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 昨日も疲れたが、今日もお疲れ。
 サラリーマンには当たり前のことで、ストレスの自覚症状さえなくすが、そんな職業とは縁のない筈のシュリにとっては、辛さもひとしお。
 必死で、出そうになる生あくびを堪える。
 と言っても、額や心に汗して働いているわけではない。
 事情を知らない者が見れば、暇つぶしに優雅なお茶会をしているようにしか見えない。
 豪華な茶器類に、しみひとつない清潔なナプキン。
 軽食に色とりどりのお菓子。
 人によっては、羨みもするし、嫌みのひとつも言いたくなるかもしれない。
 だが、優雅に水面を行く白鳥が水面下で必死で水を掻くが如く、シュリも人知れず努力の真っ最中だ。
 午前中にダイアナから受けた特訓の成果をお披露目中。
 あくまで上品に、気品あふれる態度を保つ。
 返答は言葉少なく、微笑みをもって。
 背筋は伸ばし、首や手など無駄な動きは控える。
 カップを持つ指先は揃え、もう片方で支えるソーサーも揺らさないようまっすぐ。
 食器は、かちゃかちゃいわさない。
 脚はドレスに隠れていても、斜め三十五度の角度で爪先まできちんと揃えて。
 他にもお辞儀の仕方やら、言葉遣いやら細々と。
 行儀は師匠からも躾けられたが、ダイアナが教える内容は、もっと細部に渡り難しい。
 どれだけ難しいかというと、普段、使っていなかった筋肉がぷるぷる震えるほど。
 それも、当然。
 ダイアナの教えたのは、最上級の淑女として必須のマナーだ。
 行儀が良いだけとは、レベルが違う。
 寸分の緩みも許されない。
 時間がなかったので、はしょって基礎の基礎とお茶会に必要な事項のみではあったが、付け焼き刃で体裁を整えるだけでも大変だ。
 たかがマナーひとつ、と侮るなかれ。
 でなければ、高い金払ってスイスの全寮制お嬢様学校やセレブな結婚相手を見つける為のランクアップ講座の受講生などがいるわけがなく、伝統ある作法の流派など存在するはずもない。
 シュリは無料だけれど。
 だが、ただより高いものはない、とも言うし。
 それに、なにより、
「シュリさまが『物静かで、賢明』という印象を植え付けておきたいのです。殿下より意見を求められる以外は、自ら口を開くことはされませんように。内容によっては、我慢をしていただくこともあるでしょうが、お願いします」
 と、カミーユからも釘を刺されている。
 カミーユの『お願い』は、なぜ、『そうしないと後から怖い』と感じるのだろう?
 しかし、そうでなくとも、失敗続きのシュリとしては、言われたことぐらいはきちんとしなければならないし、したいと思う。
 だから、シュリは一生懸命だ。
 お客様に、女王様に相応しく見せる為に。
 お客様とは、ノルドワイズ伯爵夫人。
 この地の領主の奥方だそうだ。
 夫人は、まるまるふくふくとした女性で、途中から白っぽく変わっている金髪からみて、多分、マウリアさんよりも年上だろう。
 丸く結った髪形やたっぷりと膨らんだ薄いピンク色のドレスとも相まって、その場で弾みそうだ。
 高低の変化の激しいうねるような声音に、喋り方もなんとなく大袈裟であまり好きになれない。
 その声が言った。
「本当に、シュリ様のなんとお美しいこと。大陸広しと言えど、斯様に美しい方はふたりとおられぬでしょうね。歴史上では傾国と謳われたリンディアナ妃やディル・リィ=ロサ王女とも並ぶか、それ以上でございましょう。お披露目の後は、芸術に才ある者達がこぞって数多の歌や絵画に残そうとするに違いありませんわ。それにしても、実物を前にすれば物足りないものになりましょうが」
 確かに、おめかしした……させられたシュリを鏡で見た時は、自分でもびっくりした。
 いつもとぜんぜん雰囲気が違っていたから。
 ここでは、いつも奇麗にはさせてもらっているが、今日は、そのいつも以上だった。
 化粧をして、用意された瞳と同じ色のレースがいっぱいついたドレスを着たシュリは、自分でも気恥ずかしさを覚えるほどに華やかで、見るからに『お姫さま』だった。
 下着から窮屈なのには参ったし、首飾りや耳飾りも重くてうっとうしいけれど、そんなことを気付かせないくらいに、本物の『お姫さま』になったように見えた。
 しかし、褒められても、あまり嬉しくないのは何故だろう?
