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 グロリアが街に着いた時には、既にシュリはルーファスに連れられて、海に向かった後だった。
 それを探し回ってようやく見つけたカミーユから聞いた。
 そして、そのままカミーユの指示のもと、地元の騎士や兵たちに混じって、避難の手伝いをすることになった。
 そして、一段落がついたところで、現在、波の届かない下町の一角にある広場にいた。
 彼女の隣では、エンリオ・アバルジャーニーが大きなイノシシを捌いている最中だ。
「もっとたらいを持ってこい! 血が無駄になる! あと、桶に水も!」
 イノシシは、エンリオ・アバルジャーニーが来る途中、森で仕留めたものだという。
 どの道を通って来たものか、背中に一頭担いで現れた時にはグロリアに限らず、みな驚いた。
 そして、いきなりそれをその場で調理すると言い出して、なぜかグロリアが助手に任命された。
 だから、彼女は今ここにいる。
 鼻と口を布で覆って。
 昨日は鍋で、今日は獣の内臓を洗っている。
 自分が騎士であることを忘れそうだ。
「なんでこんなことを……」
 思わず愚痴も言いたくなる。
 鍋ほど力はいらないが、兎に角、臭いが酷い。
 血と肉と脂とが入り交じった強烈な臭いだ。
 まともに吸い込めば吐きそうになる。
「おおい、首と毛皮はここにおいておくぞ!」
 エンリオ・アバルジャーニーの声に、「ありがとうございます!」、と元気よく返事したのは、カミーユの従者だかの少年だ。
「業者に売るんだとさ! 随分としっかりしたもんだ」
 エンリオ・アバルジャーニーが笑いながら言った。
「業者に?」
「ああ、革製品の材料やら金持ちの部屋の飾りとかになるらしい。被害を受けた家の見舞い金にするんだ」
「そんなことを?」
「そりゃそうだ。水浸しで駄目になった家具やら服やら新しく誂えなきゃならねえ。まとまった金が必要だろ。けれど、領主が出すかもわからねえし、出すにも限度があるからな。少しでも多くってな」
「ああ……」
 そんなことは言われるまで、グロリアは思いつきもしなかった。
「じゃあ、この肉も?」
「こいつは売るんじゃなくて、ただ被害を受けたやつらに美味い飯を食わせてやりてえってだけだ。突然だったしな。今は不安だろうし、気持ちが落ち込んでるやつもいるだろう? 飯を食えば、少しは気分がましになるってもんさ」
 手を止めることなく包丁を操りながらエンリオ・アバルジャーニーは答えた。
「食事ってのは、ほかの命を食らうってことだ。食らった命の力で、俺達は身体を動かすことも気持ちをもとに戻すことだってできるんだろう。そう考えると、なんであろうと命の力ってのは偉大なもんだ。ああ、膀胱は丁寧に扱えよ。破くなよ」
 言われて、グロリアは手元の丸い形にしぼんだ内臓を見た。
「何に使うんですか?」
 訊けば、「玩具だ」、と太い腕をもつ大男は笑った。
「貸してみな」
 言われるままに膀胱を手渡すと、エンリオ・アバルジャーニーは管につながっていた穴に口をつけると、ぷうっと息を吹き込んだ。そして、ぱんぱんになるまで膨らませると、素早く口を手に持ち替えて、先端をきゅっと縛った。
 手の上で、イノシシの膀胱が跳ねた。
「ほら、これで遊んできな。遠くに行くんじゃねえぞ」
 近くで興味深げに解体作業を見守っていた少年のひとりに手渡した。
 少年は歓声をあげると、膀胱でできたボールを掌で打ち付けながら、仲間らしいほかの少年と連れ立って走っていった。
 エンリオ・アバルジャーニーはグロリアを振り返って笑った。
「これも命の力ってもんさ。ああやって笑った顔が見られただけで、このイノシシも無駄に死んだわけじゃねえってことがわかる。少なくとも悲しいだけで終わる死よか、ずっと幸せでいいだろ?」
「私にはよくわかりません」
 グロリアは正直に答えた。
「死んでしまえば、なんであれお終いでしょう? その後のことなんか関係ないと思いますが」
「ま、そういう意見もあるな」
 エンリオ・アバルジャーニーに気を悪くした様子はみられなかった。
「生まれて死んで、そんなもんになんの意味もねえって言えばそうなのかもしれん。けれど、そういうことに意味を持たせたくなるのも、人間の性ってもんだ。特に俺みたいな年寄りになると、自然と考えちまうんだよ。自分が生きてきた意味とか、死の意味とかな」
「死ぬにはまだ早いでしょう」、と首を捻って言うと、「当たりめえだ」、とがははとした笑い声が答えた。
