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 お土産の宝石は、マーカスがそこら辺にあった袋にいれて担いでいる。
 坂道を上っている途中、「あれ?」、とマーカスが思い出したように言った。
「そう言えば、シュリさんのお師匠さんはどこにいったの?」
「デロさんを見送りに行ったと思います。安全なところにまで行くのを確認できたら、戻ってくると思います」
「デロさんってだれ? 知り合い?」
「大蛸さんです」
「ああ、あの蛸、上からも見えたよ。でも、かなり大きいよね」
「はい。すごくおおきかったです」
 シュリが答えると、「怖くなかったの?」、とダイアナに訊ねられた。
「怖くなかったですよ。とても優しかったです」
「優しかった!?」
 とんでもないと言わんばかりの声が答えた。
「というか、相手は蛸でしょ、蛸! 大きかろうと蛸に違いないのに、どうやって意志疎通できるのよ? そこからしておかしいわよ」
「ああ、そうだよね。どうやったの?」、とマーカスは笑っていた。
 シュリはふたりに答えた。
「身振りだけでも、大体のことはわかりますよ。でも、魔女になると、精霊の声が聞こえるというのか、はっきりと言葉として伝わってくるんだそうです。デロさんはほとんど精霊と同じなので、わかるみたいです」
「え、精霊なの、あれ!?」
 驚くマーカスたちに、シュリはうなずいた。
「ぜんぜんちがうじゃない!」
 ダイアナが左手首を返してシュリに示した。
 そこにはまだ、おまじないで呼んだ赤い金魚が留まっていた。
「ちょっと違うんです」と、シュリはふたりに説明した。
「デロさんみたいな大きな生き物は、大抵、もともと普通の生き物だったのが、なにかの拍子に精霊を体内に取り込んじゃって同化して、ああなったんです。体内に取り込まれた精霊は、時間をかけて取り込んだ生き物の身体を精霊と同じように作り替えるそうです。魔女になるのと似た感じですが、魔女と違って生きている状態で儀式もない状態で作り替えられますから、元の生き物としての本来の性質は残っているけれど寿命がなくなって、身体だけは大きくなるようです」
「それって不死になるってこと?」
「不死とは違いますけれど、近い存在です。生き物としての死はありませんけれど、いつかその時が来れば、還ることになると思います」
「還るって?」
「身体が塵になって消えます。還る時は、大抵、精霊の調和がひどく乱れている時で、魔女もそうですけれど、そういったもの達が還ることで、多少は均衡が戻るそうです」
 そう言えば、この説明をふたりにはしていなかったことをシュリも思い出した。
「興味深い話だね」、とマーカスは考え深げに言い、ダイアナは、「私にはよくわからないわ」、とむっつりと答えると、足を止めた。
「それよりも咽喉が渇いたわ。砦からここまで、水の一滴も飲んでないもの。ちょっと休みましょうよ」
 言われてシュリも、急に咽喉の渇きを感じた。
「だめだよ。シュリさんが生乾き状態なんだから、早く帰って着替えなきゃ病気になるよ。店にも入れてもらえないだろうし」
 自分のせいで、駄目らしい。
 マーカスの言葉に、シュリはがっかりした。
 無理を言えない。が、
「別に店に入らなくても、店で買ってベンチで休めばいいじゃない? ほら、丁度、あそこの木陰のベンチが空いているわ。生乾きっていっても、もうほとんど乾いているし、こんなに暖かいのだもの。今更、急いだところでそう変わらないわよ、ねえ?」
 最後の、『ねえ』、はシュリに向けられたものだ。
「それとも、気分悪い?」
 ダイアナの問いに、シュリは首を横に振った。
「だったら、いいじゃないの。ねえ、マーカス、私疲れたわ。足がだるいの。もう、歩けない。咽喉も渇いてからからなの!」
「わかった、わかったよ! 休憩にしよう!」
 矢継ぎ早の要求を前にマーカスがわめくように答えると、ダイアナは、「やった!」、としたり顔で笑んだ。
「私たちあそこで待っているから、あんた飲み物買ってきてよ。私、キュラムのジュースね」
「キュラムね。シュリさんは……ってわからないか。同じのでいい? ちょっと酸っぱいのは大丈夫?」
 キュラムのジュースは本日、二杯目。
 キュラムは、ここフラべスの街の特産品。
 言うなれば、オレンジの形をしたレモン。
 そのジュースは即ち、レモネード。
 皮からワインも作られる。
 ジュリアスの家で飲んだものは酸っぱかったけれど、シュリの口にもあうものだった。
 シュリはうなずき、マーカスから荷物を預かった。
 マーカスは近くの店へと走っていき、シュリはダイアナといっしょに木陰のベンチに座った。
 坂道中腹のこの辺になると被害もなく、騒ぎは収まったとみたか、多少のざわつきは残っているが、行きにくらべて道にでている人の数が格段に減っていた。
 みな、いつもの生活に戻ったようだ。
 そよそよとそよぐ風の中、木陰の下でこうしていても穏やかなばかりで、先程までの喧騒が嘘だったかのようだ。
「ええと、いいんですか?」
 シュリは隣に座ったダイアナに訊ねた。
 すると、事も無げな答えがあった。
「ああ、マーカスのこと? いいのよ、このくらい。マーカスにとってはなんてこともないわ」
「そうなんですか」
「そうそう。彼は女の子からの頼まれごとには、ほとんど嫌って言わないの。なんでも言うこときいちゃう。多少、無理なことでもね」