 それどころか、ちょっと怖い。
 それでもお礼を言うべきなのだろうが、口を開くのは、ぐっ、と我慢。
 ダイアナの教え通り、伏し目がちにしてほんのりと唇の端をあげるぐらいに黙って微笑む『形』を作る。
 すると、お客様のノルドワイズ伯爵夫人は、何故か、大きな宝石で飾った指先を口元にあてて、「まあまあ」、ところころと楽しそうな笑い声をたてた。
 どういう作用があったのか、シュリにはわからない。
 ダイアナの説明によれば、
「『雄弁は銀、沈黙は金』よ。銀よりも金の方がいいでしょ。そして、『目は口ほどにものを言う』とも言うわ」
 だ、そうだが。
 それよりも、先程から頭が重くて仕方がない。
 病気ではなく、髪をあちらこちらと引っ張られて、コテで巻かれたり、ピンで留められたり、結んだり縛られたりして、こんもりと盛られているせいだ。
 おかげで、頭をしゃんと擡げているのも辛いほど。
 視界は開けてさっぱりはするが、なんとなく気恥ずかしい。
 丸出しになっている耳もすうすうして、心許ない。
 首筋にあたっているのは、なんだろう?
 ほつれ毛か糸のような気もするが、くすぐったくて気になる。
 だが、これを払って良いものか。
 駄目なような気がする。
 と、隣の席に座っているルーファスが口を開いた。
「シュリは見た目の美しさだけでなく、民草を思う気持ちも人一倍ある。先日の騒ぎにも真っ先にあれに気付き、被害を受けた民の心を憂い、自ら怪我人の治癒を行いたいと言いだしもして困りもした」
「んまぁあ、なんとお優しいことでしょう!」
「ああ、しかし、それではシュリの身が危険と判断して、見舞い金を出させる事で納得させたというわけだが、それにしても、かなりの説得を要した」
 それは違うだろう。
 が、黙っていろと言われたからには、ここは、ぐぐっ、と我慢。
「それあって、俺とてもただ眺めているだけにはいかず、あれこれと手出しをしてしまったが、ノルドワイズには領主としての手腕を揮う機会を失わさせたようで、少々、気の毒をした」
「いえ、とんでもございませんわ。殿下がいらして下さらなければ、今頃、街はどうなっていたことか。なにせ、あの人も武においてはからっきしで。殿下があの化け物を追い返して下さったお陰で大した被害もでず、シュリさまのお慈悲もいただいて、私どもも、領民ともども殿下方にはこの上なく感謝しておりますわ」
「そうか。ならばよかった」
 それも違うと、シュリは思う。
 デロリアンは化け物ではない。精霊で、大きな蛸さんだ。
 それに、まだ沢山の人が困っているのだから、大した被害だと思う。
 どうも最初からふたりの話が、ずれている気がする。
 それに、白いシャツを着ているルーファスも、どこか変だ。
 おかしい。
 どことは言えないけれど、シャツの色だけでなく、いつもと違う。
 それに、周りの空気もそこはかとなく乾いた感じがある。
 精霊たちの姿もひとつもない。
 なぜか、と調べてみたいところだが、ここも、ぐぐぐっ、と我慢。
「シュリさま、お茶のお替わりはいかがですか」
 脇から給仕役をしているカミーユに尋ねられた。
 見上げれば、微笑んでいるのに怖い。
『大人しくしていろ』、と目が言っていた。
「……いただくわ」
『ありがとう』は、教えられた通りに省略。
 ほら、ちゃんと出来るでしょ?
 確認したいが、やっぱりカミーユの顔を見るにはこわいので、音もなく注がれる琥珀色の液体を眺めて気を紛らわした。
「けれど、残念ですわ。明日の晩餐会には、殿下とシュリさまには、是非、ご出席いただきたかったですわ。グルマン侯爵夫妻や、プラセッタ伯爵家のベリンダさまもご招待いたしておりますのよ。皆、殿下方にお会いできるのを心待ちにしておりますでしょうに。殿下は、ベリンダさまはご存知でらっしゃいますかしら? シュリさまとは比べようもありませんが、お美しい気立てのよいお嬢様で。性格も明るくて気持ちの良い方でらっしゃいますわ」
「シュリと比べられる娘など、いるはずもなかろう」
 ルーファスが笑って答えた。
 そんなことはないと思う。
 ところで、キールはちゃんと大人しくしているだろうか?
 そう言えば、マーカス達がシュリに質問があると言っていたが、だいじょうぶだろうか?