「まだまだ若いもんに負ける気はしねえよ。もっと沢山のやつに美味い飯を作って、たんと喜ばせてやらにゃあならんからな。さて、こっちは終わったが、そっちどうだ」
「はい、これで終わりです」
 なんだかんだと言いながらも、言われた通りにグロリアは内臓を洗い終えていた。
 エンリオ・アバルジャーニーは彼女の仕事の点検をすると、満足そうにうなずいた。
「おまえさんは仕事が丁寧だな。昨日の鍋もよく磨けていた」
「……ありがとうございます」
 まさかの褒め言葉だ。
 やけくそになっていたとは言えない。
 己の本分ではないし。
 でも、すこし嬉しい。
 こうして、人に笑顔を向けられるのも。
 と、そこへ広場に繋がる路地からカコカコと細かく硬い足音が聞こえてきた。
「シュリさま!」
 彼女の護衛対象であるシュリだった。
 両手に貝殻に乗せたお宝を抱えて。
 思わず駆け寄れば、
「重いぃ」
 気の抜けるような返事をしてお宝をグロリアに押し付けると、ぺったりとその場に座り込んだ。

 行きは気付かなかったのだが、帰り道は思ったよりも遠かった。
 もらった宝物が重かったことや、いちど曲がる道を間違えて、同じ道を戻ったりと無駄足を踏んだこともあるだろう。
「つかれた……」
 シュリは呟くと、深く息を吐いた。
 見知った顔を見て、急に安心を感じるとともに力が脱けた。
「屋敷にお戻りを。お風邪を召します」
 湿った服に気づいたらしいグロリアが言った。
「おい、すげえお宝だな。こんなでっかい真珠、見たことがねえ。どうしたんだ、これ」
 エンリオ・アバルジャーニーがシュリが持ち帰った宝石類を手に取りながら問う。
「もらいました。デロさんに」
「デロ?」
「大きな蛸さん。もらったお礼に名前をつけてあげたんです」
「そりゃあ、ずいぶん個性的な名前つけてやったなあ」
 見上げれば、呆れたような顔がシュリを見ていた。
 そんなに変な名前だったろうか。
「シュリさま、無事にお戻りで」
 次に近づいてきたのは、カミーユだった。
 シュリを見下ろして、そして、エンリオ・アバルジャーニーを見上げた。
「なにかあったんですか?」
「ええと、デロさんにもらった物が……」
「デロさん?」
「大蛸さんです」
「名前をつけてやったんだと。それでこれをもらったらしい」
 エンリオ・アバルジャーニーが割り込んで答えて、カミーユに宝石を見せた。
「これは……すごいですね。鑑定してみないとわからないですが、首飾りひとつだけでもひと財産になりそうだ」
 本気で驚いているらしく、カミーユの目も見開かれている。
「このまま持ち歩くのは危険ですね。こちらでお預かりしても? 目録も作らねばなりませんし。ああ、その前に袋か布で覆った方がいいですね」
 目録がなにかわからなかったが、シュリはうなずいた。
 こんな重いものをこれ以上持ち歩きつづける体力と気力が残っていない。
「おい、その前にこいつをひとつもらっていいか?」
 台座もなにもない、血のように赤い宝石をひとつ手にしてのエンリオ・アバルジャーニーの申し出に、「駄目ですよ」とカミーユが答えた。
「これは、シュリさまの財産で、価値がわからないうちに持ち出すわけにはいきません。相応の価値が認められれば、クラディオンの再建のための資金にもなるでしょう」
「そんな先の話よりも、今、目の前で困ってるやつのことだろうが。今日の飯もどうなるかって不安になってるやつらに、俺は飯をくわせてやりてぇ。それにしても、材料を買う金が必要だ。そんで、余った金は見舞い金として渡しゃあいいだろ? なにもちょろまかそうって言ってんじゃねえんだ。元はといえば、あの巨大蛸が原因でこうなったんだから、こっから少しぐらい出したところで罰はあたらねえだろ」
「きょうの食事代ぐらいでしたら、殿下の懐から出しますよ。それ以上のことになると、領民の生活のことは領主が考えるべきことで、我々が口出しできることではない。下手に手出しすれば、越権行為と貴族たちからの反発を受けることになります。領主にも殿下がかかわっていることはすでに伝えてありますから、なにもしないというわけにはいかないでしょう。それに、もし、金銭を支給することになったとしても必要以上の金額が動くとなると、不正や争いの原因となりかねない」
「そんな御託は関係ねえよ。いつ貰えるかわからん金を、待ってられっかよ。被害を受けた連中はその日暮らしの貧しい連中ばっかりだろうが。幸い死人は出なかったみたいだが、年寄りも混じっているって聞いたぜ。そいつらが住むところを水浸しにされて、今日寝るところも、明日着る服すら困ってんだ。今すぐ使える金が必要なんだよ。しみったれの役人がああでもない言いながら書類回している間に、凍え死にしちまわあ」
