世はすべてこともなし。
そう言えるどころか、現実はまったく逆方向であるのだが。
それでも、わざわざ裏を返して見なければ、気が抜けるほど穏やかな一日が過ごせたと言えるだろう。
なにせ、今日は一本も扇を駄目にしていないのだから。
レディン姫が寝込んでくれたおかげで、ビストリアも不要な愛想笑いをせずにすんだ。
この調子だと、おそらく明日もおなじく、平和な一日をおくれることだろう。
大量注文した扇が無駄になるかもしれないが、腐るものではなし、別の使い所があるに違いない。
夕餉のあとの、寛ぎの時間。
ビストリアはゆったりとした気分で、食後のコーヒーを味わった。
テーブルの向こうにいる彼女の夫が、すべての皿を空にして言った。
「ううん、おいしかったけれど、やっぱりエンリオの作った料理に比べると、すこし物足りないなあ。お肉の量もちょっと少ない感じだったし」
ナプキンで口元をぬぐう、夫の突き出た腹に目がいった。
ダイエットの効果はあるのだろうが、まだ目に見えてというほどではない。
まったく、どれだけ脂肪をため込んでいるのか。
「私にはちょうど良い量でしたが。味も文句を言うほどではございませんでしょう」
「文句というほどじゃないよ。充分おいしかったと思うよ。ただ、すこし物足りなかっただけ。ひとあじ足りないっていうかさ。同じ量でもエンリオの料理だったら違うんだろうなあって思ったんだよ」
「仕方ありませんでしょう。彼の者も披露目のための準備があるというのですから。各国の方々に貧相な食事を供せますまい。マジェストリアの恥にもなりますし、エンリオの矜持を傷つけることになりましょう」
「そうなんだろうけれど……でも、作ってくれている者たちには悪いけれど、やっぱり、エンリオの料理がいちばんだね」
「それはそうでございましょうね」
ビストリアは、やんわりと肯定した。
それに気を良くしたらしい彼女の夫は、ところで、と話題を変えた。
「ねぇ、ビスティ、本当にレディン姫のお見舞い行かなくていいかなあ。国賓なんだし、ちょっとぐらい顔を見せておいた方がよくない?」
何故、そういうところにだけ気が回るのか。
「放っておけばよろしいでしょう。先方も寝ているところに押し掛けられては、逆に迷惑。ゆっくりと休むこともできますまい」
「でもさあ、遠い場所にひとりで来てさあ、きっと心細いと思うんだよ」
「侍女達がおりますでしょう。それに、我が方の者たちにもできるだけお慰めするよう申し付けております」
ぱちり。
扇を鳴らしたのは、今日はじめてかもしれない。
「大体、他国へ侍女を二名も付き従えて来られること自体、恵まれております」
それどころか、王宮外に六名の侍女を待機させているという。
八名も連れてくるとは、ビストリアの感覚からすれば、どうかしている。
ルーファスの采配で、王宮への立ち入り人数がこれだけ減らせたのは、上出来だろう。
普通、嫁入りともなれば、随行の一名でも入国の許しが出れば、法外。
身ひとつが当然。
国境での受け渡しによって、生国との縁は切れる。
何故なら、人質だから。
間諜になるかもしれない者を、どこがそうやすやすと国の中枢に招き入れるものか!
だからこそ、フェリスティアもあれほど苦労させられたのだ。
ところが、それをシャスマールは、ぜんぶぶっちぎってやって来た。
本来ならば、侵略を受けたとして、全員の首を刎ねたとしても非はないだろう。
しかし、そうすると、戦争になることは避けられない。
それが困るから、敢えてすべてを受け入れた。
『嫁入り』ではないから。
ただの『友好を深めにきた国賓』として。
現時点でシャスマールが誤解しようが、国民や臣下が勘違いしていようが、問題はない。
あとから詭弁と非難されようが、いちゃもんつけられようが、ちゃんと結果さえ伴えば、この程度のことは水に流せる。
そうなるよう、今頃、ルーファスが頑張っている筈だ。
だが、息子の努力も知らず、原因を作った実の父親は、尚も言う。
「でもさあ、なんだか可哀想になっちゃってさ。ルーちゃんに会えなかったショックで、まさか寝込むとは思わないじゃない? 尻尾も切っちゃったっていうし。王宮の空気も刺々しいっていうか、良くないしさ。きっと、すごく辛いんだと思うな」
めりっ。
この木が軋む音も、久しぶりに聞いた気がする。
「陛下」
ビストリアは精いっぱい笑顔を顔面に貼り付けて言った。
「なんだい、ビスティ」
「トカゲ族を恐れておられる貴方様が見舞いに行かれたところで、かえって失礼になるかと存じます」
「ああ、うん。そうなんだよねぇ……でも、謁見の時に見た感じ、国王ほど怖くなかったっていうか、よく見ると愛嬌ある顔だなあって思ってさ。目とか丸くてぱっちりして、なんか可愛いし。レディン姫だったら、案外、大丈夫かなあって」
うふふふふふふふふ……
突っ込み所、満載だ。
ビストリアの口から、思わず笑い声がついてでていた。
「あれ、なにか笑うようなこと言った? なんだか今日は、ビスティご機嫌だね」
どうして、そういう答えになるのか。
長年連れ添ってはいるが、夫のこういうところに、いつまで経っても慣れない。
ときどき無性に腹が立って仕方がない。
よくもまあ辛抱が続くものだと、己を褒め称えたいくらいだ。
「たれぞ、新しい扇をもて」
今日は、駄目にしないで済むと思ったのに。
折角の一日がこれで台無しだ。
ビストリアは運ばれてきた新しい扇と、二つ折りになった扇を取り換えた。
「陛下、折角の機会ですから、この後、少々、お時間をいただけますか? 久しぶりにお話をいたしましょう」
「うん? なあに、面白い話?」
「ええ、愉快な話になると思いますわ。聞いていただけますかしら」
「もちろん! どんな話? 最近、勉強とか運動で時間をとられてビスティともゆっくり話す機会もなかったから、大歓迎だよ」
「嬉しゅうございますわ、陛下」
どこまでも果てしなく無邪気な丸い顔を見ながら、ビストリアは口角を引き上げた。
「では、なぜ、お食事でお肉がすくなかったのか。なぜ、ルーファスがいないのか。なぜ、エンリオ・アバルジャーニーが王宮を離れているのか。なぜ、シャスマールのレディン姫が当王宮にて寝込む羽目になられたのか。なぜ、王宮の空気が悪くなっているのか。これらを帝王学の見地から、ゆっくりじっくりとご説明して差し上げましょう」
「えぇっ、それじゃあ、まるでお勉強じゃないか」
途端に口を尖らせる顔に、「そうではございませんわ」、と答える。
「陛下の御為にもなるかもしれませんが、それほどのことではございませんの。これは、私の文句と言えないほどの文句。つまり、愚痴です」
『おんどりゃあ、ぜんぶてめぇのせいだろうがっ!! 舐めた口きいてんじゃねぇぞ、おらぁっ!!』
下町の、少々、気の荒い者ならばこう答えるかもしれないところを、ビストリアは王妃らしく上品に、慎み深く言った。
澄ました笑顔つきで。
「お付き合い頂けますわね、陛下」
そして。
「うわーん!! ごめんなさい、ごめんなさいっ! もう、許してぇっ!!」
その日、夜更け近くまで、『女王陛下』の振るうことばの鞭と国王陛下の泣き声が続いたという。