「勿論でございますとも」
 ノルドワイズ夫人の声が、急に強張って聞こえた。
「けれど、シュリさまともお年が近いようでございますし、よいお話し相手になるのではないかと思いましたの。シュリさまも退屈もされますでしょう?」
「シュリ、退屈か?」
 急に問われてびっくりした。
 そんな問いの答えも用意されていなかったし。
 だが、はい、とうなずいてはいけない気がした。
 それに、到着した時は退屈だったが、今はそれどころではない。
 それに、晩餐会の話など今はじめて聞いたし、それがなにかシュリにはわからない。
 取りあえずの返事としては、
「いいえ」
「だろうな」
 ルーファスは満足そうにうなずいた。
 正解だったらしい。
 よかった、と一安心。
「披露目までに準備せねばならぬことが多く、シュリにも無理をさせている。僅かな時でもあれば、休ませてやりたい。それに、」
 間を置くように、ルーファスの長い脚が組み替えられた。
「先程も伝説の妃たちの名が引合いに出されたが、まことこの美しさは男を狂わす。そう思わないか?」
「……さあ、男ではない私にはわかりかねますが……そういう事もあるやもしれませんわね」
「そなたは、シュリの祖母にあたるポウリスタ公爵夫人の事は覚えているか。顔ぐらいは覚えているだろう」
「はい。私は直接のお付き合いを得られる機会はございませんでしたが、舞踏会で二、三度、お見かけした記憶がございます」
「公爵家に嫁ぐ以前は、求婚者の数が凄まじかったらしいな。求婚者同士の決闘も行われ、死人も出たほどだったとか」
「えぇ、そういうこともございましたわね。昔の事なので、ぼんやりとしか覚えておりませぬが」
 どうしたんだろう?
 ノルドワイズ夫人の顔色が悪くなっている事に、シュリは気が付いた。
 微かに指先も震えている。
 身体も、急に萎んでしまったようにも思える。
 おなかでも痛くなったのだろうか?
「そうか。しかし、その娘のことは忘れてはいまい」
 だが、ルーファスは、夫人の具合が悪いのに気が付いていないみたいだった。
「俺は話でしか知らないが、実に哀れとしか言い様がない。人身御供で嫁がされた上に、横恋慕した愚か者や、その美しさ故に嫉みに駆られた女たちの犠牲になったのだからな。その上、味方である筈の我が国の者にしても、やっと逃れてきたものを前に、『即刻、帰せ』と意見した者が少なからずいたとか。戦を逃れたい一心であったろうが、幾許かは王族の血が流れる者を指して、よくも堂々と不遜な口がきけたものだと、逆に感心もする。それに扇動された者たちも同様に。結局、帰国させた数ヶ月後には、あの惨事で妃も命を落とす羽目になったのだからな。陛下は咎めもしなかったみたいだが、俺はその時意見した者たちの首を刎ねてやってもよかったとも思う。そなたは、どう思う?」
 夫人からの返事はなかった。
 唇を食いしばって、必死で震えるのを耐えているように見える。
 顔色も真っ青だ。
 本格的に具合が悪くなったらしい。
 そこまでしてマナーは守らなければならないものなのか?
 身体の方が大事だろう。
 シュリは、黙って見ていられなくなった。
 あとで叱られるかもしれないが、病気ならば、早めに処置した方がいいに決まっているから。
「あの」、と控えめながら思い切って夫人に声をかけた。
「気分が悪いのですか? 顔色も優れませんが、すこし休んだ方が良いのでは、ない、です、か……」
 たぶん、言い方は間違っていないと思う。
 だが、途中で、背筋が、ぞくっ、とした。
 振り返るのが恐ろしい。
 金髪の鬼が立っていそうで。
 急に油が切れたみたいに、身体の中から関節がぎしぎし鳴って聞こえた。

 かちゃん。

 突然の食器の割れる音に、意識が向いた。
「ああ、すまない。持ち手がとれてしまった。不良品だったようだ」
 ルーファスが両手をはたきながら、なんでもない様子で言った。
 見れば、足下には持ち手のなくなったカップが転がり、白いシャツには大きく染みが広がっていた。
 すかさず、カミーユが近づいてタオルを手渡した。
 顔を盗み見れば、怒っているようには見えないが、無表情。
 それが、尚更、不気味で恐ろしい。
「お怪我は」
「ない」
「すぐにお召し替えを」
「そうだな」
 ルーファスが立ち上がった。
 続けて立ち上がろうとしてよろける夫人を、シュリは支えた。
「そういうわけで、これで失礼する。具合が悪いのであれば、横になれる部屋を用意させるが?」
「いいえ……いいえ、そんな、とんでもない! 畏れ多く、結構にございます。……本日は、殿下方には貴重なお時間を割いてのお招きに預かり、深く感謝いたします」
 深く沈むように、夫人は礼をした。
 顔色の悪さも相まって、そのまま倒れてしまいそうなくらいに。
「ノルドワイズにも宜しく伝えてくれ」
 ルーファスは答えると、彼女の名を呼んで手を差し出してきた。
 一緒に退出しろ、という事らしい。
 だが、夫人は?