「無理なことでも? どうして?」
「そりゃあ、ちょっとはいいところを見せて好かれたいとか、頼りにされて嬉しいとか、そういう感じ? 男の人ってそういうところがあるでしょ。それにしても、お人よし過ぎるとは思うけれど。でも、本人がそれで良いと思っているんだから、他人が口を出すことではないわね」
「そういうものなんですか?」
「たぶんね。今のところ、もっと大変な頼まれ事されても断ったって聞いたことないし。だから、マーカスにとっては、このくらいは我侭にも入らないわ」
 だからね、とダイアナは言った。
「シュリさんも、もっと言っていいと思うのよ」
 はて?
 なぜ、マーカスの話から急にシュリの話になるのか。
「嫌なこととか、逆にして欲しいことがあれば、その人に言えばいいのよ。そりゃあタイミングとか相手にもよるのだろうけれど……嫌なら嫌って言わなきゃ、相手にもわからないわ」
「なんの話?」
 コップを三つ持って戻ってきたマーカスが話に加わった。
「嫌なら嫌って言わなきゃ相手にも伝わらないって話」
「ああ、まあ、そうだね……でも、言っても伝わらない場合もあるだろ」
 会話を聞きながらシュリはひとつを受け取って、口をつけた。
 美味しかったが、ジュリアスの家で飲んだものに比べて甘すぎる感じがする。
 あっちの方が美味しかったと思う。
 咽喉が渇いたと言っていたはずのダイアナは、飲もうともせずに話に夢中だ。
「そういうこともあるけれど、本当に嫌ってもいい理由にはなるじゃない。『嫌よ嫌よも好きのうち』とか言って勘違い男が都合よく解釈したりするけれど、普通に女が『嫌』って口にしたら、本当に嫌な時なのよ」
「え、そうなの?」
「当たり前じゃない。もともと、生理的嫌悪からとっさに出る言葉だもの。それを更に手を出すってことは、嫌がらせしているのと同じよ。だって、相手の女性の意志を尊重しないって言っているのと同じことでしょ。場合によっては、人格を無視しているって言ってもいい。男としては最低ね」
「そんな大げさな……」
「大げさじゃないってば。そういう男の勘違いを利用して誘う女もいないとも限らないだろうけれど、そういうのは、よっぽど男をたらし込むに慣れたアバズレの可能性が高いわ。マーカスも気をつけた方がいいわ」
「えええええ、そうなの? そうなのかなあ……」
 マーカスはショックを受けたように、ダイアナの隣でうな垂れた。
 ダイアナはそれを無視して、反対側に座るシュリに向き直った。
 わざわざ買ってきてもらった飲み物なのに、何故、飲もうとしないのだろうか。
「シュリさんは他人に面と向かって、嫌って言葉、言い慣れてないでしょう?」
 訊かれてシュリはすこし考えてみて、そうでもないかなと思う。
 気がつけば、なにかの拍子に叫んでいるような気がする。
 特に、王宮に来てからの数週間。
 だが、ダイアナは、
「否定的な言葉だもの。特に女の子は逆らってはいけないって教えられていたり、内気すぎて言えなかったりするのよね。でも、言うべき時に言わないと、自分の望みとはまったく違う、ぜんぶ他人の都合のよいようにされてしまったりするわ。だから、嫌なら嫌って言うべきなのよ!」
 なんだか、妙に力強い主張だ。
「そうなんでしょうか」
「そうよ!」
 と、隣から、あー、と言いにくそうにマーカスが声に出した。
「それってさ、シュリさんの場合、ルーファス殿下にってことだろ? ちょっと無茶じゃない?」
「無茶じゃないわよ! このまんまだと殿下の言いなりで、嫌なのに場所をかまわずべたべた触られて、気がついたら結婚させられかねないじゃないっ!」
「ああ、まあ、そうかもしれないけれどさ、」
「だって、女王さまなんでしょ! 絶対、関係ないくせに余計なことを言うやつがでてくるわよ! シャスマールのことがなくなったら、すぐにでも! 本当だったら、政略結婚なんてしなくてもいい立場なのに! 他に好きな人が出来ても、一緒になんてなれないのよ! なりたい魔女にもなれず、好きなこともできずにこども生むだけの道具にさせられて、お人形さんみたいに着飾るだけの、くだらないおしゃべりをしているだけの毎日を送る羽目になるんだわ!」
 ダイアナは顔を真っ赤にして言うと、突然、わっ、と泣き伏した。
 これには、シュリもマーカスも驚いた。
「ダイアナ、どうしたのさ、急に!? 僕、なんか気に障ること言った!?」
 マーカスがおろおろとしながら声をかけるが、泣くばかりで言葉はない。
 ハンカチを差し出して、背中をさすって宥めるしかないようだ。
 困惑していたし、困惑する。
 シュリも黙って、横から様子をみているしかできなかった。
 慰めようにも、理由がわからないことには慰められない。
 祝福を与えようにも、理由がわからなければ、どう対処すればよいかわからない。
 なぜシュリのルーファスへの態度の話をしていてダイアナが泣かなければならないのか、シュリにはさっぱりわからなかった。
 ダイアナの落ちそうになっていた眼鏡を預かっていることぐらいしかできない。
 どうやらダイアナはシュリの心配をしてくれてはいるようなのだが、違う気もする。
 それに、なにか勘違いをしているようにも思う。
 シュリは、嫌なことには嫌だと言っているし、現に、さっきもルーファスに大嫌いと……

