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 あああああああああっ!

 突然、聞こえてきた悲鳴は、声からして父親のもの。
 なにがあったのか。
 引っ越しの采配を行っていたジュリアスが部屋に戻ってみると、屍になりかけの父親とマーカスがいた。
 その傍でシュリがひとり、おろおろとしていた。
 わさわさとした銀髪をモップのように揺らしながら。
「父さん、父さん、大丈夫?」
 ジュリアスも近付いてみれば、顔色は蒼白。
 上を向いた瞳孔は開きっぱなしで、焦点もあっていない。
 口からは、ぶつぶつとした譫言のような言葉が洩れているところみると意識はあるようだが、なにを言っているのか要領を得ない。
 軽くゆすってやると、がっくりと力なく首が下に傾いた。
 マーカスはテーブルに突っ伏し、もろくも崩れそうな白い灰の塊になっていた。
 どちらも再起不能に見える。
「すぐに医者を……いや、それよりまず、なにがあったんですか!?」
 焦りながらシュリに問えば、「研究について聞かれたことに答えてたんですが、そうしたらふたりともこんな風に……」、となんとも不可解な答えだ。
「話していただけで?」
「はい。でも、それで、マーカスさんとテレンスさんは、これまでの研究の間違いに気付いたみたいで、そうしたら」
「ああ……」
 それで、ようやく納得した。
 ジュリアスも父親が、これまでどれだけ頑張ってきたか知っているから。
 度を越した研究バカ振りで、片手間に近所のこども相手に塾はしていても大した収入にはならず、それもすぐに研究に費やされ、母親や姉に苦労ばかりをかける甲斐性なしだの穀潰しだのと、一時期、恨んだりもしたが、それでも一向に冷めやらぬ熱意に諦めもし、それを通り越せば、尊敬に変わった。
 人間、こんなに一筋に打ち込めることなど滅多にないとわかってから。
 人生かけて。
 そこまでやったからルーファスの目に止まりもしたし、ジュリアスもカミーユに仕えることができたのだから。
 だが、そうまでして続けてきた研究の間違いを指摘され、とてもショックを受けたのだろうと推察できた。
「それで、いちどお茶でも飲んで落ち着いた方がいいと思って、そう言ったんですけれど……」
「ああ、そうですね」
 ジュリアスもうなずいた。
「すぐに用意しましょう」
「えっと、私が行きましょうか?」
「いえ、私が。すぐに戻ってきますので、ふたりをみていてあげてください」
 そして、部屋をでて溜め息ひとつ。

 ――しょうがないなあ……

 テレンスの受けた衝撃がいかほどのものかはジュリアスにはわからなかったが、余程のことだったに違いない。
 実験に失敗して落ち込む姿は嫌になるほど見てきたが、すぐに立ち直って、また研究をはじめるのが常だった。
 繰り返し、繰り返し、毎日、毎日、飽きもせず。
 だから、あの完全に気力を失った父の様子は徒事ではない。
 一体、なにを聞いてああなったのか。
 父の姿を見てきたせいで、魔法に関してはまったく興味をもてなかったジュリアスには、説明されてもわからないだろうけれど。
 だが、短期間に大変なことをしようとしていることはわかる。
 ルーファスがなそうとしていることに、大きく関わることだ。
 カミーユは彼にも秘密にすることが多く、いっさい具体的な内容を洩らさないが、傍にいるだけで、自然と察しがつくこともある。
 だが、今回に関しては、なにもわかっていない。
 すごく心配だ。
 父もそうだが、それ以上にカミーユが。
 ルーファスの傍にいるだけで、危険はつきものだから。
 怪我ですめばいいが、いつか命を失いかねないと冷や冷やする。
 堪らず、いちどカミーユに直接、言ったことがある。
 危険な事はやめてくれ、と。
 そこまで付き従う必要はないだろう、と。
 すると、
「それが私の務めです」
 あっさりと返答された。
「でも、女性なのに。痕に残るような怪我でもされたらどうするんですか!?」
「女性であることは関係ないですよ。そうだからこそ、私は殿下に従っているのです」
「でも、僕には、ルーファス殿下は、カミーユさまに無茶ばかり強いておられるように感じます」
「たしかに、無茶ばかりさせられていますね」
 笑うことなく、溜め息が答えた。
「ですが、無理は言われていませんよ。その辺の線引きは殿下もわかっておられます。それに、目下にいちいち気遣って遠慮する王など王とは呼べないし、呼びたくもないでしょう?」
 迷いのない瞳が言った。
「時々、とんでもなく愚かな真似もされてどうしようもない時もありますけれど、どれも些細なことです。王とは、なにも身分だけのことではありません。世の律を己の律に従えさせることが出来る者をそう呼ぶのです。そして、その視線の向かう先が次の世を決める。嘗てのザムディアック公のようにね。そこに間違いがないとわかっている間は、私は殿下に従うつもりです」
