122




『自分の子が何を考えているかよくわからない。理解できない』
 そんな悩みを持つ親は少なくないが、例に漏れず、ここ数日間のキルディバランド夫人の悩みの中心はそこにある。
 良妻賢母と評判の高い夫人ではあるが、だからと言って、わからないものはわからない。
 下手に娘――エリザベスが、息子たちに比べて手がかからなかったせいもあるかもしれない。
 勤めのこともあって、『あの子なら大丈夫でしょう』、と放っておいたのが悪かったのか、と今になって思うことも暫し。
 日常の出来事を聞くのも忘れがち。
 ほとんどを乳母に任せていたこともあるけれど。
 そうしている内に、思い出した時に尋ねてみれば、「まあ、なんとか」程度で、具体的な内容まで聞くに至らないようになっていたぐらいは、気が付いている。
 それでも、これまでなにか問題があったわけでも、起こしたわけでもない。
 だって、反抗期も大したことなかったし。
 人並み程度に口答えもあったが、基本的に親の言うことには、素直に従う娘だった筈だ。
 だが、いつの間にか、自分の手の及ばないところで勝手に育っていたことを知ってしまった。
 レディン姫の尻尾を抱えて宮殿内をうろついたり。
 それにしたって、特別なにがあったというわけではない。
 仕方なかったと思う範囲で、『迂闊な娘だ』ぐらいにわりと軽く考えていた。
 それどころか、逆にうまくやっている方だ。
 どうやらレディン姫にはすっかり気に入られた様子で、自由に部屋の出入りをしては、貢ぎ物を運んだりして色々と世話を焼いている。
 まるで、直属の侍女と代わらぬ様子での務め振りに、夫人の出る幕もなし。
 それについて、先ほど、王妃さまから密かにお褒めの言葉を賜りもした。
 エリザベスのお陰ですべて順調。こちらの思惑通り……と。
 ほとんど部屋に引きこもり状態のレディン姫に思惑もへったくれもないと思うのだが、本人に代わり、有り難くお言葉は頂戴した。
 だが、不安だ。心配だ。
 なぜかと言えば、人々の噂話の中にちらほらと娘の名を耳にしたから。
 最初は、なんだろうと思った。
 尻尾の件?
 それにしては、耳に入ってくる頻度が高い。
 気になった。
 しかし、具体的に知りたくても、噂の主の母親に具体的な内容を教えてくれる者など、滅多にいない。
 聞き耳立てて、やっと、それを教えてくれたのは、日頃から仲良くしているサロン仲間。
 普段から、人付き合いはよくしておく甲斐があったものだ。
「ごきげんよう、マウリア。お嬢さま、大丈夫でらっしゃる?」
 務めは娘に任せて休憩中という名の情報収集を行うキルディバランド夫人に、人目を気にするように小声で尋ねてきたのは、アイシグ侯爵夫人シルヴィアだ。
 ダイアナの母。
 侯爵夫人と男爵夫人では、伯爵、子爵を間を置いて、身分上で大きく差はあるが、お互い似た年頃の息子や娘をもつ母親ということもあって、意気投合したのは随分前の話。
 今は私的な場では、それなりに遠慮を省いて話す旧知の仲。
 俗に言うところの、ママ友だ。
 貴族階級では当たり前に、どちらも殆どが乳母任せであったので、そう呼ぶには少し語弊はあるが、ふたりともこどもへの口数手数が平均値を上回ったという点で、共通認識は多かったという話だ。
「ごきげんよう……それが、お恥ずかしい話ですけれど、皆さま、いったい娘のなにを話されているのか、まだ詳しい内容は存じ上げませんの。酷い粗相をしたのではないとよいのですけれど……ご存知ならば、お教えいただけませんこと?」
 そう答えれば、ああ、と気の毒そうな表情を向けられた。
「いえ、多分、粗相とかそういうことではありませんの。その辺は、ご心配なさる必要はございませんわ」
「そうですの? では、どういう……」
「やっかみ半分、といったところかしら。アーサー・コルニウスさまはご存知でらっしゃる? コルニウス伯爵家ご嫡男の」
「ええ、お名前だけは。ルーファス殿下付の文官長でらっしゃる方ですわよね」
 嫁入り前の娘をもつ親としては、理想的な相手のひとりとして当然のごとくチェック済み。
 ルーファス付というところで、いつ何時なにがあるかわからない、という点で様子をみていたが、務めも無難にこなしているようで、現在のポストにすっかり落ち着いたようである。
 派手さはないが、丁度よい地味さ加減がかえって目を引く手堅さで、今は宮中でも伴侶候補として五本の指の中に入ろうかという人気。
 だが、競争率が高そうというところで、一様に牽制しあって具体的な行動に出る者はまだいない。
 半歩ずつ引きながら、一触即発の状態。
 コルニウス伯爵は、それを面白がるかのようになにもせず、悠然とかまえている。
 ええ、と扇で口元を隠しもって、アイシグ侯爵夫人シルヴィアは頷いた。
「そのアーサーさまとお嬢様が親しくお話をされていたと噂になっているんですわ」
 えっ!?
