12




 がさがさがさがさがさがさがさがさ。

 部屋の目隠しにもなっている常緑樹の下方が蠢き、ひょっこりとそれは顔を出した。
 黒い毛皮に覆われた丸い顔。ふたつの三角の耳に、ぱっちりとした金色の瞳。そして、ぴん、と両側に張り出した長い髭。
 そして、左の前脚首には、金の丸いメダルのついた輪っかをつけていた。
 のそのそと植え込みの下から姿勢も低く這いだしてきては、全身を現した。
 ふう、と一息つくと、ぶるぶると身を震わせて、ついた葉や枝の欠片をはね飛ばした。
 長い尻尾をくねらせ、辺りを見回す。
 と、そこで、こちらを凝視する者がいることに気がついた。


 マジェストリア国女王、ビストリア・ルイーズ・フランチェスカ。
 向かうところ敵なしと言われる彼女にも、苦手なものは存在した。
 それは、猫。
 触るどころか、見るのも嫌。姿を思い描くだけで、ぞっ、とする。
 理由はない。ないが、生理的にどうしても受け付けなかった。
 それが、あろうことか、すぐ目の前に姿を現したものだから、驚いたなんていうものではなかった。
 悲鳴を上げるまで、あと十秒。


 キルディバランド夫人は、焦っていた。
 王子の側近との談合を終え、部屋に戻ってきてみれば、もぬけの空。
 いる筈の娘の姿はどこにもなかった。
 どこへいったかと探し歩く途中、みかけたハリネズミの庭師に訊ねてみれば、王子に追いかけられて王宮の奥へと逃げていったとの事。
 王宮の奥と言えば、王族の私的生活空間。
 間違ってそんなところへ紛れ込んでしまったら、曲者扱いされて、その場で討ち取られてしまうことも充分に考えられる。
 そんな事になれば、娘を憐れむどころではなく、彼女の娘や息子の将来にも影響する。
 半分以上、駆け足で廊下を進み、悲鳴を聞きつけて衛兵たちと共に部屋に飛び込むまで、あと十二秒。


 ふ、と見た窓の外に、銀色の髪を靡かせて風のように走って逃げる娘の姿を目撃。
 そのすぐ後を、嵐のように草木を撒き散らしながら追いかける彼女の主を見かけた時、カミーユは呆れながらも捨て置けず、そのあとを追った。
 だが、それほど根性もないので、急ぐこともなく。
 姿を見失ってもその痕跡ははっきり残されていたから、追うにも苦労はなかった。
 咲き誇る花に眼をとめ、散歩気分で庭の径を歩く。
 そんな彼女が悲鳴をききつけ、ルーファスに追い付くまで、あと三〇秒。


 追う獲物が思った以上に逃げ足が早く、ルーファスは胸中で悪態をつきながら追いかけた。
 追ってどうなるとは考えてはいなかったが、腹立ちと焦りがそんな行動に走らせた。
 取っ捉まえて、話を聞かせ、泣こうが喚こうが、首根っこ押さえつけてでも言うことを聞かせてやる!
 まるっきり悪党と変わらない考えだ。
 だが、そんなことに彼自身は気がついていなかった。気がついても、改めるつもりはなかっただろう。
 この時点では。
 彼にとって追いかけている娘は、『望み通りになれば別にどうなろうと知ったこっちゃない、ただの魔女』だったのだから。
 庭の風景が緑が多いものに変わっていた。
 目隠しをする高さの整えられた植え込みが、視界を狭くする。
 だが、逃しはしない! 逃すものか!
 彼が母親の悲鳴を聞くまで、あと十秒。
 追いかけていた娘が声をあげるまで、あと十二秒。
 そして、その場所が思い出深い場所であることに気付くまで、あと二〇秒。


