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 とっぷん、たぷん!
 ともすると、押し寄せる波に足下が掬われそうになるところを、しっかりと踏ん張る。
 シュリを抱きかかえたルーファスは、小鳥の姿の魔女に言った。
「ただ意識せず、独言を呟いただけなのだろう。そんな時はだれにでもある。シュリも、まさかこんなことになるとわかって口にしたわけではあるまい」
「当たり前だ。わかってやっていたら、この程度ですませるわけがない。まったく、ここまで水の精が集まるとは……散るように言ってもききやしない。このままでは、大雨さえ呼ぶよ」
 空中で羽ばたきながら答える小鳥の頭上では、灰色の雲がかかりはじめている。
「それは困る。なるべく早く片付けるに限るな。それで、あそこにランタンがかかった柱が見えるだろう。埠頭の先端だそうだが」
 ルーファスは慌てることもなく答えた。
「あそこにアレを誘導してくれ。水深もそれなりにあるようだから、陸に打ち上げられて帰れなくなることもあるまい」
「ああ。まあ、多少ならばアレも大丈夫だろうが、海の中の方が安心だろう」
「ただ、俺たちの方はアレの移動中は、来る波に隠されて足下も怪しく危険だ。海に落ちないとも限らん。アレが到着してから水が引いた時点で、シュリを連れていく。その旨、承諾させろ」
「それはかまわないけれど、ひとつ条件があるよ」
「なんだ」
「アレの見ている前でシュリに触れてはいけないよ。アレが暴れださないとも限らない。少し離れて立っているだけならばいいだろう」
「嫉妬か?」
「似たようなものだね。あの子たちは、ディル・リィを人間にとられたと思っている節もあるから」
「面倒な。別人だと教えてやれ」
「無理だ。では、行くよ」
 あっさりと答えて、巨大蛸のところへ戻っていく小鳥をルーファスは見送った。
 また、シュリとふたりきりだ。
 しかも、シュリは彼にしがみつき、幼子のようにえづく声をあげて泣いている。
 後悔もあるだろうが、思わぬ事態に驚いてのことだろうと思う。
 実際、だれもこんなことが起きるとは予想していなかったから。
 ルーファスは、シュリの細い背を軽く叩いて慰めてやる。
 涙やら鼻水やらで彼のシャツの胸元はぐちゃぐちゃだろうが、かまうことはない。
 惚れた女ならばいくらでも頼られてやるし、服の一着や二着、十着や百着を駄目にしたところでノンプロブレムだ。
 むしろ、熱烈歓迎。
 水の中ということさえなければ、この密着具合は願ったりだ。
 そして、成程、と別のところで納得した。
 こんな可能性をも慮って、魔女はシュリを森から出さなかったのか、と。
 ただ、シュリの身を守る理由だけでなく。
 たったひと言呟いただけで、この状況。
 確かに、人が扱うには荷が勝ちすぎる。
 精霊たちにとっては、言うなれば、シュリはひとつの『絶対的な法』というわけだ。
 彼女の価値観や感情が、精霊たちの動向に影響を及ぼす。
 使いようによっては便利かもしれないが、危険も大きい。
 昨日や今日の事がよい例。
 悪気はなくとも、歩く迷惑。
 いや、迷惑のレベルを超えている。
 誰もいない森の中であれば被害にならなくとも、同じことが人里の真ん中で起きれば災害だ。
 損害は人々に怒りや憎しみ、悲しみを生む。
 そして、それらの感情の向かう先は自ずと知れる。
 それは、シュリにも人々にとっても、最悪の事態だろう。
 だから、シュリが魔女になるにしろ人として生を終えるにしろ、いちばん無難な選択だったろうと、いまならば彼にもわかる。
 やりようによっては、世を支配することも可能。
 その力は、脅威ですらある。
 人の理で単純に考えれば、崇めるか、排斥のどちらかしかない。
 正に、国なき女王と言うにふさわしい。
 たとえこの先、あってはならないことだが、シュリが他の男を好きになったところで、似た状況に遭えば、相手がドン引きしてトンズラここうが不思議はない。
 だが、しかし。
 だからこそ、だ。
 これらを許容し無事に収めてみせれば、ルーファスこそシュリに相応しい相手であることの証明になる。
 そう考えれば、彼にとってあながち悪い状況ではない。
 シュリに、彼の傍にいれば安心、と思わせられたならばこっちのもの。
 結果を予想すれば、自然と頬は緩む。
 どんとこい! ばっちこい!
 思わず高笑いしたくなるのを、寸でのところでルーファスは堪えた。
 が、うっかり溢れてしまった感情は、笑みの形になって口の端にのぼる。
 その表情は、はっきり怪しい。
 不気味と言ってもいいくらいだ。
「そなたも悪よのぉ」、とか台詞もつければ完璧。
 しかし、その顔もすぐに引っ込めた。
 頭を冷やせと言わんばかりの大波がやってきて、頭から海水をひっかぶったせいだ。
 ざぶん! ざぶん! ざぶん!
 ルーファスは咄嗟に身を盾にしてシュリを庇ったが、三度続けざまのそれに結局は甲斐なく、どちらもこちらも頭からずぶ濡れになった。
「しょっぱい……」
 ルーファスの胸元でシュリが呻いた。
 ぽたぽたと雫を落としているが涙はなく、吃驚が上乗せさせられて泣き止んだらしい。
「大丈夫か」
 シュリの長い髪からはぼたぼたと水が垂れて、まるで海藻を被っているかのようだ。
 シュリは身を離して自分の髪を両手で掴むと、雑巾でも扱うかのように横でねじって絞った。
「うう、気持ち悪い」
 そして、次に濡れて萎んだドレスの裾も引っぱり上げて一気に絞りあげた。
 たっぷり含まれていた大量の水が、滝のように落ちる音がした。
 ぴったりと服が張り付いて線も露な胸元やら、かわいらしい膝小僧と柔らかそうな白い太もももチラリと見せながら。
 むかしむかし、川で洗濯をしていた女のふくらはぎを見た仙人が、散歩中の空から思いきり落下した噺があったが、そこまでうぶでないにしろ、男の助平心を刺激するにはじゅうぶんだ。
 ルーファスの視線は釘づけになり、所在をなくした両手は、収まる位置を求めてわきわきと怪しい動きを見せている。
 が、呟くような「ごめんなさい」の一言に動きが止まった。
「乾かせたらいいんですけれど、今、風の精を呼ぶと嵐になるかもしれないので……」
 銀髪の間からひょっこり覗く先の尖った耳が、心なしか伏せ気味になっているように見えた。
「これだけ水の精が多いと火の精は役に立たないし……風邪をひいたら、ごめんなさい。あと、えっと、迷惑かけてごめんなさい。わたしもうひとりでも大丈夫ですから。これ、自分でちゃんと片づけますから。だから、戻ってくださっていいですから」
 風邪をひく前に、戻って着替えろと言いたいらしい。
 そう言いながら、シュリ自身はふるふると細かく震えているのがわかった。
 寒いのか、これから行うことに怖れているのか――おそらく、両方だろう。
 その遠慮がちな気づかいがルーファスにとっては可愛いものであったし、ちょっと嬉しかった。
「俺のことは気にするな。それほど柔じゃない」
 ルーファスは手持ち無沙汰だった両手で、遠慮することなくがっしりとシュリを抱きしめた。
「終わるまで傍にいてやる。俺がそうしたいからだ。だから、おまえは自分のことだけを考えていればいい」
 いいこと言った自分!
 思わず褒めてやりたいところだが、だが、しかし、

