陽はとっぷりと暮れ、夜が街全体を包んでいた。
シュリは積み上げられた材木の上に腰を下ろして、赤く燃え盛る大きなたき火を眺めていた。
薄桃色のドレスは着替えて、今は質素な灰色の地味なものに変わっている。
目立たないが、その方が気楽だ。
さっぱりとした気分で、のんびりと過ごしている。
そして、たき火の周りにはたくさんの人が集まり、浮かれている。
街の人々だ。
食べて、飲んで、楽器を鳴らし、歌って、踊って、笑っている。
とても賑やかだ。
あんなことがあったばかりなのに。
なぜなんだろう、と不思議に思うシュリにカミーユから、「無事だったお祝いだそうですよ」、と説明があった。
「大変なことにはなりましたが、幸い死者は出ませんでしたし、怪我人はいましたが、逃げる時に転んで擦りむいた程度でしたからね。建物の被害はそれなりにありましたが、それも存外早く片付きそうですし、シュリさまから頂いた宝石もあって、当面、被害を受けた民たちの生活も苦しいものにならなくてすみます。それを喜んでいるのですよ」
シュリのおまじないも、師の祝福も必要なく、集う人々は楽しそうだ。
昼間見た、暗い不安げな顔はどこにもない。
大変だったはずなのに、大変なはずなのに。
「ほら、がっつかなくたって、まだ沢山あるからね。ゆっくり、腹いっぱいになるまでお食べ!」
手伝いを買って出てきた街のおばさん達が、列をつくって並んだこどもたちに食べ物をわけてやりながら言う。
言葉通り、その横には湯気のあがる料理が入った鍋やトレイがいくつも並んでいる。
シュリも貰ったが、とても美味しかった。
スープの中には、デロリアンの斬り落とされた足も入っているそうだ。
シュリの師が拾って持ってきたらしい。
それをエンリオ・アバルジャーニーは喜んで調理した。
生でも肉そのものは硬くて食べられなかったそうだが、一部は出汁に使い、残りは酢漬けにしたり、塩水につけたり。
そのエンリオ・アバルジャーニーは、ちょっと離れた場所で、漁師のおじさん達と軽口をたたきあいながら料理を続けている。
その横で、グロリアが汗を流しながら、大きなイノシシの肉をずっと回し炙っている。
香ばしい匂いと肉の色からして、もうすぐ食べごろのようだ。
待ちきれない様子で、前で皿を持って待っている人もいる。
そんなわけで、被害を受けた人たちだけでなく、手伝いに来た人や砦からやってきた騎士や兵にも行き渡るぐらいにじゅうぶんな量の食べ物がある。
どうやら、関係のなかった人も多く混じっているようだが、そういう人たちは物々交換みたいに、持ってきた衣類や品物と交換しているようだ。
交換された品物はすべて、必要な人のところへ無料で渡されるらしい。
そういう手配をすべてカミーユが行って、ジュリアスも手伝ったそうだ。
家が濡れて、行くところのない人の宿の手配も含めて。
ルーファスの代わりに。
ふたりはまだ、別のところで働いているらしい。
すごいな、とシュリは思う。
エンリオ・アバルジャーニーも、カミーユもすごい。
おまじないや魔法がなくても、これだけ多くの人を笑顔にできるのだから。
ルーファスは……よくわからない。
聞くところによると、港でたくさんの猫に埋まっているところを見つかったらしい。
びしょ濡れで発見されて、それを聞きつけたカミーユが迎えにいったところ、地面に寝転がっている上に猫がてんこ盛りになってたかっていたらしい。
どうやら、猫たちはルーファスを餌かなにかと勘違いしたようだ、という話だった。
しかし、案外、ルーファスは闇の精霊とも相性が良いのかもしれない、とシュリは思う。
猫は夜――闇の精霊に近しい動物だから。
助け出されたルーファスには目立った怪我はなかったが、相当に疲れ切っていたらしく、そのまま屋敷へ戻って休むことになったそうだ。
それからどうしたかはシュリも顔を見ていないから知らないし、少なくともこの場にはいない。
ルーファスがになにがあったかシュリにはわからないが、取りあえず、無事でよかったと思う。
「シュリさん、疲れた? 屋敷に戻る?」
