11




 そんな事が起きていた庭より更に奥。王宮の滅多に人の立ち入れない区域であるここでも、深く溜息をつく者がひとりいた。
 ビストリア・ルイーズ・フランチェスカ・ド・マジェストリア女王陛下。
 国でも最高級の物が集まる豪華な一室に繋がるテラスでくつろぎながら、形のよい眉をしかめていた。
 手元から、ぱちん、ぱちん、と繰返す音もあるが、先ほどのよりももっと殺伐とした音を響かせている。
 夫である国王に、一ヶ月間二十四時間体制でみっちり特訓を言い渡したにも関らず、御機嫌斜めだ。
 無理もない。
 いつでも、どこでも、本当の意味で家を守るのは女の仕事であったりする。
 家族へのフォローを含めて。
 かかるストレスは同じ。身分もなにも関係がない。いや、身分あるが故に、より大きな荷を背負わされると言えるかもしれない。
 女王である彼女の家は、国。
 国母と呼ばれる身だ。
 国王である伴侶を支えるだけに留まらない。伴侶が頼りなければ、尚更、その肩に責任は伸し掛かる。
 もとより公爵令嬢であった彼女は、幼い頃からそうあるべく育てられてきた。娘らしい感情を抱くより先に、親達よりドレイファス王の妻になる事を定められ、教育を施されてきた。
 そして、彼女もよく学んできた。王妃に相応しいものとなるべく。
 ほかの生き方は知らなかった。だが、それを不幸とは思ってはいなかった。
 女性であるより以前に、妻であるより以前に、彼女は女王だった。
 それだけの事。
 しかしそれにしても、と痛む頭を指先で押さえる。
 羨む者もいる身ではあるが、貧乏くじを引かされた感がどうにも拭えないでいる。過去にも同じような事を幾度となく感じ、そしていまも思っている。
 凡庸といえば、凡庸。
 無難といえば、無難。
 ふざけた性格は別にして、彼女の伴侶を表現するならば、それしか表現のしようがないと思う。それなりに教育は身についてはいるが、特に突出しているわけではない。
 とんでもない愚王であるとか、色暈《いろぼ》けしているよりは、よほどマシかもしれないとは思うが、それにしても世話がかかりすぎるといい加減、嫌になる。
 ドレイファスは、五人姉弟のうち、たったひとりの男子だった。唯一の王位継承者だった。しかも、末っ子。
 故に、舅と姑と小姑たちは、揃いも揃ってドレイファスを可愛がり過ぎた。甘やかし過ぎたのだ。結果、出来上がったのが、アレだ。
 蝶よ花よと育てられた王子。
 女である自分よりも、乙女な思考と嗜好を持つ男。いっそ、女に産まれてきた方が幸せだったに違いないとさえ思ったものだ。
 ビストリアが正式な伴侶として迎えられたばかりの頃は、それこそ、いまよりも酷いものだった。
 砂糖菓子のような甘い考えに優柔不断。それが、あたりまえに罷り通っていた。
 戦の『い』の字が出た時点で尻込みし、ひとこと恫喝されれば、容易く屈する。それが、あたりまえに許されていた。それどころか、皆で大袈裟になぐさめたりしていたものだ。
 それを諌めたところで、姑を頭とする小姑たちに大袈裟に非難され、彼女こそがまるで悪人か人非人のような扱いを受けた経験も数えきれず。
 本人たちに自覚があろうとなかろうと、世間で言うところの、嫁いびりだ。
 夫は当然のように母や姉妹にべったりで、四面楚歌に置かれた。
 おかげで、毎日、腹立ちの種に事欠かないありさまだった。
 ちっとも愉しくはなかったが、エキサイティングな日々だった。
 すくなくとも、退屈する暇はなかった。
 男はわざわざ出掛けて戦をするが、女は出掛けずして、そこが戦場だ。
 見えない刃で相手を切り刻む。技は、日々、進化する。
 本来、低血圧で朝おきるにも苦労していた筈が自然と血圧は高くなり、かえって健康になったのではないかと思えるぐらいになった。
 気持ちを表情に出さないよう、ポーカーフェイスはお手のものとなった。おかげで、今も皺は少なく年齢より若くみられるのは、ちょっと嬉しいかもしれない。
 それとなく嫌みや皮肉を言わせることにかけては、この国でも屈指の存在と自負している。
 ザ・クイーン・オブ・毒舌。
 陰口さえも、誇らしい称号だ。
 彼女自身、あのひとり鞭打たれるような日々のなかで、一段と精神が逞しくなり雄々しくなったと自覚するほどに。
 鞭を打たれる者を女王とは呼ばない。鞭を打ってこその『女王さま』だ。
 それまでビストリアが受けてきた教育は、伊達ではなかった。
 打たれたならば、倍にして打ち返す。
 毎日、繰り返し。飽きることなく。