 そんな話は聞いていない。
「お嬢様から伺っておられない?」
「いま、はじめて耳にしました」
「本当に? ご存知ない?」
「ええ」
 一体、なにがどうして、あの娘がどうやってそんな交流をもつことになったのか?
 キルディバランド夫人はあまりの意外な内容に驚きながら、同時にめまぐるしく考えを巡らせた。
 それが本当だとすれば、千載一遇のチャンス。
 相手に不足ないどころか、願ってもない籤を引き当てた、というところ。
 だが、まだ、確証はなにひとつない。
 それに、これが、一斉に投げ網……紅白に色分けされたボールかもしれないけれど、があちこちから放り投げられる切っ掛けとなるかもしれないのだ。
 アーサー・コルニウスめがけて。
 結果、「ゲットだぜ!」、とあがる快哉の声はたったひとつ。
「お嬢様もなかなか隅に置けませんことね」
 弧を描き、細められた瞳が言った。
 目は笑っていても、扇の影になる口元はどうなっているやら。
 想像通りならば、知らぬ内に戦いのゴングは鳴らされていたというところ。
 それとも、笛が鳴る以前からスタートダッシュして、フライングしたまま他よりも半歩リードというところか。
 だが、その程度の差はあってなきが如し。
 切っ掛けひとつで追いつかれ、割り込まれる。
 目の前の友も、虎視眈々と狙っている様子。
 女の友情に亀裂が走る切っ掛けは、往々にしてこんなものだ。
 女の友情は儚い。
 と言いつつ、友と呼びあうよりも、お互いに都合の良い情報交換相手だったというだけだ。
 友情の『情』は、情報の『情』。
 さほど深い信頼関係があったわけではない、というのが本当のところ。
 狸と狐が仲良しこよし出来るわけがない。
「いいえ、なにかの間違いでございましょう。うちの娘はそんな気が利くわけがございませんもの。偶然、なにかの具合でお声をかけていただいただけでございましょう」
 キルディバランド夫人は、謙虚さを装い答えた。
「あら、そんなことはございませんでしょう」
「いえ、そうですわ。見かけはそれなりに成人らしくはなりましたけれど、中身はいつまで経ってもこどもで……男兄弟の間で育ったせいか、他のお嬢様方にくらべて娘らしさに欠けますし、ぼうっとしてますもの。お陰で、普段からなにを考えているのかもさっぱりで。こんな風でこの先やっていけるのかと心配でなりませんわ」
「ああ、うちのダイアナもそうですわ。あれは嫌、これは嫌と駄々ばかりこねて、へ理屈こねて。あの可愛げのなさは、いったい誰に似たのか……いい加減、本ばかりでなく、自分の将来のにも目を向けて欲しいのですけれど、考えが甘いというのか、欲がないというのか……」
「最近の若い娘とは、そういうものなのかしら? 私たち世代では考えられない事ですけれど」
「どうなのかしら。でも、お互い、困ったものですわね」
「ええ、ほんとうに」
 おほほ、うふふ。
 苦笑を交わし、探り合い、隠しあう。
「では、務めがございますので」
「ええ、私もこのあと約束がありますので。では、」
 ごきげんよう、と声だけはにこやかに挨拶をして、試合にもならない内に時間切れ。
 急いでそれぞれのコーナー……向かうべき方向へと足先を向ける。
 キルディバランド夫人の目指す先は、当然、娘のところ。
 事の真偽を確かめるべく。
 アイシグ侯爵夫人の行き先は、もっと近くのお仲間のところ。
 更に、情報を掻き集めるため。
 戦いとまでは言えないまでも、王宮の隅で細やかにこんな競争も行われているのは、日常のこと。