 ――あれ?

 大嫌いと言った時にいたことまで覚えているが、それからどうなったんだろう?
 気がつけば、いつの間にかいなくなっていた。
 そこで、シュリはようやく、すっかり忘れきっていた存在を思い出した。
 ルーファスは、どこへ行ったんだろう?


 その答えは、ずうっと下。
 シュリの座っているベンチから、ずうっとずうっと下。
 坂道を下って、ジュリアスの家も、エンリオ・アバルジャーニーとグロリアがイノシシの肉の調理にかかっている広場を越えて、カミーユが地元の騎士団長と話し合っている道端を通り過ぎて、それから更に先。
 どっぷん、たっぷん、やってきた波が、高くなった陸にぶち当たるところ。
 ところどころまだ水溜まりが残ってはいるが、ほとんど水のひいた港の端っこ。
 ルーファスはここにいた。
 やっと辿り着けた陸の上で大の字に寝ころんで、荒い息をついていた。
 着服した状態でクロールの遠泳は向かなかったようだ。
 溺れなかったのが幸い。
 それでも、かなり驚異的な早さで帰って来れたのかもしれない。
 大波小波を乗り越えて。
 ひょっとしたら、トライアスロンの世界選手権入賞とかオリンピックのメダリストも夢ではないかもしれない。
 残念ながら、この世界にはそんなイベントもないけれど。
「おおい、兄ちゃんでえじょうぶけ?」
 声をかけたのは、港の被害を確認に来た地元の漁師のおっさんだ。
 仁王立ちになって、足下に転がるルーファスを見下ろしている。
 大丈夫か、と訊ねながらもあまり親身になっていない雰囲気は、ルーファスに意識があるから。
「ずぶ濡れでねえか。ひょっとかして、さっき逃げ遅れて波にさらわれたんか? 見たとこここらで見かけねえ顔だし旅人さんみてぇだけんど、ずいぶんと災難だったなあ。けんど、命あってよがったよ。運がいいだがよ、兄ちゃん」
 漁師はけして礼儀知らずなわけではない。
 ただ、まさか地面に転がっているのが、この国の王子だということを知らないだけだ。
 庶民が王族に会えることなんて、万が一もあり得ないから。
 一応、普通に他人の心配をしているだけだ。
「どっか痛ぇとこさあるが? 誰か呼んで来た方がええだが?」
 何も知らない人のよさそうなおっさんの顔を見上げて、流石に疲れきっていたルーファスは、ああ、とだけ答えた。
「そっか、だったら、ちょっくら今からひとっ走りして人呼んでくっから、もうちっとここで我慢して待っててくんろ」
 漁師が去ったあと視界に映るのは、また代わり映えのしない空だ。
 疲れた。眠い。
 空を見上げながら、ルーファスは思った。
 この程度でおかしい、と不思議に思ったが、昨日のあの騒ぎに加え、自分が一睡もしていなかったことをルーファスは思い出した。
 大蛸との争いはよいとしても、水泳に予想以上に体力をつかったらしい。
 完全にエネルギー切れだった。
 ルーファスは意識せず、空の色を視界から消した。

 にゃあ、にゃあ、にゃおん、にゃん、にゃあ……

 閉じた瞼の向こう側で、猫の鳴き声が聞こえていた。




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