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 シュリは、さっぱりした気分で廊下を進んだ。
 着替えて、重かった髪や装飾品も外してせいせいした。
 身が軽くなったぶんだけ、自然とやる気が湧いてくる。
 なんでもやれそうな気持ちになっている。
 キールの躾けもなんとかなりそうで、うれしい。
 ルーファスが、『自分に出来ることはなんでもするから、協力してくれ』の言葉通りにしてくれたのが、ちょっと良かった。
 ルーファスが乱暴するのを我慢しているのを見れば、キールも見習って、火を吹くのを我慢するようになるだろう。
 必ずしもうまく出来ないにしても、その意志を持つことがなにより大事だ。
 一応、消火のための水は余分に用意しておいたし、水の精霊たちに火を吹いたら、お仕置きもかねて水をかけるように頼んでおいた。
 今晩には、火を吹かないようにするおまじないのリボンが出来るだろうから、この後の躾けもなんとかなると思う。
 それに、ルーファスも暴れなくなれば、シュリもすこしは怖さもなくなるかもしれない。
 時々、よくわからないことはあっても、暴れなければルーファスは基本的に悪い人ではないし、優しい時だってある。
 ダイアナの言う通りだ。
 ちゃんとはっきり言えば、聞いて貰える。
 ちゅいぃいん、ちゅいぃぃぃん、とドリルの音が聞こえるように見つめられたけれど、目をそらさずがんばった。
 結果、怒られたり、剣が抜かれたり、物が壊れたりしなかった。
 思い切ってやって良かった。良いことだ。
 だから、少し怖い時でも、これからはがんばって自分の意志を伝えてみようと決意する。
 そして、これからマーカスのところへ手伝いに向かうところ。
 目指すは、広い屋敷の一番隅っこの部屋。
 こっちこそ、急がなくてはならない。
 でなければ、クラディオンの地で儀式を行うどころではなくなる。
 計画自体が成り立たない。
 つまり、シュリもがんばらなくてはいけない。
 出来るだけのことを精いっぱいするのだ。
 皆に祝福を与えられるように。
 決意も新たに手をグーにしてシュリは廊下を進み、ひとつの扉を力強く開けた。
 ばあん、と音がするぐらいの勢いで。途端、

 あわわわわわわわわわわわあっ!

 マーカスが驚いた拍子に持っていた本を取り落とし、足下に積んであった本の山が雪崩を起こした。
「あぁーあ、なあにやってんのよ」
「ごめんなさいぃ」
 ダイアナの文句に、シュリは謝った。
 やっぱり、乱暴はいけない。
 しかし、それだけではなかったりもする。


 実のところ、『良い人』マーカスは密かに、少しだけ困っていた。
 それは、ダイアナに対する態度をどうすればよいか、ということだ。
 道端で突然泣きだした友達……女の子をどうしたら良いかと焦って以降。
 あれには参った。
 なにせ、予兆もなく、突然のことだったから。
 でも、必死で慰めた。
 色んな言葉を使って。
 そうしているうちに気付いてしまった。
 自分の気持ちが、ほんの僅か、ほんの数ミリ動いてしまったのを。
 マーカスにとってのダイアナは、他の同世代の女の子達にくらべてしっかりしている、という印象だった。
 真面目だし、頭も良いし、冷静だし、悩み事の相談にものってくれる。それでいて、冗談も通じないほど堅いわけではない。
 良い娘だ。
 けれど、これまでマーカスは、彼女を異性として意識したことはなかった。
 何故かは自分でもわからない。
 一見、冷たそうに見える容姿が好みじゃなかったからとか、ときどき傷ついてしまうぐらいにきつい言い方をするとか、実は務めの内容にそぐわないほどの良い家のお嬢さんだったからとか。
 なにより、『良い友達』だと思っていたから。
 でも、恋人のことを思ってこどものように泣きじゃくる姿に、心動かされてしまった。
 可愛いと思い、いいな、と思ってしまった。
 こんなふうに一途に思って貰えるフランツという男が羨ましく感じて、同時に「この野郎」とか思ってしまった。
 ダイアナも、他の女の子たちと変わらない普通の女の子だとわかってしまった。
 途端、うずうずと彼の心の奥底が疼いた。
 しかし。
 ダイアナはフランツが好きだ。
 とても、とても。
 街中で、人目を憚らず泣いてしまうほど。
 そんな彼女に、予期せず抱いてしまった仄かな気持ちを悟られるわけにはいかなかった。
 困らせたくないから。
 良い友達だから。
 だから、マーカスは心の底に蓋をした。
 ぐぐっと押し込んで。
 五右衛門風呂のように底に沈めて、忘却という重しをのせて浮かないようにして。
 でも、思い通りにならないのも、人の心。
 恥ずかしそうにハンカチを洗って返してくれた時の表情とか、クラディオンの写本を見た時の嬉しそうな顔とか、ほんのちょっとした切っ掛けで、簡単に蓋が浮き上がってこようとする。
 そして、気付かれないように、ついつい観察なんかもしてしまったりして。
 今まで気付かなかった香水の匂いとか、長い指先とか、案外、大きな胸の形とか、きゅっと締まった足首の形とか、奇麗な唇の形とか、奇麗な……

 ばたん!

「あわわわわわわわわわわわあっ!」
「あぁーあ、なあにやってんのよ」
「ごめんなさいぃ」

 そういうお年頃、真っ盛りの魔法師マーカス。
 惚れっぽさは仕方ないにしても、恋愛においても『良い人』だったりする。
 草食系とかそういうのを抜きにしても。
 それがうまくいかない要因のひとつと、彼が気付く時が来るのかどうかは、不明だ。




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