにとってのこの窮状がある。
 自業自得と言えば、そうかもしれない。話だけを聞けば、陳腐なほどによくありそうなラブロマンスだ。そう悪い話にも聞こえない。だが、普通とすこし違うのは、
「爬虫類の評価なぞ知るものかっ! 鱗だらけの女なぞ、抱く気もおこらんわ!」
「鱗があるのは蛇でしょう。トカゲは、どちらかというと硬い皮膚であったかと」
「どちらでもおなじだ! 大体、どこが胸か腹か尻かもわからん相手に、その気になれるものか!」
「お気をつけを。相手方の耳に入れば、差別発言ともとられますよ。聞こえれば、戦にもなりましょう」
 そうなのだ。
 シャスマール国は、本人たちが言うには、由緒正しいトカゲ族が支配する国だ。
 体格は人間のそれとそうも変わらない、二足歩行のトカゲたちによる独立国家である。
 現在、そのトカゲ族の姫との婚姻が持ち上がり、ルーファス王子はそれを阻止せんとじたばたと足掻いている最中だ。八方手を尽くして魔女を探し出したのも、その為だった。
 すべては、いまいましい呪いを解き、トカゲ族に対抗する力を得るために。
「そうはおっしゃいますが、実際は、そうでもないみたいですよ。巷で耳にするには、トカゲ族は背筋がまるでゴムのように伸びるとか。ゆえに、人には無理な態勢も難なくこなすため、夜のお相手としては随分と愉しめるそうですよ。トカゲ族専門の好事家も少なからずいるそうで」
「知るかっ!」
「高級娼館では、夏場は特に体温も低いために心地よいからと、売れっ子になる娘もいるそうですよ。そんなことは、しょっちゅうお忍びで遊ばれているあなたの方が御存知だと思っておりましたが」
「そんなマニア共と一緒にするな! 不愉快だ!」
 青筋をたてて怒鳴る声は、ピークに達した。
「おまえはトカゲ顔の王妃と王子に仕えたいのかっ! いずれは王と呼びたいかっ!?」
 それには、カミーユも笑みを消した。
 一字一句はっきりと、いいえ、と答える。
「いいえ、決してそんな事は望みますまい」
 正直に言えば、多くの家臣たちも、王子とトカゲ族の姫との婚姻には抵抗を感じてはいる。まるっきり姿形が違う者をいずれは王妃となろう立場に迎えるのは、やはり、違和感以上のものを感じている。
 視覚的な印象はとても重要だ。
 が、諦めの方が強い。抵抗しても、こちらの分が悪いことが目に見えてわかっているからだ。
 あらゆる種族が混在するこの世界で、これまでもそういった繋がりがなかったわけではない。現に、魔ジェストリア国王家の血にも、幾許かはドワーフやら妖精族の血が流れはしているのだ。ルーファスの人並外れた強靱さは、先祖返りの部分もあるのだろう。
 それを考えれば、致し方ないと考えるしかない。しかも、呪いがかかったこの国では尚更。いつかあるのでは、と誰もが覚悟していた事だ。それが、たまたまトカゲ族であった、ということ。
 だが、問題はそんなことではない。
 たとえ、人間族のどんな美姫であろうと、この王子は拒むに違いないことをカミーユは確信している。求める、たったひとりを除いては、何者であろうと、その心にかすりもしないだろう、と。
 それが、どんなにか細い可能性しか残されていないにしろ、完全に望みが断たれたと知るまでは、諦めないに違いなかった。
 遠い昔にした、たったひとつの約束のために。
 ルーファスが、いまのルーファスであるのは、そのためなのだから。
「貴方が望まぬ限りは、全力で阻止いたしますよ」
 カミーユは、この上なく美しい微笑みをその顔に浮かべた。
「私のために席を用意して下さる貴方のためにならば、喜んで持てる力のすべてを揮いましょう」
 それを知るから、彼女はこうしてここにいる。
 肉体では劣る人の身でも、他種族より優れるものはある。
 知恵。そして、忍耐。
 もっとも、後者については、彼女の主には少し足りぬものではあるけれど。それはさして問題ではない。そのために、誤解を多く受けはしても、知るべき者さえ知っていれば良いだけのこと。
 有象無象は、端から当てにはしていない。
 カミーユは、おのれの唯一の主たる者の顔を見る。
 ルーファス・エルネスト・サルバントス・ド・マジェストリア王太子殿下。
 肉体においても精神においても人並はずれた強靱さを備える、次代の王。
 彼は彼女のために生きる場所を与え、そして、彼女は彼女として、己の伎倆を発揮することを望んだ。
 これは、一種の契約だ。
 彼女の忠誠心は、彼の下にのみある。それは、なにがあろうと今後も変わることがない。
「ならば良い」
 強い意志の光を宿す瞳を、カミーユは真正面から受け止める。
「それで、魔女の師匠とやらの手掛かりは見付かったのか」
「……お気づきでしたか」
「あれだけぎゃあぎゃあ喚き立てられればな」
 ふん、とせせら笑う声が答えた。
「魔女の師匠となれば、やはり、魔女に違いあるまい。あれが役立たずであった場合も考えて、保険は必要だろう」
 ほ、と息を吐くように、カミーユは頷いた。
「今、付近の者たちにあたらせております。確かに、あの娘とは別の魔女がいたという話が入ってきております。が、所在まではまだ」
「引き続き、探させろ。あの娘からも聞きだせるようならば、聞きだせ」
「畏まりました。キルディバランド夫人にもそれとなく伝えましょう」
「ああ、あの魔女が話ができるようになったら、すぐに知らせろ。いつでもかまわん」
「そのように」
「下がれ」
 王子の視線はすでに、カミーユから離れ、手元の書類にうつっていた。
 彼女はその顔をもう一度眺め、そして、静かに部屋を退出した。




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