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 ――それがどうした。そんなことで騒ぐ貴様の頭の方がどうかしているだろう。それとも、ただの大馬鹿か?


「ちょっと頭冷やしてきます」
 ジュリアスが部屋を出ていったのを機に、マーカスもいったん部屋から離れることにした。
 一度、聞いたばかりの話を咀嚼し考えを纏めて落ち着かないことには、次のステップに移ることも不可能だ。
 そうわかっていても頭の中は虚ろで、なにひとつ考えは浮かんでこないし、なにも感じなかった。
 まるで、世界にひとり取り残されてしまったような気分だ。
 ただぼんやりと、これからどうしようとばかりが思い浮かぶ。
 途方に暮れながら、とぼとぼとひとり歩いた。
 途中、外に向かって開け放たれた扉が目に入り、そこから庭に出た。
 瞬間、夕陽のまぶしさに目を細める。
 忙しさで忘れていたが、今日も快晴だ。
 マジェストリアは、年間を通して比較的穏やかな気候の土地柄であるが、ここフラベスは保養地にされているだけあって、夏は湿気も少なく爽やかで、冬も温順な気候を保つ。
 特にこの夕暮れ近くは風も強すぎることもなく、一日で最も過ごしやすい時間帯だろう。
 眺めも最高。
 目隠しになる壁はなく、綺麗に苅られた植栽のほとんどが低い。
 芝生の敷き詰められたゆるやかな起伏と傾斜を繰り返す、広々とした開放的な庭だ。
 時間が許すされるならば、のんびりもできるし、一頻りはしゃぎも出来るだろう。
 だが、今のマーカスは、とてもそんな気分にはならない。
 青い海を眺めながら、散歩というには重い足取りで歩いた。
 と、ぽつんと置かれた石のベンチに座る人影があった。
 後ろ姿で、それがダイアナだとすぐにわかった。
「あら、マーカス、休憩?」
 隠れる場所もないところでは足音なども必要なく、ダイアナも彼に気付き、声をかけられた。
「ああ、うん。そっちも?」
「ええ。本も運び終わってきりがついたから」
「そ」
「いいところね。海が綺麗」
「そうだね」
「フラベスなんてこどもの時以来だけれど、たまにはこうして宮殿の外に出てみるのもいいものね。務めでなければ、もっと良いのだろうけれど」
「僕ははじめてだ」
「そうなの。ねえ、そんなところに突っ立ってないで、こっちに来て座りなさいよ」
 空いた隣を叩いて誘われ、断る理由もなくマーカスはダイアナに従った。
 座ると、優しいオレンジ色がかった空の広さが増した。
 その下で海も色を変え、明るさと暗さが同居した絵はがきののような眺めだ。
 マーカスはしばらく黙ったまま、ダイアナと並んで穏やかなその風景を眺めた。
 だが、彼の気持ちは一向に落ち着くことはなかった。
 すぐ触れられる距離にダイアナがいるせいもある。
 しかし、このまま去りがたくもあって、気もそぞろにベンチの硬い石の感触を気にしていた。
「あぁーあ」
 ふいに、ダイアナが大きく伸びをした。
 普段の彼女のこういうところが侯爵令嬢らしくなく、気が置けないところだ。
「このままずっと、ここにいられたらいいのに。嫌なことぜんぶ忘れて」
「……そうだね」
 ダイアナとふたり。
 そう出来たら、どんなに愉しくて楽だろう。
「カミーユさまにお願いしてみようかしら。あれだけの本の量を調べるだけでも相当かかるから、それが終わるまでここにいさせて貰えるように」
「大変そう?」
「そうね。でも、久々にやり甲斐があるっていうか、わくわくするわ。だって、これまで知らなかった知識が混ざっているかもしれないもの。それで誰かの新しい発見につながったり、研究に役立ったりするかもしれないから」
「ああ、そうか。そうだね……」
 いつもだったら、明るく同意もできただろう。