 ヒートアップした状態でがんがん鍛え上げられれば、鉄くずの塊も立派な剣に変わる。ましてや、元が良質の素材となれば、切れぬものなど何もない、天下の名刀のできあがりだ。
 名刀、ビストリア。しなやかさと強靱さを併せ持つその刃をもって、戦場を離れる理由はなかった。
 また、つまらぬものを斬ってしまったと愚痴りながら、時には奸計もつかって、有無を言わさず小姑たちを嫁に出して片付け、舅があの世に旅立つのを見送った。姑がひとり残ったが、大事な息子を夫と混同してしまうほどに耄碌してした状態では、戦うにも値しない。過去はどうあれ、いまは、慣れた者たちに介護をまかせ、残る人生の時を静かにすごさせている。
 なんであれ、やっと言いたい事が言えるようになったところで、次には、王となった夫の尻を本格的に叩き始めた。泣き言を口にすれば叱咤し、ビストリアや他の家臣が、力づくでそれなりの体裁を整えさせてきた。
 多少の、これまでの恨みも籠めて。
 しかし、それも国と民を思ってのことだ。
 王妃とは、そういうものだから。
 何度か侵略の危機はありはしたが、その度に乗り越え、なんとか国を保ってこられた。
 が、その経験でドレイファス王が身につけたものと言えば、その場凌ぎの言い訳とのらりくらりと躱す処世術ばかりだ。
 三つ子の魂百までとは、よく言ったもの。
 相変わらず、軟弱。底知れぬ、惰弱ぶり。
 つける薬はないものか。あれば、王家の秘宝の半分を渡してもよいとさえ思っている。
 だから、ビストリアとしても、ルーファスの苛立ちはとても良くわかっているつもりだ。
 好き嫌いは兎も角、トカゲ族を身内に迎えたとなれば、戦わずして国を乗っとられかねない。
 他国から妻を娶るというのは、そういうことだ。同盟なんぞとほざいたところで、そんなものは大義名分。紙の上にしか存在しない。
 まずは、生国。生国を守るためにならば、伴侶を裏切りもする。生国に利益をもたらすためにならば、如何様にも情報をさぐって流すし、立ち回る。
 それは卑怯とかいうものではなく、当り前のことだ。ビストリアがその立場であっても、そうする。
 だから、下手をすれば、いつか王族すべてがトカゲ族になることだって考えられる。そして、人はその前に傅くことになる。
 別種族への隷属。それは、人としての尊厳にも関る。この国の民に、苦渋を強いることにもなりかねない。
 だが、それを約束してしまったのだ、この国の王は! 彼女の夫は!
 王の言は絶対である。約束を不履行にする場合には、それなりの理由がいる。それにしても、戦いを辞さない覚悟で。
 だが、王にそんな度胸はない。
 ビストリアは、ぱちん、と手の中の扇を鳴らした。
 こんな事になるとわかっていれば、無理矢理にでもとっととルーファスの婚姻を決めて、王位を譲り渡しておけばよかった、と歯噛みする。
 ドレイファス王をみてきたせいで、己の息子には同じ轍は踏ませまいと、王に相応しい者であるようにと徹底的に教育をほどこした。
 心を鬼にし、母としての情はなるべく控えた。
 その甲斐あって、多少の問題はあるが、贔屓目なしに王としてもやっていける器量と度量は身に付けていると思う。
 だが、しかし、王になるには、まず伴侶が必要。妃なくして王に即位することはかなわない。
 それが、厳然たるこの国の掟だ。
 だからこそ、形ばかりでも結婚してしまえ、とビストリアは言ったのだ。
 王位を継いだそのあとはなんとでもなる、と。
 とは言え、それには問題がふたつあった。
 ひとつは、この国にかけられている呪い。
 これのせいで、格上の国に攻め込まれた場合、圧倒的に不利になる。
 ふたつめは、ルーファス自身の問題だ。
 どうやら、心に決めた娘がいるらしい。どこの誰とはわからないが、その娘以外を伴侶にする気はないようだ、と、この縁談話がきてからなんとなく気がついた。
 とうに妻がいてもおかしくない年であるのに独り身であるのは、そのせいだ。
 そして、今でも諦めていないというのは、最前の様子からしても明らかだ。
 しかし、一体、どこのどんな娘なのか。
 よほど身分が離れているのか、それとも、一方的に思っているだけなのか、或いは、もっと別の理由からか。でなければ、とうに妻に迎え入れると言っているに違いない。
 トカゲよりはましならば、許しても良いかとは思うが、それもわからない。
 推敲ごとに、ぱちん、ぱちん、と扇の音もより鋭くなっていく。

 ――まさか、娘ですらなかったりして?