 それ以上、なにも言えなくなった。
 ジュリアスには、ルーファスが正しいか間違っているかはわからない。
 だが、カミーユは信じられる。信じたいと思う。
 だから、カミーユがルーファスに従うというなら、ジュリアスもそれに従う。
 そして、自分の出来ることでカミーユを支えようと決めた。
 そのためにはなにも秘密にされることなく、もっと頼られるぐらいにならなくてはならない。
 そう決心し、そうなろうと努力している。
 ジュリアスは、ワゴンに茶の用意をして部屋に戻った。
 と、すこし回復したのか、マーカスは起き上がり、テレンスは……めそめそ泣いていた。
「私は……これまでなにをやってきたのか……妻や子にいらぬ苦労ばかりをかけて、無駄な努力にばかり精魂傾けてなにひとつ成せず……情けないです。情けなくて仕方がない。申し訳なくて、なんと謝ればよいのか……両親や先生にも顔向けできません……」
 両手で顔を覆い、啜り泣いていた。
 重症だ。
 末期症状。
「そんなことないですよ。頑張ってきたことが無駄なんてことはないです。お師匠さまも言っていました。人はなんでも前に進もうとする意志で行うかぎり、失敗はあっても、それで後ろに進むことはないって。目に見えなくても、ちゃんと進歩しているって。ご家族の方たちも、きっと、わかってくれています」
 シュリが一生懸命に慰めのことばをかけているが、聞く耳持たずだ。
 父の身体は、ひとまわり以上もちいさくなったように見えた。
「お父さん、お茶をいれたから、冷めないうちに飲んで。マーカスさんも」
 ジュリアスは出来るだけ穏やかに声をかけると、テーブルに茶器を並べてポットから茶を注いだ。
 立ち上る湯気に、添えた焼き菓子の甘い匂いが加わる。
「ジュリアス……」
「今更、僕たちのことは気にすることはないよ。父さんは、これまで通り父さんのすべきことをすればいいよ。それよりも、ここで挫折される方がよっぽど腹が立つし、情けないし、迷惑だ。期待して下さったルーファス殿下やカミーユさまを裏切ることになるし、本当にこれまでやってきたすべてが無駄になるだろ。だから、父さんは、なにがあっても諦めずに最後まで研究を続けて。みんなのためにも」
「ジュリアス……すまない……すまない、わたしは……」
 ジュリアスの父の震える声は、ことばにならなくなった。
 それを隠すように、テレンスはカップに口を付け、ビスケットもひと齧りする。
 その様子を黙って眺めていると、「おいしいなぁ」、と呟きがあった。
「こんな美味しいお菓子、父さん、はじめて食べたよ」
 そして、洟をすすりながら、ぼそり、と言った。
「母さんたちにも食べさせてやりたいなぁ……母さんも、喜ぶだろうな……」
 ジュリアスの記憶には、父が食べる物についての感想を言うのを聞いたことはなかった。
 テレンスにとって、食べ物は空腹を満たし身体を動かすため程度のもので、それ以上は無関心だった。
 母がどんなに美味しい料理を作ったところで、まったく興味がない様子だった。
 しかし、それを口走るとは、それだけ心が弱ってしまっているということだろうか。
「まだあるから、好きなだけ食べていいよ」
 ジュリアスは答えた。
「母さんや姉さんにも、あとで持っていってあげよう。夕食は家でみんなと食べるだろ?」
 すると、うん、うん、と何度もうなずきがあって、ビスケットの齧る音だけが続いた。
 父親のことはしばらく、そっとしておくべきだろう、とジュリアスは僅かに寂しさを抱いて思う。
 はあ、と隣の席のマーカスが深い溜め息をこぼした。
「なんで、今更なんだろうなあ……」
 その呟きの意味は、ジュリアスにはわからない。
「どうぞ」、とシュリにもカップを手渡せば、「ありがとうございます」、と丁寧に返された。
 ジュリアスは空いていたもうひとつの椅子に座った。
「シュリさま、僕もお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「あ、え、あ、はい、なんでしょうか」
 慌てた調子の返事だが、喋り口調が遅いので、あまりそう感じない。
「ルーファス殿下とカミーユさまは、父の研究を使ってなにをなさろうとしているのでしょうか。ご存知なら、お教え願いたいのですが」
「え、あ、知らないのですか?」
「はい。このフラベス行きも急なことで、詳しい説明もなく」
「ああ、そうですね。急でしたものね」
「ええ。到着後もカミーユさまはお忙しくしていらして、とてもゆっくりと話を聞ける状況ではありませんし」
 本当だったら、もう少しのんびりできる筈だったのに、と言外に匂わせて言った。
「うう、ごめんなさい……」
 しゅん、とシュリの肩が落ちた。
 ちょっとした意地悪は、効いたらしい。
 わかっているならいい。
 ジュリアスは微笑むことなく、「いえ」、と短く謝罪を受け入れた。