 だが、今のマーカスにはそれほど楽観的にとらえられず、返事も気のないものになってしまった。
 すると、とん、と肩が軽くぶつけられた。
「なによ、あんたの研究にも役に立つかもしれないでしょ」
「そうだね……」
 冗談めかせた言葉にも顔を見れずに俯いた。
「……研究、うまくいってないの?」
 ダイアナの声がちいさくなった。
「……うまくいってないっていうか……」
「なに、どうしたのよ」
「うん、シュリさんの話を聞いたら、よくわからなくなっちゃって……方向性が見えなくなったっていうか、魔法の概念自体をひっくり返されたっていうか……」
 専門知識もないダイアナに、どう説明すればいいかわからないと思いながら話した。
 案の定、「ふうん?」、とあまり理解できていないらしい相槌が返ってきた。
「精霊なんて、おとぎ話だけの存在だと思ってたんだけれどな……」
「ああ、そうよね。こうして腕に貼り付けられて、『これがそうです』って言われても、実感ないもの。あんな大きな蛸だって、ただの化け物としか思えないし」
「でも、それが、魔法に大きく影響していて、ずっと、それを知らずにいたってのが信じられなくてさ。これまでそんなことを言った人は誰もいなかったし、魔法は魔法で、当たり前にあるものだったし」
「ああ、そうね。でも、この国って直接的に魔法が使えないじゃない? そのせいもあるかも」
「そうかもしれない。でもさ、それも変なんだよ」
「なにが?」
「だってさ、マジェストリアにはディル・リィ=ロサ妃がいたんだよ? あの転移方陣にもディル・リィ=ロサ妃が関わっていて、部分的に魔女たちが使う精霊魔法が使われているんだ。おかしいだろ? だったら、精霊の存在だって、昔からもっと重要視されててもおかしくないし、今頃、そういう知識が一般的であってもおかしくないと思うんだ」
 なのに、今更!
 精霊の存在を知らなかったばかりに、試行錯誤にどれだけの意味のない時間が費やされてきたのか。
 マーカスだけでなく、先人たちも。
 再びもたげる苛立ちに、マーカスは溜め息をついた。
「ああ、それで、ひとつ思い出した」
 ダイアナが、ぽん、と手を鳴らした。
「私もシュリさんと会ってから、ちょっと興味が出て、精霊のことをすこし調べたのよ」
「なにかわかった?」
「大したことは。さっき言ったみたいに、おとぎ話がほとんど」
「やっぱり、そうか」
 がっかりして言えば、ふふっ、と笑い声が答えた。
「でも、古文書のひとつにその時にはよくわからない話があって、今の話を聞いて、なるほどなあって思ったの」
「なんの話?」
「ザムディアック公の話。議事録っていうか、臣下との取り決めとか遣り取りを書き記したものなんだけれどね。ディル・リィ=ロサ妃と精霊について、ほんの数行載っていたの」
「へぇ、そんなものが残っているんだ。どんなことが書いてあったの?」
「うん、それを読むと、ザムディアック公ってかなり適当な人だったみたいなんだけれど、意見を言うべき時には、随分ときっぱりした印象を受けるわ。それだけでも面白いのだけれど、それで、臣下のひとりが、妃について伺いを立てているものがあったのよ。『ディル・リィ=ロサ妃が言うには、この世には目に見えぬ精霊なるものがいるそうだが、このような事を口走るのは、大乱の頃の影響が心の病として残っているか、身体のどこかが悪いのではないか、一度、どこかで静養されたほうがいいのではないか』ってね」
 マーカスは眉をしかめた。
「そりゃあ、ひどいな。それって、気が狂っているって言っているのと同じじゃないか」
「そうね。でも、ひょっとしたら、その臣下に娘がいて、あわよくば妃を静養に出した隙に妾に差し出そうって魂胆だったのかもしれないわね……その辺はよくわからないけれど」
「ああ、それは有り得るね」