すこし離れた隣に座るマーカスが訊ねてきた。
ルーファスもグロリアも傍にいないので、護衛代わりなのだそうだ。
「いいえ、ここでもうちょっと、みんなの様子を見ていたいです」
シュリは答えた。
「賑やかですね」
「そうだね。この辺の人は年中通して暖かい気候のせいか、陽気な性質の人が多くて、こんな賑やかなことが好きみたいだから」
ふうん、とシュリは初めて踏んだこの地の感触に今更ながら気がついて、そうかもしれないと思う。
彼女の暮らすイディスハプルの森とは、空気も風の匂いも土の感触も、ざわめきもなにもかもが違う。
なにより、こんなに楽しそうな大勢の人の間にいるのは、初めてのことだ。
だが、こうしてみていると、以前にいちど呼ばれたことのあるこびと族の祭りともそう変わらなく感じる。
ドワーフたちの酒宴とも。
酒に酔ってはしゃぐさまは、種族がちがっても同じに見える。
「すごいですね」、と長く伸びる人々の影に目を落として言えば、「ほんとうの祭りの時はこんなものじゃないはずだよ」、と答えがあった。
マーカスはちょっと勘違いをしたようだ。
「そうじゃなくて……なんだか、魔法とかおまじないとか使わなくても、人はじゅうぶん楽しく過ごせるんだなあって」
すると、マーカスは溜め息といっしょに、ああ、と言葉を吐いた。
「そうだね。僕なんか、今日はなんの役にも立たなかったからなあ。ここと屋敷を往復して、荷物持ちしたぐらいで。ときどき、魔法師である意味を見失いそうになるよ」
「そうなんですか?」
「うん。だって、表立って役に立っているわけではないだろ? ほんとうだったら、今日もその場にいさえすれば、壁を作って波が必要以上に街に来ないように止めることだって出来たしさ、瞬時に濡れた家を乾かすことだって出来るはずなんだ。でも、この国は、金だらいが降ってくるからさ」
「ああ、そうですね……」
「うん。そりゃあ、出来ないことはないけれど、僕ひとりで、いちどに全部の家を乾かすなんてことはできないからさ。多分、途中で失神しちゃうだろうから、どうしても不公平が出るよね。そうすると、乾いていない家の人からは文句が出るだろうし、喧嘩になるかもしれないから。だったら、最初から何もしないほうがいいんだよ」
「そういうものですか」
「うん、人が多いとどうしてもね。なんとかしてあげたい気持ちは山々だけれど……仕方ないよね」
ごめんね、とマーカスは寂しそうに笑って謝った。
「シュリさんにこんなふうに愚痴っちゃいけないってわかっているんだけれどさ、つい」
「いえ、もともとの原因は私にあるってわかっていますから。それなのに、なにも出来ないし……」
シュリにできたことと言えば、地の精霊たちにすこしだけ元気になってもらって、浸水した地域の地盤をちょっとだけ強くしてもらったぐらい。
あとは、水の精霊にも手伝ってもらって、塩水に変わってしまっていた井戸水を真水に戻してもらった程度。
病気や怪我をしている人の手当てもすると言ったのだが、それは断られた。
「きりがないから」、と。
それでも感謝はされたが、騒ぎがなければする必要のなかったことを思えば、うな垂れるしかなかった。
「あの、ダイアナさんは? 大丈夫ですか?」
シュリはまた、すぐに落ち込みかけてしまう気分を立て直そうと話題を変えた。
「ああ、大丈夫じゃないかな、泣くだけ泣いて、だいぶ落ち着いたみたいだし」
「お屋敷にひとりでいて平気でしょうか。今からでも誘いに行った方がいいんじゃないでしょうか」
「うん、でも、まあ、急ぎの仕事もあるみたいだし、僕たちにあんなところ見せちゃって、顔を合わせるのも気まずいっていうのもあるだろうから、今はそっとしておいたほうがいいんじゃないかな。きっと、明日には元気になっているよ」
「ならいいんですが……」
昼間、泣きだしてしまったダイアナは、宥めるマーカスとシュリに泣きながら、親が決めた好きでもない相手と結婚しなければいけないことを話した。
あと、上司のタトルが、女だからと仕事ぶりを認めてくれないとか、いない間に恋人が会いに来たらどうしようとか、他にもいろいろと悩みを打ち明けた。
