ルーファスは勇敢だった。
自分よりも何倍、何十倍と大きな怪物に向かって臆することなく剣を振るい続けた。
縦横無尽に向かってくるいくつもの吸盤のついた八本の足を掻い潜り、飛んでくる墨を巧みに避けながら、力あらん限りに戦い続けた。
巨大な蛸の足は、鞭のようにしなり、草の蔓のように搦め捕ろうとし、磁石のように剣に吸い付いて奪い取ろうとした。
それらの攻撃をルーファスは払いのけ、跳躍して躱し、いなし、素早く走り抜けて逃れた。
そうして、やっと届いた刃。
しかし、どうしたことか、表皮を切ることすらかなわず跳ね返される。
ぬめる表皮に柔軟な肉が、研ぎ澄まされた剣を包むようにして受けとめたようだ。
万事休すか。
あざ笑うかのように、頭の下からのぞく蛸の丸い目玉がわずかに細められた。
ルーファスはひとつ舌打ちすると、剣を両手にしっかり握って持ち直し、再度、振りかぶった。
彼は諦めてはいなかった。
右に左に攻撃を避けながら、わずかな隙を狙う。
そして、その瞬間が来た。
瞬きする間のわずかな時だ。
だが、それをしっかりと見逃すことなくルーファスは己の全身全霊をこめて、剣を一閃させた。
ぶつり、と肉のちぎれる音がした。
赤黒いいっぽんの足が、途中から消えていた。
生々しくも丸く白い切断面がひくひくと動くのを見た。
ひるむように他の足からの攻撃もやんだ。
ルーファスが、やったとばかりに続けて二刀めを打ち入れようというその時、
「だめぇえええええええええええええっ!!」
背後に、高い叫び声を聞いた。
なにが起きたのか、シュリにはすぐに理解ができなかった。
ルーファスがいつもの怒鳴り声をあげたかと思えば、気がついた時にはそこにいなかった。
周囲を見回せば、埠頭に向かって一直線に白い線が見えた。
ルーファスだ。
いつの間にか水は足の甲に打ち付ける程度まで引いていて、全速力で蹴立てる白波が線となって見えているるらしい。
そして、その先にはシュリの見たことのない生き物がいた。
――うようよのでろんでろんっ!!
正にそれそのもの。
色は赤っぽいけれど。
想像でしかなかったそれを、まさかこんなところで現実に目にしようとは!
あれが巨大蛸というものだろう。
「覚悟っ!」
一声あげて、ルーファスが斬り掛かっていくのが見えた。
――ダメッ!!
シュリも走り始めた。
あれは、シュリに会いに来たのだから。来てくれたのだから。
姿は不気味でも、大事な精霊の仲間だ。
見た目は関係ない。
精霊はいつだってシュリの味方で、いつでも優しくしてくれる。
困っている時には助けてくれる。助けようとしてくれる。
絶対に彼女を傷つけたりはしない。守ってくれる。
時には行き過ぎて困ることもあるが、別に悪気があってやっているわけではないことぐらい、シュリにもわかっている。
それを傷つけようなどとは言語道断。
絶対にあってはならないことだ。
焦る気持ちに背を押されて、シュリは必死に足を動かした。
だが、下駄もしくは便所サンダルは、当然、走るのには向いていない。
あまりのもどかしさに、途中で履き捨てて走り始めた。
素足に打ち付ける地面からの痛みと、靴擦れからの痛みに耐えながら。
しかし。
やっと到着したその目の前で、惨事は起きてしまった。
一刀両断にされる、蛸の足いっぽん。
捩れて見える足先が、跳ねるようにして宙に舞った。
そして、続けざまにルーファスが剣を振るおうとしているのが見えた。
「だめぇえええええええええええええっ!!」
シュリは力いっぱいに叫んだ。
叫びながら走った。
ルーファスを追い越し、脅えたように全部の足を丸めた蛸の前に出た。
シュリが守るのだ、守らなければならない。
その一心で怖さも忘れ、両腕を大きく広げてルーファスの前に立ち塞がった。
「シュリ」
剣を掲げた姿勢のままで動きを止めたルーファスが、虚を突かれたような顔をしていた。
墨で真っ黒ではあったが、どんな表情をしているかはわかる。
「これ以上、乱暴しないで! しちゃダメです!」
精いっぱい睨み付けてシュリは言った。
「しかし、そいつは、」
「これ以上、この子を傷つけたら許さないっ!」
そして、言った。
「乱暴する人は嫌いですっ! だいっっきらいっ!!」
硬直したルーファスに背を向け、シュリは巨大蛸に向き直った。
「ごめんね……せっかく会いに来てくれたのに、こんなことになって……ごめんなさい」
「痛い?」、と尋ねれば、ふるふると大きな頭が揺れるように左右に動いた。
それでも、頭に半分隠れるように奥まったところに見える丸い目の表面に、薄い水の膜がたまっているようにシュリには見えた。
「ごめんね。許してね」
そうっと、いちばん近くにある足の表面にシュリは触れると、撫でた。
どっぱん、と何処からか大きな水音がした。
「なに?」
音のした方を見ようとすると、なんでもない、と言わんばかりに蛸の足先が伸びてきて、器用にそうっとシュリの頭を撫で返した。
ほかの水の精たちも周囲に集まってきて、シュリと巨大蛸を取り囲んだ。
シュリの視界は精霊たちに埋め尽くされ、他は見えなくなる。
みなダンスを踊るようにくるくると回りながら飛び跳ねている。
その様子は見ているだけで楽しく、シュリも嬉しくなる。
「怒っていない?」
もういちど問えば、大丈夫、と巨大蛸だけでなくそこにいる精霊たちは、揃って身体を左右に振った。