 恐怖はシュリにとって、馴染み深い感覚ではない。
 物心ついた頃には、すでに人里離れた場所に暮らしていて、獣に襲われそうになったり、道に迷ったり、ちょっとした事故でそれなりに感じることはあったが、その度に里親である師匠に助けられてきた。そして、危険への対処の仕方をおぼえてきた。
 師匠が離れ、森の中にひとり暮らすことになった当初に、漠然としたそれを感じた。
 が、それ以降はつつがなく暮らしていた。同じ森に住むハリネズミの一家や、近くの山に暮らすドワーフの一族や、ちょっと遠くはあるがこびと族などに囲まれて。
 彼女の師匠の名を知る者みな、養い子であるうら若き魔女のシュリに対して、特別、なにをするでもなかった。それだけ、シュリの師匠は、一部の者に名が通っていた。
 『祝福の魔女の養い子』
 その名は例えるならば、水戸黄門の御印籠ほどの威力がある。
 ひとたび口に上らせれば、一同平伏するぐらいに。
 知る者に限られるにしても。
 だから、これまでシュリは安心して暮らしてもいけたのである。
 それが、どうだ!
 今、彼女が感じている恐怖は、かつて経験したことのないものだった。
 生命の危機。本能的に突き上げてくる恐怖。
 それを前にした時、泣くどころではない。考える間さえ与えない。怖いという単語が浮かぶよりさきに身体が動く。なぜ、どうして、という問いさえ意味のないものだ。
 ただ、ひたすらに逃げる。逃げる。逃げる。
 逃げろ、と声無き欲求に従うしかできなくなる。
 ほかはなにも考えられない。
 走れ。走れ!
 目の前に道がある限り。道がなくとも。
 さながら、野生動物が如く。坂道を転がり落ちる石の如く。
 立ち止まった時が最後だ。
 本能に任せて、シュリは足の動く限り走り続けた。
 しかし、いつまで?
 息も荒くなってきた。
 心臓も張り裂けそうに、音を大きく鳴らしながらはやい速度で脈打っている。
 慣れない、いつもより踵の高い靴のせいで、足が痛くて涙も滲む。
 足先とか踵とか、擦り剥いているに違いない。
 どこか、どこか、安全な場所を、と求める。
 すぐ背後に獣の唸り声が迫ってくる。
 シュリは蔓バラのアーチを潜り抜け、形の整えられた緑の植え込みを多くした庭へと突入する。
 右手にあった建物の壁が形を変えて、彼女に近付いてきていた。
 どこか中に入れるところを、と見える範囲で探す。
 右前方。長く続いていた植え込みの切れ目が見えた。
 あそこ!
 シュリは、切れ目に飛び込んだ。

 きゃあああああああっ!!

 同時にあがる女の悲鳴。
 目の前にいる、紫色のとてもとても美しいドレスを着た女性が悲鳴をあげていた。
 その目の前には、一匹の黒猫。
 シュリは目を瞠った。
 彼女の気配に振り返った黒猫の金色の瞳が大きく見開き、瞳孔が針のように細くなった。
 猫に飛びつくやいなや、銀の髪をもつ魔女の娘はめいっぱいの声で叫んだ。

「ししょぉおおおおおおおおーーーーーーっ!!」

「王妃様ッ! 御無事でッ!?」

「いかがなされた、母上ッ!」

 シュリは地面に座り込み、猫を力一杯に抱き締めながら、涙声で繰り返し呼んだ。
「ししょう、師匠、師匠、お師匠さまあああああああっ!」
 そのあまりの勢いに、ビストリアのあげる悲鳴も断ち消えたほどだ。
 追いかけてきたルーファスも立ち止まり、唖然と見下した。
 勿論、キルディバランド夫人と、共に部屋に踏み込んだ衛兵も。
「師匠?」
 当然だ。
 どうみてもただの猫にしか見えないものを抱いて、師匠と呼ぶ姿はふつうとは思えない。
 どこから見ても、かわいそうな娘にしか見えなかった。
 冷たいもの、痛いもの、憐れむもの、とそれぞれに温度差のある視線を声をあげる娘に投げ掛けた。
「師匠ぉおお、怖かったですぅう! ししょぉおおおっ!」
 だが、集まる視線にも気付かず、シュリはひたすら泣き叫ぶ。
 きつく抱き締めた腕の中で、猫がじたばたと暴れる。逃げることもかなわず、苦しそうにもがいた。
 が、シュリはそれにも気付かない。ただ、「師匠」という単語を色んなバリエーションで連呼するばかりだ。
 処置なしと悟ったか、猫は身を捩りながらおもむろに、