「ダイアナさんも、色々と大変なんですね」
そう言うと、「ああ見えても王宮に出入りの許されている侯爵家の令嬢だからね」、とマーカスは言った。
「まあ、それでも確か七人兄弟の五番目か六番目で、身分から考えると、かなり自由にさせてもらっていた方だと思うよ。書庫の司書なんて仕事、普通は侯爵令嬢がする仕事でもないしね。結婚の話も遅いぐらいだよ。政略結婚は当たり前にあるもんだってのは、ダイアナもわかっているのだろうけれど、これまで放っておかれていたのに今更って気持ちも強いんだろうな。好きな人がいるなら尚更、納得いかないだろうし」
「ダイアナさんの恋人さんって、どんな方なんでしょうか」
「さあ、僕も彼女からの話でしか知らないけれど……でも、騎士はいいとしても、実家が男爵家となると、結婚するのは難しいだろうなあ」
「そうなんですか?」
「うん。特に貴族同士の結婚って、本人達の結びつきって言うより、家同士のつながりを持つためって意味の方が大きいからさ。侯爵家と男爵家だと格差がありすぎるっていうか、あまりない話だね。男爵家でも、裕福な家だとか影響力があるとか将来有望な相手とかだったら、侯爵家も見返りが期待できるから考えないでもないんだろうけれどさ。でも、そこそこの家ってだけだったら駄目だろうな。親は反対すると思う。援助ばかりさせられて、なんの利益もないと判断するからさ」
「ええと……利益って?」
「そうだなあ、どういう説明がわかりやすいかな……ええと、例えばの話だけれど、ダイアナの家の領地で豆が不作だった。それで領民はとても困っていて、どこからか豆を買ってこなくちゃいけない。でも、ダイアナの好きな相手の家の領地では豆が豊作だったとする。ここまではいい?」
「ああ、はい」
「この場合、ダイアナの家はダイアナをお嫁にだすのと引き換えに、必要なぶんだけの豆を他から買うより安く仕入れさせて貰うという約束ができる。つまり、お金もかからないし、必要な豆も手に入る。得するわけだね。これが利益。でも、ダイアナの領地でも豆が豊作だった場合、そうする必要はないだろ?」
「そうですね」
「となると、もっと別の条件で利益になる家があれば、そっちに嫁がせた方がいいって思うだろ? そういうこと」
「ええと、でも、今年は豊作でも来年は不作になるかもしれないじゃないですか。そうしたら、やっぱり、ダイアナさんが好きな人の家へ嫁がせた方が良かった、とか思うんじゃないですか?」
「そういうこともあるだろうね。でも、その時のタイミングっていうのもあるし、わかりやすく豆を例にあげたけれど、本当はもっと長く続く条件を考えるのが普通なんだ。貴族同士の話し合いで発言力をもっているから味方につけておきたいとか、裕福だからなにかあった時に纏まったお金をすぐに用立ててもらえるとか、すごく綺麗な人だから生まれるこどももすごく綺麗な子になるだろうから、とかさ」
「綺麗な子……」
「うん、特に妖精族の特徴が出てると引く手数多だね。それだけで、大きくなった時に、もっと家柄の良くて条件の良い人に見初められる可能性だってあるからさ。女の子だったら、大貴族とか、他の国の王子さまからとか、大金持ちとか」
だとしても、本人が幸せになれるとは限らないことをシュリは知っている。
「ええと、結婚を決めるのは誰なんでしょうか?」
「その家の家長と呼ばれる人だね。普通はお父さんだけれど、家によってはお母さんやおじいさん、おばあさんの場合もあるよ。ダイアナのところは、たぶん、お父さんのアイシグ侯爵だろうね」
「本人が不幸だと言っても無理なんでしょうか? それよりも、家長やお父さんの利益が得られることの方が大事ってことなんでしょうか」
「うーん、まあ、一度、決まってしまうと駄目かな? 嫁ぎ先を選ぶにしても、利益もあるけれど、貧乏な家に嫁がせるよりは財力がある家に嫁いだ方が、少なくとも生活の苦労はないだろうから良いだろうってことはあるよね。お父さんは、そういうことも考えているんだと思うよ? その時は本人が不幸だと感じていても、人の気持ちって変わるからさ。先のことなんて、誰にもわからないし」
