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 ちいさな火種はあるにしても、気付かなければないのと同じこと。
 知られず消えることもあれば、揉み消すことも往々にしてある。
 しかし、ここにあるちいさな火種は、密かに育ったようだ。
 たったひとりではあるが、王宮の長い廊下を急ぎ足で進む者がいるのが、その証拠。
 さかさかとドレスの擦る音をさせ、眉間に一本の濃い縦筋を刻んだ顔で、キルディバランド男爵夫人は一直線に目的地を目指していた。
 世話を任された魔女の娘と、ほんの一刻ほどの平和な時を過した後のことだ。
 見るからに急ぎの様子。
 だが、背筋はしゃんと伸ばし、頭も肩の位置も一定であるところは流石と言えよう。
 さながら、かま首をもたげて走る蛇のごとく。殺気さえ漲ってみえる。
 そして、夫人はその目的地の部屋の扉を、力一杯に押し開けた。
「一体、あれはどういうことですのっ!?」
 鼻息を荒くし怒鳴る声は、普段の夫人では考えられない慎みのなさだった。
 だが、部屋で書類を読む主はそれを咎めることもなく、片方の眉を僅かに上げただけだった。
「これはキルディバランド男爵夫人、なにか問題でも」
 椅子の上からすまし顔で見上げる顔に夫人は詰め寄ると、興奮を押さえきれない声をあげた。
「問題どころではありませんわっ! あの娘は、どこの何者なんですっ!」
「立ったままでのお話はなんでしょう。どうぞ、その椅子をお使い下さい。ああ、出来れば、声量も落して頂ければありがたいですが」
 部屋の主であるカミーユは微笑みを浮かべ、立てた指の一本を唇に当てた。
 それに夫人は眉間の皺をいっそう濃くしたものの、口を閉じた。
「ジュリアス、暫し、席をはずしてくれないか。夫人と大事なお話があるんだ」
 カミーユがそう言えば、執務の手伝いをしていた年若い、まだ十五ぐらいだろうかの金髪の少年が、はい、と頷く。
 見るからに育ちが良さそうな美少年だ。そして、年に似合わぬ洗練された動きで一礼すると、静かに部屋を出ていった。
 カミーユの周りには、美少年が多い。将来性を見込んで、いまのうちから教育を兼ねてアシスタントとして使っているという話だが、そういう嗜好なのだろうと専らの噂だ。特に夜において。
 いかにも胡散臭いものをみる目付きで、キルディバランド夫人は少年を見送った。
 扉の閉まる音を聞いてゆっくりと立ち上がったカミーユは、執務机の前にでて、端の方に腰かけるようにして凭れた。
 どうぞ、と改めて夫人に椅子をすすめる。
 落ち着き払ったその様子に、夫人もひとつ軽く咳払いをして、椅子に腰を落ち着かせた。
「なにを企んでいらっしゃるのかしら」
 前に立つ王子の側近を睨め付けながら、言葉尻もきつく夫人は問いただした。
「いくら、王子のなさることとは言え、あのような娘をかどわかしたとほかの者の耳に入りでもすれば、ただごとではすみますまい」
 それには、小首が傾げられた。
「おや、御説明はお聞きになったでしょう。ああ見えても、彼女は魔女ですよ」
「魔女!」
 すっかりと、失念していた事実。
 そう言えばそうだった、と胸中の声が発した言葉に含まれる。舌打ちする音も。
 うっかりとした忘却に軽蔑の色もなく、淡い琥珀の瞳が流された。
「ほんとうの事ですよ。この国にかけられた忌まわしいあの呪いを解かせるために、王子がお連れになったのです」
「それだけかしら」
 夫人は薄青い瞳で怒り、口元には笑みを浮かべて言った。
「あの娘の顔をご覧になった上でのことではございませんこと? その耳の形も!」
「ああ、たしかに」、とカミーユは言った。
「確かに見ましたよ」
「やっぱり!」
 こめかみに青筋を浮かべてあげる夫人の声が、静かな部屋にこだました。

 キルディバランド男爵夫人は、侍女たちに言い付けて、世話を任された娘の為に着替えを用意させると同時に、まずは湯浴みをさせることから始めた。
 髪に隠れて見えないが、顔は涙でべたべたであろうし、少々、年頃の娘には似付かわしくない匂いも立ち昇っていたからだ。
 最初に身体を清めてから、その長い髪をなんとかすることにした。 「邪魔になりますから、その髪を上げましょう」
 そう言った途端、シュリは飛び上がらんばかりに驚いた様子で、首を横に振った。
「だ、だめですっ!」
「だめ?」
「絶対に、人前では髪はあげるなと、師匠からの言い付けで!」
 まあ、と夫人は首を傾げた。
「どうしてそんなことを? 身体を洗うのに邪魔でしょう」
「でも、そうしないと、ちゃんとした魔女にはなれないって言われて」
「髪を切るのではなくて?」