「ありがとう」
シュリはほんの少しの笑顔で答えた。
「じゃあ、お礼とお詫びにみんなのために唄うね」
本来の魔女見習いの仕事だ。
精霊たちが多く集まりすぎた時に唄う、鎮めの唄。
精霊たちの為の子守歌だ。
一種類の精霊の力が極端に旺じてしまった場合には魔女であっても止められないが、今はまだ水の精が集まってきているだけで、たいして力を発揮してはいない。
ぎりぎり、まだ間に合うタイミングだ。
風の精霊を呼んで散らす方法もあるが、水の精霊をかえって刺激することになり、嵐になることは避けられないだろう。
穏便にすませられるのであれば、その方がいい。
人々のためにも。
幸い、水の精たちの機嫌もよく、唄って眠らせることは難しくないだろうと思われた。
水には水の、風には風の、土には土の、ほかにもそれぞれの要素ごとに音の好みが違う。
水の精霊たちがリラックスする時には、音階は少し低めでゆったりとした曲調を好む。
踊るには遅すぎる三拍子だ。
ざっぷん、とっぷん、たっぷん、と起伏の緩やかになった打ち寄せる波に乗せてシュリは唄った。
流れる彼女の声にあわせて、精霊たちもゆらゆらと気持ち良さそうに揺れる。
揺れながら、そのちいさな身体は次第に下へとさがっていく。
ゆっくりと。
緩やかに流れ落ちる滴のように。
そうして、海の中へと戻っていく。
ぽつん、ぽつん、と雨が落ちるようなちいさな波紋を水面に浮かべ、精霊たちは、海の揺り籠に戻っていった。
シュリが唄い終わった時、そこに残っていたのは巨大蛸と眠りにつかなかった水の精霊たち。
その数は、唄いはじめた時にくらべて、四分の一以下ぐらい。
空にかかっていた灰色の雲も消え、青空をのぞかせている。
成功したようだ。
精霊の密度の低くなった場所に、さあっ、と吹き込むように、風の精霊と光の精霊たちが戻ってきた。
余韻に浸るかのようにうっとりと目を細めていた巨大蛸が、もぞもぞと動き出した。
足先で帽子を軽く持ち上げるかのように頭の入り口のところを探っていたかと思うと、なにかを引きずり出してきた。
見れば、皿状になった大きな二枚貝の貝殻の片方。
ひと抱えあるほどに、かなり大きい。
それを、シュリに恭しくも差し出した。
「くれるの?」
目を丸くしてシュリが問えば、巨大蛸はこっくりとうなずいた。
貝殻はただの大きな貝殻ではなかった。
その中心には、これもまた見たこともないシュリの頭ほどの大きさのある真珠が載っていた。
そして、周囲を飾るように金銀宝石がてんこ盛りに盛られて光っている。
「きれい……」
シュリにはそれらの価値はわからないが、綺麗だということはわかる。
おそらく、巨大蛸の宝物だろう――戦利品というのかもしれないが。
どこぞの輸送船が何隻犠牲になったかは、シュリの思いつくところではない。
「大事なものじゃないの? わたし、今、お返しできるものなにも持ってないし……」
すると、巨大蛸はもじもじとした仕草をみせてから、先が丸まりそうな足先がシュリを指して、次に自分に向けられた。
「ええと、ひょっとして、名前が欲しいの?」
巨大蛸は、こっくりとまたうなずいた。
「わたしが名付けていいの?」
うん、と今度ははっきりと頭を上下させた。
「わかった。じゃあ、ちょっと考えるから待っててね」
むむむ?
首をかしげてシュリは考えた。
やはり、名前はちゃんとしたものをつけてあげたかった。
名をつけるにあたって明確なルールないが、名を持つ精霊は滅多にいない。
人の都合でつけられた通称はあっても、真名にはならない。
精霊同士で名前を付けあうことはなく、つけることが出来るのは魔女か魔女に準じる者だけだ。
真名を持つことによって、精霊は個としての存在が確かなものとする大事なものだ。
「ええと、ウヨ、ヌロ、デロ……」
しかし、シュリの頭では、やっぱり、『うよんうよんのでろんでろんのぬろんぬろん』から離れられない。
しばらく、一生懸命に首をひねった揚げ句、ようやくひとつの名前に行き着いた。
「ええと、デロリアンってどうかな?」
どこかで耳にしたことのある名だ。
某SFコメディ映画に出てくる車型タイムマシンとか、そういう話はなしにして。
シュリにとっては、あくまでも『でろんでろんのデロリアン』だ。
そういう過程は知ることもなく、巨大蛸は嬉しそうにうなずいた。
気に入ったようだ。
「よかった!」
シュリも満足の笑顔を浮かべる。
名をもつことによって、この大蛸にも自我が芽生え、知性へと繋がっていくだろう。
きっと、これから先も長きに渡ってこの地方の海に留まり続けるにちがいない。
マジェストリア国フラべス沖に棲む巨大蛸、デロリアン。
その名はこの時から人々に語られるようになり、伝説となる
しかし、それをシュリが知る筈もなく。
「げんきでねぇっ!」
なんども振り返っては、笑顔で大きく手を振って別れの挨拶をする。
両手にもらった金銀財宝のお土産を抱えて。
見送る巨大蛸も全部の足をつかって、振り返す。
途中で脱ぎ捨てた下駄も、無事に拾えた。
シュリの心の中は一仕事終えた満足感でいっぱいだ。
怖かった、『うようよのでろんでろんでぬろんぬろん』も克服。
浮き立つ気分で、スキップをしたくなるほど。
でも。
「あれ?」
なにか忘れていないか?