ああ、とそれにはシュリも納得もする。
「ええと、幸不幸も将来どうなるかも目に見えるものでもないから、取りあえず確実な、誰にでもわかるところの安心と目先の得をとっておこうって感じですか」
マーカスの顔に、はっきりと苦い笑顔が浮かんだ。
「身も蓋もない言い方だけれど、まあ、そんな感じかな? でも、生きていく上では堅実な選択ではあるよね」
「堅実?」
「うん、極端な話、好きな相手と結ばれるにしても、火も扱えない貴族のお嬢さんに、シュリさんみたいな自給自足の生活が出来るとは思わないだろ? 逆はあってもさ」
「ああ、そうですね。覚えるまでがけっこう大変ですから……」
気がつけば、かさかさして傷ついていた自分の手が、王宮暮らしの間に滑らかになったことにはシュリも気がついている。
あれだけ絡まって大変だった髪だって、さらさらだ。
いつも良い匂いをさせていられるのも。
これらはすこし嬉しいが、だからと言って、人の間での暮らしがすべて気に入っているわけではない。
森の生活が不幸だとは思わない。
だが、そう思わない人もいるようだ。
幸せと不幸。
その境目はどこなんだろう?
この目まぐるしいほどの人の間では、それも一定ではないようだ。
「むずかしいですね」
「うん、難しいよ」
マーカスも当たり前にうなずいた。
シュリは踊る人々に、もういちど目を移した。
「でも、大変なことがあって、不安があっても、こんな風に笑って楽しくも出来ますよ」
「そうだね」、と同意があった。
「人それぞれの価値観の違いってやつだろうな。でも、友達として、どんな形であってもダイアナには幸せになって欲しいと思うよ。泣き顔なんてダイアナらしくないし」
「そうですね」
それだけは、間違いない気持ちだ。
シュリもうなずいた。
シュリのいるたき火の反対側の、そのまた向こう。
人のざわめきだけがかろうじて届く、いそいそと暗い坂道を上っていく人影ひとつ。
怪しそうではあるが、怪しい者ではない。
テレンスだ。
手には、マグカップひとつを大事に抱えるようにして歩いている。
カップからはまだほんのりと湯気が立ち、美味しそうな匂いがしている。
中身は、あの有名な料理人であるエンリオ・アバルジャーニーが作った、特製海の幸スープ。
そんじょそこらのスープとは、わけがちがう。
だから、わざわざ列に並びもした。
古い毛布と引き換えに。
だが、祭りを楽しむこともなく、ひとりスープを抱えてどこへ?
決まっている、自分の研究室だ。
ひとりであっても口に笑みを浮かべられるのが、研究者。
なにもなくとも、他にだれもいなくても、どきどきわくわく。
今日の午後にあった失敗も忘れて。
失敗することは、慣れているから。
それよりも、さっき、やってきた魔女が彼にこっそり教えてくれたことを早く試したくて、うずうずしている。
起きる予感に胸を高鳴らせながら。
それが、彼にとっていちばん幸せな時でもある。
そして、親が親なら、子も子……というわけではない。
その子はどこにいるかというと、傾斜をずずいと上がった貴族の別荘が建ち並ぶ区域。
主道と呼ばれるこの街にしては比較的広い道を、ぽくぽくと馬の足音を響かせながら二人乗りの馬車で移動中。
ジュリアスは御者席に座り、馬を走らせている。
後ろの席に座るのは、当然、彼の主であるカミーユだ。
フラベス地方の領主であるノルドワイズ伯爵にルーファスがしばらく滞在することを伝えるついでに、今回のことでちょっとした交渉をしてきた帰り道。
すこしだけ緩めの足取りで。
本当だったら、早く屋敷に帰った方が良いのはわかっている。
だが、彼の主は屋敷に戻ってもまだなんだかんだと思い出しては、仕事を続けそうな予感がある。
だから、移動に時間をかける。
それに。
ふたりだけで時を共有できることが、彼には嬉しかったりするのだ。
たとえ、交わす言葉がなくても。
背中側にあって、姿を見ずとも。
目を閉じ、リラックスした様子で背もたれに身体を預けている様子がわかるから。