「勿論、切るのも駄目ですけれど、それでも、先の方ならかまわないのです。長すぎても、椅子で踏んだり、竃の火が燃え移ったりしたらいけませんから」
 そう答える娘の手は、形は良いが、普段から働いているらしい者の手をしていた。
「でも、髪をあげることはしてはいけないの?」
 夫人は首を傾げ、娘の説明するところを考えてみる。
「つまり、顔を他人に見せてはだめ、ということかしら」
 すると、こくり、とシュリは頷いた。
 ふむ。
 妙な話だ、と思いながらも夫人はすこし考えた。
「では、顔を見せなければ良いのね。では、邪魔にならない程度で上にあげるのは良いかしら。半分だけ持ち上げて、上で留める感じで」
「ええと……それならば、良いかと」
「では、そうしましょう」
 同意を得て、夫人はにっこりと笑顔をみせた。
 そして、出来上がったのは実に奇妙な光景だった。
 思わず、手伝わせた侍女たちが、忍び笑いを洩らしたほどだ。
 腰まで届く長い銀色の髪を、真ん中から少し上の方で折り、束ねて縛った上で頭頂部でピンで留めた。
 娘の胸元で、緩く撓んだ銀の髪の束が、長細いタマネギの形をつくって揺れた。
 シュリも、おのれの滑稽なさまが分かっているのだろう。
 もじもじとする仕草に、夫人は侍女たちを下がらせ、自らの手だけで先を続けることにした。
 偶然のこととは言え、あとから考えれば、これは実に適切な措置であったと言わざるを得ないだろう。
 だが、その時はそんなことは露ほどにも思わず、夫人は娘は部屋に隣接する湯殿へと連れて行った。
 服を脱がせ、広くはないが人ひとりには充分な大きさのある湯船に浸からせた。
 因みに、湯は天然に湧き出るものをひいて使っている。自然と湧き出る豊富な湯量は、城の者たちにとって、最もありがたいもののひとつだ。
 シュリにとっても、それは良かったらしい。
「あったかあい」
 嬉しそうに声をあげる娘の背を洗うのを手伝いながら、夫人は、それとなくその身体を検分した。
 雪のように白い肌は滑らかで、柔らかいだけでなく張りがある。
 指先でこすれば、衣擦れに似た音がたつほど。
 胸も尻も、形といい大きさといい、申し分なし。腰もよく締まっている。
「ひ!」
「あら、失礼いたしました」
 悲鳴はいただけないが、感度も悪くない。恥じらう様子も初々しく、尚、よろし。
 夫人は、内心、狼狽え始めていた。
 この娘、男を悦ばすには充分な資質を備えていると言えるだろう。王子が手篭めにしようとしたのもわからなくもない、と勘違いのままに思う。
 しかし、問題はその容姿。
 顔を見せるな、と娘の師匠は言ったそうだが、見るなと言われれば見たくなるのが、人の性。
 どんな顔をしているのか?
 見たい、見たい、とうずうずと好奇心が蠢く。
 一通り身体を洗い終えて、夫人は、娘の髪を解いた。
 水飛沫をあげて濁った湯の中に一斉に落ちる、銀の簾。
「髪も洗いましょう」
 返事を待たず、頭上から勢いよく湯をかけた。
 ひぃっ、と高い悲鳴があがり、壁に反響した。
 だらだらと湯を滴らせる姿は、濡れ鼠というよりは化物に近い。べったりと髪を頭から身体に張り付かせ、哀れなまでのさまだ。
 しかし、夫人は躊躇うことなくその髪を、専用の特別製の石鹸で泡立てた。
 シャボン玉が飛び交う中、背後から毛足の長い動物を洗うように力をこめて、だが、丁寧に娘の髪を洗った。
 そして、気がついた。
 ぺったりと頭に張り付く髪の間から覗いた耳の形に。

「あの先の尖った形の耳! あれこそ、妖精族の血を継ぐ者の証でございましょう!」
 否と言わせぬ勢いで凄む夫人に、カミーユは苦笑いを溢した。
 襲われると勘違いしたか、娘が意識を失う直前、彼女が確かめたのもそこだった。
「顔はご覧になったのですか」
「はっきりとは。しかし、ちらりと見た感じでは、相応の美しさはあるかと」
「ほう」
 申し開きをせよ、と語る顔を前に、僅かに瞳が細められた。
「或いは、陛下のお、」
 カミーユは、もう一度、唇に指を当てた。
「キルディバランド夫人、滅多なことは口になさらぬがよろしかろう」
 その口元は弧を描いていても、目は笑ってはいない。
 はっ、として、夫人は口を閉ざした。
 ただの予感程度であったものが真実であることを、その僅かな仕草が示していた。
 王子の側近は、優美な仕草で落ちる前髪を横に撫で付け、声も静かに言った。
「申し上げておきますが、殿下はこの事をいっさいご存じありません。私はとある拍子にそれを知りましたが、殿下には申しておりません」
「御存知ないと? なのに、あの娘をお連れになったのですか」