「一応、避難させた住民は、街の集会場を開けさせてそこに収容させています。少なくとも凍え死にはないかと」
「そういう問題じゃねえだろうが」
 ふたりの会話はシュリにとって難しい話でよくわからなかったが、デロリアンが起こした波で困っている人が多くいることだけはわかった。
「シュリさま、屋敷に戻りましょう」
 グロリアに差し出された手につかまって、シュリは立ち上がった。
 そして、カミーユに言った。
「ええと、もし、それで困っている人を助けられるんでしたら、使って下さい。もとは、わたしがしちゃったことですから」
「お気持ちはありがたいですが……」
「あと、病人がいるんでしたら、おまじないぐらいならできますし、材料さえあれば、お薬も作れますから。あと、ほかにも手伝えることはあると思います」
「なっ!」、とエンリオ・アバルジャーニーが嬉しそうに言った。
「嬢ちゃんがこう言ってんだ。それに、おまえだってわかってんだろ? ほっといたら、領主の貴族や役人がどれだけ怠慢こくかってのがよ」
 カミーユはその顔を横目で睨むと、さも嫌そうに溜息をついた。
「……わかりました。その件についてはなんとかできるよう、考えてみましょう。シュリさまは屋敷に戻り、休んでいてください」
「でも」
 皆が大変な時に、自分ひとりだけがなにもせずにいるというのは、シュリにも抵抗があった。
「手伝っていただきたい時に動けないことの方が、皆にとって迷惑になります。ご自分の体調管理も義務のひとつであるとお考え下さい」
「……はい」
 きつい物言いの前に、シュリはしょんぼりとうなずくしかなかった。
 グロリアに伴われて広場から立ち去ろうとしたその時、
「あ、いたいた! やっと見つけた!」
 と、張り上げる声があった。
 マーカスとダイアナだった。
 ふたりいっしょに坂道を下ってくるところだった。
「ああ、ちょうどよかった」
「おう、いいタイミングだな」
 カミーユとエンリオ・アバルジャーニーが口をそろえて言った。
「ダイアナ嬢、至急、あなたにお願いしたい仕事があります」
 と、カミーユが言い、
「おう、魔法師の坊主、嬢ちゃんを屋敷まで連れ帰ってやってくれ!」
 と、エンリオ・アバルジャーニーが言った。
「探し回ってようやく見つけて来たってのに、いきなりとんぼ返りですか!?」
 顔を見るなりの依頼に目を丸くしながら、文句がましくマーカスは答え、
「なんでしょう」
 と、いつもと違う畏まった雰囲気でダイアナは答えた。
「あなたにこれらの目録を作って頂きたいのです」
 カミーユはにっこりと微笑んで、ダイアナにシュリのもって帰ってきたお宝を見せた。
「あら、すごいですわね。これ、どうなさったんです?」
「ええ、まあ……目録作りは、司書のあなたならば慣れたお仕事だと思いますし、誰にでも任せられるものではないので。侯爵令嬢で目も肥えてらっしゃるから、これらの宝石の価値も、おおよその見当ぐらいはつくでしょう?」
「まあ、そうですけれど」
「あと、御存知ならば、宝石を扱っている者で信頼できる者を御紹介いただきたいのですが」
「お売りになられるのですか」
「ひとつふたつですが、そういうことになるかと」
「承知いたしました。直接は存じませんが、ひとり心当たりがございますわ」
 そして、その隣では、エンリオ・アバルジャーニーがマーカスにむかって、
「これから避難したやつらに飯を作るのに、助手が必要だ。だから、その騎士の姉ちゃんが必要なんだよ。肉や鍋を運んだり、力仕事にもなるからな」
 姉ちゃんとは、グロリアのことらしい。
 シュリが思わず顔を見ると、グロリアはなにも言わないまでも複雑そうな表情をしていた。
「そんで、おまえは代わりに嬢ちゃんの護衛についてやるってわけだ」
「逆じゃいけないんですか」
「おまえは料理には向かない」
「なんでそんなことがわかるんですか」
「顔みりゃわかる。ああ、あと、屋敷についたら、ここまで俺の鍋や荷物を持って来させろ」
 マーカスはエンリオ・アバルジャーニーの強引さに押し切られる形になったようだ。
「……わかりました」
 しぶしぶといった様子で、うなずいた。
 そんなわけで、シュリはマーカスとダイアナと一緒に屋敷に戻ることになった。




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