束の間の休息の時間。
他の者の前ではあり得ない、ゆったりとする主の存在を感じているだけで、ジュリアスはほんのりとした喜びを感じる。
細やかでも、得られる信頼が嬉しい。
この気持ちがあるから、年若い女性を主としていることに色々言ってくる輩の声も気にならないし、カミーユがすこしでも楽になるならば、なんでもしようという気にもなる。
こうして普通の従者はやらない、御者の仕事を覚えたのもそのためだ。
他にも、内緒で色々とはじめている。
誰よりも賢く、美しい主のために。
すこしでも力になれるように。
だが、彼の主は万能で、大抵のことはひとりで出来てしまうのが困りものだ。
最初は、父親の研究に無条件に出資してくれた恩人に、せめて、なにかお返しになるようなことができないかと持ちかけたのがきっかけだった。
長年、不遇な境遇に置かれながら、地道につづけていた父の研究を認めてくれたことが嬉しくも、申し訳ない気がして。
万が一、研究がものにならなかった時のための打算もあった。
「では、私の下で働いてみますか?」
一も二もなく、うなずいた。
あれから、三年。
ジュリアスもすこし大人になり、色んなことがすこしずつ変わってきている。
変えようとしているところ。
日の暮れた街に、ぽくぽくと石畳を歩く馬の蹄が鳴る。
海はすっかり夜の闇に溶け込んで、穏やかな波音と潮の匂いだけでその存在を伝えている。
良い夜だ。
ジュリアスもまた、幸せな時を過ごしている。
馬車を走らせて、およそ十分の距離。
やっと、到着する王族専用の別荘。
その一室で、ダイアナは目録作りに勤しんでいる。
渡された貴金属類をひとつひとつ観察し、分類して、形状や状態を細かく記述していく。
難しい仕事ではないけれど、手間のかかる仕事だ。
宝石はどれもこれも素晴らしいものばかりだ。
部屋の灯に反射してきらきら光り、とても綺麗だ。
ときどき溜め息を洩らしてしまうほどに。
ダイアナは装飾品よりは希少本を選んでしまう性質だが、こういった物にまったく興味がないわけではない。
女性らしく、奇麗なものは普通に好きだ。
そして、こうした仕事がそれ以上に好きというだけだ。
没頭していれば、昼間、マーカスやシュリの前で醜態を披露してしまったことを忘れていられるし。
ほかにも、恋人のことや、結婚のことや、抱えている諸々の悩みを忘れていたい。
なにより、だれにも気を遣う必要がない。
その時、目に入ったのは、マーカスから借りたハンカチ。
明日、洗って返さなければならない。
ああ、恥ずかしい。穴があったら、入りたいくらいだ。
ダイアナはひとり顔を赤くして、ひそかに悶える。
音のないひとり静かな部屋で、彼女の走らせるペンの音だけがかさこそと響く。
その音が、なんとも耳に心地良い。
幸せとは言えないけれど――だが、ある日、後からこのひとときを思い出して、ダイアナは呟くのだ。
……あの時もあれで幸せだったのだわ、と。
そんなひそやかな部屋を抜け出して、廊下を渡りいくつもの扉の前を通り過ぎた先。
ひとつの扉の奥を覗くと、寝台の上に転がるルーファスがいる。
靴だけは脱がされていたけれど、服は今朝のまんま。
いや、海に浸かって自然乾燥させただけだから、しわくちゃもいいところ。
あちこちに猫の毛が塊でこびりついていて、どこかに塩が浮いているかもしれない。
髪だってぼさぼさのぐちゃぐちゃ。
でも、そんなことは気にしていない。
なぜなら、彼は爆睡中だから。
夢も見ずに。
失神していると言ってもいいかもしれない。
だが、それも幸せな時と言っていいに違いない。
起きぬけの朝一番に、己の悲惨さにうなり声をあげようとも。
倒れている間に顔に布をかけて隠した状態で、港から大八車に乗せられて屋敷まで運ばれた事を知り、とても嫌な気分になろうとも。
今は苦しみも悩みもなにもなく。
仕事も、義務も、なにもかも忘れて。
そして、朝までぐっすりと眠る。
次に立ち向かうべきものを前にして。
窓の向こう、ちいさな黒い小鳥が、枝の上から彼ら彼女らを見守っている。