「言ったでしょう。彼女は魔女です。殿下は彼女に呪いを解かせたい、それだけの理由でお連れになっただけです」
「お手付きになさろうとしたと、脅されたというのは」
「あれは、ちょっとした行き違いというか、勘違いです。殿下はただの魔女にしか思っておられませんので、出来なければ斬り殺すと、まあ、ほんの冗談のようなもので。それを彼女が大袈裟にとっただけのことです。指一本触れるどころか、顔もご覧になってはおられませんよ」
「しかし、それでは」、と夫人は視線を泳がせた。
 目の前にいる者の言葉をどこまで本当と受け止めるべきなのか、戸惑いに揺れる。
 何かを企んでいるにしても、その目的が分からなかった。
 落ち着いた声音で、女だてらに男の恰好をした夫人の半分の年でしかない娘は言った。
「あの者がどういう出自の者かまではわかっておりませんし、知る必要はないでしょう。彼の方と縁のある者だとしても、それを周囲に知られてはよけいな騒ぎを起こすだけです。ならば、このまま知らぬふりをして、ことが過ぎるのを待つのが得策かと。目的さえ達することさえできれば、殿下はすぐにあの娘をお帰しになられるでしょう」
 知らぬふりをして、さっさと用事だけすませて帰してしまえ、とその顔は言う。
「ですが、妖精族の血をひくものとなれば、数が限られます。確証はないものの、もし、万が一、本当にあの娘が彼の方に縁があるものであるとしたら、それこそ問題であるのではございませんこと? とりもなおさず、我が国とも無関係とは言えぬことなのですから」
「それを今更、知ったところでどうなると言うのです。それを、あの娘にお話しなさるおつもりですか。許してくれ、と王に謝罪をさせるおつもりですか」
 目に見えて顔色を青くするキルディバランド夫人を、冷たい表情が見下した。
「過ぎたことには、よけいな嘴を挟まぬことです、男爵夫人。御身と御家のためにも。それでなくとも、その話は我が国では禁句なのですから。これ以上、よけいな詮索をなさらぬほうが身のためでありましょう。勿論、このことは、他言無用に願います。ああ、間違っても、あの娘の髪を上げるような真似はせぬようお願い致します。余計な騒ぎを引き起こさないためにも」
「当然、わかっておりますわ」
 精一杯、背筋を伸ばして、夫人は虚勢を張って答えた。
 間違っても、小娘の前でこれ以上、動じた表情などみせるわけにはいかなかった。
「流石です」、とうって変わって、誰もがうっとりするような笑顔をカミーユは浮かべた。
「ご信頼申し上げておりますよ、キルディバランド夫人。だからこそ、殿下も貴方に彼女をお任せしたのです。口も硬く、王家にこのうえもなく忠実な貴方を見込まれて」
 その笑顔に不本意にも見とれつつ、胡散臭い、と男爵夫人は心の内で思う。
 優しげな顔の裏側で、一体、なにを企んでいるか知れたものではなかった。だが、この小娘の言うことにも一理ある。余計な荒波を立てることは、彼女にとっても得策とは言えなかった。夫人は、基本的に事なかれ主義の熱心ともいえる信者だった。
 ひとつ息を吐いて、瞬時に考えをまとめた。感情をおさえ、口調も改める。
 このあたりの切り替えのうまさが、ベテランならではだろう。
「では、殿下に会われて話をうかがうよう、私からも説得すれば宜しいのですね」
「話がはやくて助かります」
「それで、無事、ことが成ったあかつきは」
「たとえば、御子息も文官としての勤めにも慣れられた頃。今の配置では少々、物足らなくもなっておられるのではないですか」
「ええ、それも御座いますが、実は、娘にもそろそろよいお相手がおらぬかと考えております」
「ああ、なるほど。ああ、そう言えば、二、三、同じようなお話を小耳に挟んでおりますよ。いずれも名門の御家ばかりで」
「然様でしたか」
「ええ。近々、お会いする機会もございましょう」
 淡々とした会話の間に、そこはかとなく狐狸の匂いが立ちこめる。
「では、よしなに」
 ぱん、とどこからか、一本締めの音が聞こえたのは幻聴か。
 小娘対大年増の直接対決は、こうして手打ちとあいなった。
 主役となる者を留守にして。
 そして、話題の中心となった娘は、と言うと、
「うわあ、お姫さまみたい」
 すっきり、さっぱり。
 ひとっ風呂あびて、機嫌もすっかり直った。
 実に、単純。こういうところも、魔女らしいと言うのだろうか。
 シュリは部屋でひとり、着替えさせられたばかりのレースつきの濃い緑色のドレス姿を等身大の鏡に映し、まわってみたり、お辞儀をしたりとしごく御満悦だった。




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