 がぶり。

 と、拘束する腕の手近なところに噛みついた。
「痛ッ!」
 短い悲鳴のすぐあとに、誰の耳にもその声は届いた。はっきりと。
「放さんか! この馬鹿弟子がっ!!」
 猫なで声と言うが、とんでもない。張りのある女の声は凛として、容赦のない響きがあった。
 だが、間違いなく、猫が喋ったものだ。
 そのことに、周囲の視線は驚愕に変わった。
「猫が……」
 よろり、とよろめくビストリアをキルディバランド夫人が慌てて支えた。
 おや、とようやくその場に到着したカミーユに気付く者も、呟きを聞き咎めた者もいなかった。
 周囲の様子などどこ吹く風と、猫の師匠と人間の弟子の会話は続けられる。
「あんまりです、師匠ぉ」
 当り前にべそをかきながら、シュリは抗議の声をあげた。
「なにがあんまりだッ! こっちこそ絞め殺されるかと思ったわ!」
「だって!」
「なにが、だって、だ! ほら、さっさと放さんかっ! この馬鹿娘っ!」
「ばか、ばかって、ひどいですよ、師匠……」
 それでも、シュリはしぶしぶ黒猫を手放した。
「ほんとうに馬鹿なのだから仕方なかろう。まったく、ちっとも成長しないな、おまえは」
 地面に下ろされた猫は答えて、ばたばたと音をさせながらひとつ大きく身震いをした。
 まったく、と溜息ともつかない声で黒猫は言った。
「たまに寄ってみれば、誰ぞに連れていかれたというではないか。おかげで少々、面倒な思いをした」
「……すみません」
 しょげる娘を前に、黒猫はようやく周囲を見回した。
 そして、ルーファスに目を留めると言った。
「この娘を攫ったのはおまえか」
「そうだが」
 悪びれるどころか、脅すように眼を眇めてルーファスは答えた。
 ふん、と黒猫は怖ける様子もなく鼻を鳴らした。
「なにが目的だ」
「それをおまえに言う必要があるのか」
「あるね。わたしはこの娘の保護者だ」
「猫が保護者とは……非常識だな」
「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」
 しかし、と付け加える。
「確かにこの姿ではなにを言おうと説得力はないな。よし、」

 ぼうん!

 なにかが小さく弾ける音がして、一瞬、黒猫の姿が煙につつまれる。と、それが消えたころには、猫の姿はなく、ひとりの女性が立っていた。
 品良くレースを使った、踝まである線の細い黒のドレスを纏う女。頭には、魔女らしく先のとんがった帽子を被っていたが、不思議とエレガントでスタイリッシュな印象を与える。そして、その右手首には、猫と同じ、メダルのついた金の腕輪がはめられていた。
 白磁の肌にきりりと上がった眉。すんなりとした鼻梁の形の良い鼻に艶やかな赤い唇。そして、流れるような弧の長い眼を、豊かな睫毛が縁取る。くるくるとウエーブを描きながら毛先がはねる黒髪は、きゅっ、とくびれた腰の下までの背を覆う。
 年齢は、おおよそ、二十歳前後だろうか。磨き抜かれた黒石のような双眸も蠱惑的な、美しい女だった。
 その女を言い表すならば、黒。
 黒の女。
 衆人に好まれる金髪碧眼ではなかったが、絶世の美女と呼ぶ者もいるに違いない。それほど、魅惑的な黒だった。
「師匠ぉ」、と呼びながら、シュリはようやく立ち上がった。
 ほっ、とした様子がその声からも伝わる。
 逆にビストリアとキルディバランド夫人は固まって、声もない。
 夫人とともに部屋へ踏み込んだ衛兵に至っては、鼻の下を伸ばして相好を崩していた。主にその視線は、ブイの字に切れ込むレースの向こうに透けて見える、立派なふたつの盛り上がりの谷間に注がれていた。
 カミーユは、また、「おやおや」、と呟いた。今度は幾許かの憐れみをこめて。
 しかし、男ならばひと目みただけで震い付きたくなるような美女を前にして、ルーファスの眉間には深々とした縦皺が刻まれていた。
 女を睨みつけ、そして、力一杯、憎々しげなひと言。