「本来、僕の立場では聞ける立場にはありませんが、父もこうして関わっているとなると、無関心ではいられません。もし、ご存知ならば、是非、なにをしようとしているのかお教え願えませんか」
「ええと、えっと……えっとですね……」
 うろうろ迷う様子で、シュリが首を左右に動かした。
 シュリとことばを交わすのはこれが初めてだが、反応の仕方が、普通よりも少し鈍く感じる。
 どちらかというと、こういうのは苦手だ、とジュリアスは密かに思う。
 黙って答えを待っていると、ゆっくりとカップに口をつけ、ふたたびソーサーにカップを戻したところで、やっと返事があった。
「ええと、簡単に言うと、クラディオンを生き物がふつうに暮らせるように戻すためです」
「えっ!?」
 短く叫んだのは、マーカスだった。
 ジュリアス本人は、声も出せないほど驚いた。
 彼の父も泣く声をとめて、口を大きく開けている。
「そんな……まさか……そんな大変なことを? そんなこと、出来るの!?」
 マーカスの問い掛けは、シュリ以外のだれにも共通するものだ。
「ええと……たぶん出来るだろうと師匠が言っていました」
「多分って……失敗する可能性もあるってこと?」
「……はい、師匠にも経験のないことなので。でも、テレンスさんの研究を完成させて、ほかの魔女たちの協力を得ることができれば、成功する可能性はじゅうぶんにある、と言っていました。あとは、わたしが失敗しなければ、ですけれど……」
「シュリさんは? シュリさんはなにをやるの?」
「わたしは、『署名の儀式』をします」
「署名の儀式って?」
「ううん、と……クラディオンの土地全部を、わたしの管理下に置くという儀式です。精霊たちに関してですけれど」
「それで、クラディオンが元に戻るの? 人が住めるようになる?」
「ああ、はい。成功すれば、ですが」
 それが本当なら、この上なく良い話だ。
 カミーユにとっても本望だろう。
 クラディオンの籍に戻ることは、カミーユの宿願と言ってもいい。
 ジュリアスもそれは知っている。
 書類上だけでなく、現実に国としての体裁を整えることが可能となれば、より容易くそれは成せるだろう。
 だが、目の前にいるシュリはやる気をみせるどころか、自信がなさげにますます身をちいさくしていた。
 あまりの頼りなさに不安が募る。
 本当に、カミーユはそんな大それたことが出来ると確信しているのだろうか?
「あの、それで、私の研究がどうお役に立つのでしょうか……?」
 遠慮深くジュリアスの父が問い掛けた。
 しかし、その瞳にはわずかだが好奇心の光が戻ってきていた。
「えっと、テレンスさんの研究は、クラディオンの地に儀式を行えるだけの空間を作るのに必要なんです。今は毒素が充満していて、魔女も人も降りられませんから」
「それは、魔硝石が力を吸収することと関係が?」
「はい。今、クラディオンを覆っている毒素は、あれは精霊たちが吐き出した怒りの形なんです。わたしたちが瘴気と呼ぶものです」
「ひょっとして、その瘴気も魔硝石の力と出来るのですか?」
「あ、そうです。力というか、濃度の高い魔力そのものです。でも、あまりに濃い状態なので、生き物にとっては毒と代わらないのです。魔女にとっては、身体を保てなくなり消えるしかないそうです。溶岩の中に放り込まれるのといっしょだ、と前に師匠が言っていました」
 うえ、とマーカスが嫌そうに呻いた。
「あなたはそこに行こうというのですか……?」
 テレンスの声の揺らぎにジュリアスにも気付いた。
「じゃないと、儀式は行えませんから」
 ごくり、とジュリアスは口の中に溜まった唾液を嚥下した。
 嫌な予感がひしひしと迫っているのを感じた。
「どうやって? そんなところでは貴方も死んでしまうでしょう」
「いえ、そうならないように手を打ってくれると、お師匠さまが。具体的にどうやるかまでは、わたしもまだ聞いてはいませんけれど、テレンスさんの作った魔硝石をすこしいじれば、クラディオンに張った結界の中に魔女が入る手助けになるだろうからって。魔女さえ入ることができれば、儀式をするだけの空間を作ることができるって言っていました」
「カミーユさまは? カミーユさまはそれにどうされると?」
 辛抱できずにジュリアスは質問を発した。
 すると、「カミーユさん?」、と不思議そうに問い返された。
「さあ、なにも聞いてはいません。ただ……」
「ただ?」
「王子さまは、わたしといっしょに来るってききました……傍で、魔物が襲ってこないよう守ってくれるって」
 その答えだけでじゅうぶんだ。
「ちょっと、失礼します!」
 ジュリアスは椅子を蹴り倒しそうな勢いで立ち上がると、急いで部屋を出た。
 それだけでも彼らしからぬ行儀の悪さに上乗せして、駆け足で向かった。
 彼の大事な主のところへ。




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