 べしゃっ。

 突然、ルーファスの視界が闇に包まれた。
 高速でなにかが顔面を直撃したことだけはわかった。
 ひゃっ、とシュリが声をあげ、あっという間に手の中の感触が失われた。
 さしものルーファスも、一瞬、なにが起きたかわからなかったが、開いた目で己の手を見て理解した。
 顔をぬぐった掌にべったりとついたのは、真っ黒い墨。
 因に、シュリには一滴もかかった形跡はない。
 水が引き始めている埠頭の向こうを眺めれば、尖った口先を彼の方に向け、八本の足がうねうねと挑発するかのように蠢いている。
 いつの間にか着いていたらしい。
 その距離、およそ五百メートルほど。
 この飛距離をピンポイントで正確に当ててくるなど、やたら眉毛の太い無表情の暗殺者ほどではないが、大したものだ。
 敵ながらあっぱれ、と言いたいところだが、元よりルーファスに寛容さを期待するほうが間違っている。
 目つきは最悪。
 こっちもだが、向こうも。
 メンチ切っているとでもいうのか。
 言葉は通じずとも、その心情は嫌でも伝わる。

 ――蛸風情が!

 でかかろうがなんだろうが、蛸は蛸だ。
 ルーファスのむかつきの導火線に火がついた。
 ビーム光線のようにまっすぐ伸びた視線が互いに交わった時、なにもない空間にばちばちと音をたてて火花が散った。
「……の野郎っ、上等だっ!」
 売られた喧嘩はもれなくきっちりお買い上げする性格、いわんや、好いた女絡みであれば尚更。
「シュリッ、ここで待っていろ!!」
 叫んでルーファスは、ひとり水しぶきをあげながら、だあっとばかりに埠頭の先端目指して走っていった。
 そして、やおら剣を抜き放つと、
「覚悟っ!」
 巨大蛸に向かって切り掛かっていった。
 王子対巨大蛸。
 神話にでも出てきそうな戦いだ。
 ひとりの美しい娘を巡って、命をかけた対決やいかに!?

 ……でも、どこか締まりなく感じるのは、なぜなんだろう?




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