「でね。それに対してザムディアック公の答えっていうのが、『確かに目に見えないものをいるというのはおかしい話だ。だが、目に見えないからと言って、絶対にないと言いきれるものでもないだろう。それに、自分はもともと学がないから知らないことの方が多いが、だからといって、学者と呼ばれるイカレタ連中の健康の心配まではしない』って!」
 知らないうちに、マーカスの口からちいさな笑い声が洩れていた。
「うまく遣り込めたって感じね。でも、その臣下も懲りずに尚も言ったのよ。『では、公は、目に見えない精霊とかいうものの存在を信じるのか。だとすれば、他の諸侯たちの笑い者になるだろう』って。それには、公は、『信じない』って答えたの。『自分はこの目に見えないものは信じない。だが、妃と意見を異にするからと言って、それがどうした? おまえは、妻となにもかもすべて意見を同じくするとでも言うのか。その方がどうかしている』って答えて、それでその話はおしまい。しばらくして、その臣下は静養を理由に暇をだされたって記録が残っているわ。ね、素敵じゃない? 公は、ディル・リィ=ロサ妃をそうやって中傷から守っていたのよ」
「基本、頭良いっぽいよね。回転が早いっていうか。だから、反乱も成功させることができたんだろうけれど。へぇ、そんな話があったのか……」
 ダイアナは微笑んでうなずいた。
「そう。でも、この話を一歩踏み込んで考えると、ザムディアック公は、公の立場で『精霊の存在を認めていなかった』ってことになるわ。つまり、ディル・リィ=ロサ妃主導で間接魔法の研究をはじめたとしても、表立って精霊の存在を示すような真似をする筈がないのよ」
「だから、その記録も残っていないってこと? だとしてもさ、基礎知識程度は残しておいてもいいと思うんだ。今の話だと、ディル・リィ=ロサ妃は精霊がいるって公言してたってことだろ。当然、精霊が魔法に及ぼしている影響も知っていたし、実際、転移方陣にはそっちの魔法が部分的に使われてもいるんだし。残しておいた方が後世の役に立つとか考えなかったのかな?」
「でも、でも、ザムディアック公の立場からすれば、それを残すことはしないと思わない? 敢えてそうしたっていうか。だって、ロスタの他の領地では、直接魔法が当たり前に使われてただろうから。そういう事を表立たせると、混乱が起きると思わない?」
「あ……」
「今は、マジェストリアは一国の独立した国だけれど、当時はロスタって大国の一領地でしかないわ。そこで、『魔法を使うと金だらいが落ちてくる』ようになったのも大変な話だったろうけれど、新しい理論で魔法理論を展開することの方が、国としては一大事になると思うわ。ただでさえ、新生ロスタとなって日も浅く、一国としての基盤を立て直している最中だったろうし、戦で荒れた土地を元に戻すのに、魔法は有効に使われていたと思うのよ。だとすると、魔法師たちの発言力も、今よりも強かったとみるべきじゃない? そんな時に、『貴方たちの使っている魔法は間違っている』とか言ってみなさいよ。いくら、ディル・リィ=ロサ妃が王妹だからって言っても、叩かれることは間違いないわ」
「……そっか……いまとは状況が違うんだ……」
 目から鱗。
 完全に見落としていた新しい視点に、マーカスは低くうな垂れた。
「そうよ」
 その横で、得意げにダイアナは胸を張った。
「昔の事をいまの尺度で考えては駄目よ。『英雄』ザムディアック公に、『奇跡のバラ』の美しいディル・リィ=ロサ妃。どちらの発言も、相当、影響力があったろうけれど、それにしても一臣下でしかないことには違いないから、政敵が不利な方法で捩じ込むことも可能だったでしょうね。ディル・リィ=ロサ妃を手に入れたいって思っている馬鹿も多かったろうし、ザムディアック公はそりゃあ強かったろうけれど、言ってしまえば、成り上がり者だもの。面白く思わない者もいたと思うわ」