 はっ、と思い付いてしまった自分の考えに、ビストリアは固まり、蒼ざめた。

 ――いえ! まさかあのルーファスに限って、そんな事は有り得ない! 同性愛の趣味があるなんて!!

 母親にとっては、超ド級のショックだ。
 思わず寝込みたくなるほどの。
 息子から聞きたくない告白の上位にランクされるだろう。
 そして、お決まりの台詞がでる。

 うちの子に限って!!

 脳内否定は真っ盛り。力づくで、全力をあげて否定する。
 しかし、いつも傍に置いている、カミーユ・ラスティス・ド・ガレサンドロ。男装の麗人の存在が脳裏に横切る。
 次期宰相の呼び声も高い才媛ながら、女は伴侶を得て子を産み育てるこそが幸せ、と男性優位の思想に凝り固まった者たちには、許しがたき存在。
 ビストリア自身は有能であれば性別に固執することはないという考えではあるが、現実的な難しさは否定できない。
 これまでは、あの男装は、己が足場を固めるための布石のひとつと彼女は考えてはいたが、

 ――ひょっとして、ルーファスの嗜好で?

 思いつけば、やれ遠征だの、やれ領地の視察だのと、務めとは言え、年中、部下の騎士やら兵士やら、男ばかりに囲まれて暮らしている。身の回りの世話も女の数は最低限でしかなく、圧倒的に男の比率が高い。異性に興味があって当り前の年齢の筈なのに、そんな気配ひとつ感じられない。
 さあっ、と血の気の引く音が聞こえた。
 まさか、と思い、次に、だが、と思考を巡らす。
 端で見ていてそれに気付くものなど、滅多にいないだろうが、彼女は珍しくも動揺した。
 もし、ビストリアが普段よりのふたりの遣取りを聞いていれば、すぐに杞憂であることは知れた筈だった。
 もし、ビストリアが、城を抜け出しては、市中で後腐れない女たちと遊びもするルーファスの行動を知っていれば、血圧もすこしは低くなっただろう。
 だが、良くも悪くも彼女は、母や妻である以前に王妃だった。
 そして、ルーファスは、息子である以前に王子だった。
 家族の絆という言葉が、公私にわたって王族である者たちの前では、裸足で逃げ出すことは珍しくない。
 団らんどころか、ふつうの親子の会話などというものは、彼女たちの間では成立しない。
 幼い息子が、どこぞのだれちゃんと結婚すると口走るのを聞いて微笑ましく感じたり、思春期になって、やたらと減りの早い息子の部屋のティッシュボックスを補充するたびに密かに溜息をつき、部屋を掃除しては隠してある猥雑な雑誌などを見付けて戸惑う生活など、彼女たちの間では有り得ない。
 勘違いによって起る悲喜こもごもは同じであっても。
 それでなくとも、息子の行動すべてを把握するのは、難しい。というより、無理。
 だが、その辺、国のトップにある者はちがう。

 ――すぐにでも確かめなければ!

 もし、そうであれば、王家の直系たる血は絶えることになる。
 傍流に取って代られることになる。
 これは、王妃である彼女にとって、この上もない危機だ。存在意義が問われることになる。

 ――もし、ルーファスがそうであった時は……

 男装が許容範囲にはいるならば、件の側近でもだれでもよいから無理矢理にでも子を作らせることも出来る。だが、それすらもだめならば、今はレンカルト国へ留学中の第二王子、アレックスを早急に呼び戻すことも考えねばなるまい、と忙しく考えをめぐらせる。
 アレックスは性格が夫に似たぶん王とするには心許なくはあるが、若いだけあって叩き直せる余地はまだある。それこそ、伴侶にしっかりした娘をつければ、まだなんとかなりそうだった。

 ぱちっ!

 高らかに扇が鳴った。
 と、すぐ傍の植え込みが葉を揺らしたのに気がついたのは同時だった。




 ≪ back  index  next ≫ 



inserted by FC2 system