「魔女め!」

 おや、と全身、黒ずくめの女は鼻で笑った。
「半人前とは言え、その魔女を攫っておいてよく言う」
 と、猫と同じ声で鷹揚に言う。
「なにが目的かはしらないが、この娘は返してもらうよ。伽の相手にしてもこの娘では不足だろう。ほかを当るが良い」
「だれが、そんな理由で魔女を連れてくるものかっ!」
 それには黒の女は不思議そうな表情を浮かべた。
「違うのかえ?」
「その気があれば、とっくの昔に襲っている」
 ひっ、とシュリは声をあげて師匠の背にしがみつく。
 しがみつかれながら、女はくすくすとした笑い声をたてた。
「ああ、では、何用があってのことだ?」
 本質を問う問いに、獣の瞳が鋭さを増した。
「呪いを解かせる。そいつに出来なければ、おまえでも良い」
 え、とそこでシュリは首を傾げた。
「のろい?」
 師匠の方からも小首を傾げる問いがある。
 蒼ざめていたビストリアは、はっ、と顔を上げ、瞬時にその表情に女王らしさを取り戻した。
 宣言するかの口調でルーファスは言った。
「そうだ、この国にかかる呪いを解かせるために連れてきた。早急に。今すぐにでも。出来なければ殺す」
 ひい、とシュリはまた悲鳴をあげた。
「それは、またぶっそうな言い草だな」、と黒の女はしらじらと答えた。
「ひとつ問うが、おまえの言う呪いとは、魔術を使えなくするアレのことか?」
「そうだ」
 ふうん、と女はわずかに考える表情をみせてから、背中に張り付く弟子を振り返った。
「で、おまえはどうするつもりだ?」
「どうするって」
 おそるおそるといった様子でシュリは問い返す。
「引き受けるつもりなのか、と聞いている」
「引き受けるつもりもなにも……いま、初めて聞いた話だから。呪いがどんなものか知らないですし……」
「聞いていなかった?」
 女の声のトーンが一段、下がった。
 びくっ、とシュリの背中の銀髪が波打った。
 女の美麗な顔のこめかみに薄く青筋が浮き立っていた。
 髪に隠れて見えはしないものの、射るような師匠の視線の前に、シュリの眼はそらされ、泳ぐ。
「え、と、聞いたような聞かなかったような……」
「断ったから、無理矢理連れてこられたのではなくて?」
「あの、だから、いきなり殺すとか言われて、それで、」
 びくびくびくびく、と銀の髪先が小刻みに揺れた。
「それで?」
「え、と、脅されて叫んだことは覚えているんですけれど……気がついたら、ここにいて」
 ほう?
 師であり、育ての親である女から、シュリはじりじりと後退りをした。
「つまり、説明もなにも聞いていないと。何をされたわけでもなく、脅されただけで失神して、その間にここに運ばれてきた、とそういうわけだな」
 大した説明もない会話で、そこまで読み解いたのは、愛の力……の筈はなく、娘の性格を把握しているからだろう。

「この馬鹿娘っ!」




 ≪ back  index  next ≫ 



inserted by FC2 system