 しぶしぶ手を重ねながら大丈夫かと心配する横で、ルーファスがわかった様子で言った。
「夫人の見送りを頼む」
「畏まりました」
 カミーユに任せるから安心していい、ということらしい。
 それでも、心配が晴れるわけもなく、
「どうぞ、お気をつけになって。ごきげんよう」
 シュリはそれだけ言った。
 すると、
「シュリさまのお優しきお心遣い、勿体なくも深く感謝を申し上げます」
 と、ますます頭を垂れて、震える声でのノルドワイズ夫人の畏まった返事に、かえって悪いことをしたような気がした。
 やはり、勝手に口を開いてはいけないものらしい。
 シュリには理解できないが、また失敗してしまったらしいと悟った。
 内心はしょげながら頭だけはあげて、シュリはルーファスに従って部屋を出た。
 手を引かれるままに、静々と長い廊下を進んだ。
 部屋から随分離れたところで、ルーファスが口を開いた。
「よくやった。疲れただろう」
 慰めに聞こえた。
 思わず俯けば、今度は、くっ、と吹き出す声があった。
「年期の入った古狸の連れ合いだからどれほどの者かと警戒もしていたが、思いがけず正直者すぎて気が抜けた」
 なんのことを言っているのか。
「狸さん?」
「ああ、あれの夫のノルドワイズというのがなかなか小ずるいジジイで、妻君以上にでっぷり太った狸のような男だ。首を突っ込んで邪魔してこようか、というところだったが、うまく片付きそうだ」
 さっぱり、話がわからない。
 首を捻る横で、「キールに会っていくだろう」、とルーファスの部屋に招き入れられた。
 キールは聞き分けよく火鉢の中にいて、シュリの顔を見ると、ぴいぴいと嬉しそうに鳴き声をあげた。
 すでに産毛が生え変わりはじめていて、色鮮やかな夕暮れの空を思わせる風切り羽根が揃いはじめている。
 この分だと、二、三日後には飛べるようになるだろうし、まじないがなくとも普通の者たちにも姿が見えるようになるだろう。
「そうやって立っているだけで、妖精の女王といった風情だな。羽根がはえていないのが不思議なくらいだ」
  「……よくわかりません」
 シュリは答えた。
「自覚はないか。人里離れて暮らしていれば、美醜など意味のないことだろうしな」
 着替えはまだだが、浮かぶ苦笑からは、いつものルーファスに戻っていた。
 でも、さっきのルーファスとどこがどう違うのだろう?
「おまえは美しいぞ。他の誰よりもな。おまえ自身には価値ないことかもしれないが、ひと目今のおまえを目にしただけで、多くの者が頭を垂れよう」
「そんな……」
 シュリはシュリだ。
 どんな格好をしていようとも。
 違う人間の話をしているようにしか聞こえない。
「こんな有り合わせではなく着飾れば、もっと美しいのだろうな。早く、その姿を見たいものだ」
 近づけられた大きな手が、シュリの頬に触るか触れないかの位置で彷徨い、撫でた。
 見上げれば、じっ、と見つめられる。
 何か訴えてくるものを感じた。
 でも、それがなにかはわからない。
 ただ、怖いと感じる。
 滝つぼの時とおなじ怖さだ。
 本能的に逃げだしたくなってしまいそうな。
「あの、えっと、」
 見つめ返していられず、さりげなく離れながら目をそらして問えば、手も放れた。
 だが、視線だけは痛いほど感じた。
 ちゅぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいいん、と電気ドリルの音も聞こえてきそうなくらい。
 間違いなく、穴があく。
 逃げたくなるのは、多分、そのせい。
「……お客様はだいじょうぶなんでしょうか? 具合悪そうでしたけれど」
「あの程度なら平気だろう。尤も、今頃、カミーユにいたぶられて、本気で倒れていなければいいがな」
「ええ、いたぶられ?」
「薬で治るものでないことは、本人もわかっているだろう。せいぜい、大人しくしているしかないということは、身にしみてわかっただろう」
 ルーファスの顔を見れば、意地の悪そうな笑みが浮かんでいた。
 それを見て、ますますわからなくなったシュリは、キールを逃げ道にするしかなかった。
 キールは相変わらず、シュリを見上げてぴいぴいと、一生懸命に何かを訴え続けていた。




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