「だから、そのために細心の注意を払う必要があった? つけいれられない為に? 精霊の記録を残さなかったのもその為……持ち出されて、叩かれる原因とされない為に……?」
「勝手な推論でしかないけれどね。そういうこともあったと思うのよ。でも、そう考えると、普通だったら削除してしまうようなこんなどうでもいい会話を残す意味もあったと思わない?」
 マーカスは、可愛らしく小首を傾げて言うダイアナの顔を呆然と見た。
「それに、精霊の事を知らなくたって、これまでも不便はなかったでしょ」
「そりゃあ、そうだけれど。でも、」
「私たちにとって、魔法って当たり前にあるもので、誰も、『なんで魔法が使えるんだろう』なんて考える必要がなかったってことでしょ。だったら、それでいいんじゃないの? ひょっとすると、最初からそれを狙ってたのかもしれないし」
「どういうこと?」
 問えば、わからないのか、と言わんばかりに鼻が鳴らされた。
「だって、『精霊がいる』って言ってたのってディル・リィ=ロサ妃だけっぽいじゃない。ほかにもいたかもしれないけれどごく少数で、声をあげることはしなかったんでしょ。だったら、妃がいなくなっちゃえば、誰もその後の研究を続けられっこないじゃない。見えないんだし」
「ああ、そうだよね……そっか……」
 だから、次に発展させるためにも、精霊抜きで魔法理論を確立する必要があった。
 ダイアナの意見に、すっかりと腑に落ちたマーカスはうなずいた。
 ふふん、とダイアナが鼻で笑った。
「そんなことも考えつかないって、あんた、ぬけすぎじゃない?」
「ひどいな。そんな言い方しなくたっていいだろ。傷つくよ」
 文句を言えば、けらけらとした笑い声が答えた。
「本当のことを言っただけよ。新しいことがわかったからってオタオタしちゃって! 普通、喜ぶところでしょ!」
「でも、すごくショックだったんだよ。自分のこれまで知っていた事が、土台のない薄っぺらい知識で成り立ってたってわかってさ」
 そう答えながらマーカスは、気持ちの浮上を感じると同時にダイアナは凄いと思った。
「ばかねぇ」
 その彼女が笑う。すべてを照らす明るさで。
「世の中ってそういうものでしょ。最初からわかっていることなんて、ほんの一握りよ。だからこそ、未知なる発見をしようと努力もするし、新しい知識を得ることは大いなる喜びでもあるのよ」
「……うん、そうだね」
 まったくダイアナの言う通りだ。
 自分は、一体、なにを狼狽えていたのか。
 肯定しながら、どうしよう、と内心でマーカスは思う。
 だが、それは、いままでの『どうしよう』とは違うものだ。
「ありがとう。お陰で元気が出た」
「がんばりなさいよ」
「うん、頑張るよ」
 どうしよう?
 笑顔に笑顔で答えながら、マーカスは密かに心を揺らす。
「長話していたら、すっかり陽が暮れちゃったわね。そろそろ夕食の時間かしら」
「あ、そうだね。一度、部屋に戻らなきゃ。テレンスさんひとりでほったらかしだ」
「じゃあ、また夕食の席でね」
「うん、また」
 暮れなずむ風景の中、髪をなびかせて、軽やかに彼とは逆方向に歩いていく後ろ姿を見送る。
 見送って、もういちど、どうしよう、とマーカスは心の中で繰り返した。
 どうして、ずっと気付かなかったのだろう?
 ちょっと可愛くて、ちょっとだけ気が強くてしっかりものの、気立てのよい女の子。
 その上、彼がかなわないほど賢い。
 そんな彼の理想にかなう彼女が、気付かなかっただけで、ずっと近くにいたのだ。

 ――どうしよう、ダイアナが、ほんとうに好きだ……

 だが、彼女には既に恋人がいる。
 マーカスは、これまでとは別次元の悩みに突入していた。
 どっぷり、と。
 頭から。




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