 それからのキルディバランド夫人が、レディン姫に与えられた部屋に入り浸っているかのような娘を待って、待って、ようやく戻ってきたところを捕まえることができたのは、カップラーメンが二桁の数も出来るほどの時間が経ってからだ。
「レディン姫は、とても物語を読むのがお好きだと伺って、本日は、我が国の文学にも触れていただきたいとご用意いたしましたの。そうしたら、夢中になって読まれているご様子に、私も、つい、いっしょになって読み耽ってしまいましたの。それで、明日はまた別のご本をお持ちする約束もいたしましたのよ」
 控室で、小声ながら嬉しそうに報告する娘の様子は本当に愉しげで、思わず毒気も抜かれるほどだった。
「なんのご本をお貸ししたの?」
「『グルディユンデ物語』ですわ」
「ああ、あれ」
 マジェストリアでは有名な歴史物語だ。
 四行詩で語られる。
 人物などは架空のものであるが、新生ロスタ国初期の貴族社会の模様が描かれていると言われている。
 それにしては、恋愛色が強すぎるけれど。
 夫人も少女時代の一時期には嵌ったこともあったが、酸いも甘いも噛み分けたこの年齢になってしまうと、はちみつ以上に甘ったるい表現ひとつに背中がむず痒くなってしまい、読もうという気にならない。
 それはそれとして、本題に切り込む。
「ところで、あなた、アーサー・コルニウス殿と親しくされていると耳にしたのだけれど、本当のことなの?」
「アーサー・コルニウスさま?」
 問い返すその顔には、「だれ、それ?」、と書いてある。
 ひと目で、いらっ、とさせられるその表情。
 夫人としてはちょっと必死なだけに、余計に神経が逆撫でさせられる。
「ルーファス殿下付の事務次官でらっしゃる方。あなたが、親しくお話されているところを見た方がいて、それが噂になっているのよ」
「うわさに? なんでですの?」
「嫁入り前の娘が供もなく、独り身のそれなりの身分の男性と親しげに言葉を交わしていれば、どういう関係にあるか問われるのは当たり前のことでしょう」
 それには、ああ、と溜め息を吐くような声があった。
「ルーファス殿下のというと、きっと、あの方のことね。道理で。ここ二、三日、妙に見られているなと思っていたのですけれど……あの方、アーサーさまとおっしゃるのね」
 と、予想以上に惚けた答えだ。
 相手の名前も知らずに話していたらしい。
 まったく、この娘は!
 自然と、青筋も浮かぶ。
「で、どうなの」
 詰問する鋭さをみせても、「べつに」、とやけに答えが軽々しい。
「なにも御座いませんわ。ルーファス殿下にこちらの様子を報告せねばならないので、なにがあったか教えて欲しいと聞かれたので、お答えしただけです」
「それでなんとお答えしたの」
「そのままをお答えしたまでですわ、レディン姫が尻尾を切られてしまった事などを」
「それだけ?」
「ええ。ああ、それと、尻尾をどうすべきかお尋ねしてみましたら、私の自由にしてよいだろう、というお答えでしたので、あの後、皮を扱う商人に渡して、小物入れにするよう注文いたしましたのよ。お母様にご相談したときに、どなただったかそうおっしゃっておられたでしょ? 良い考えだと思って。出来上がったら、レディン姫にお贈りしようと思っておりますの。ご自分の一部が素敵な物に変わったのを見れば、姫君も心慰められるかもしれませんし」
「あなた……」
 絶句した。
 まさか、あれを真に受けるとは!
 胃の辺りがきゅうっと縮まるのを、夫人は感じた。
 ここまで風変わりな娘に育っていたとは、思いもよらなかった。
 だれのせい?
 乳母の責任だろうか……いや、しかし、息子たちは、まだまともだ。
「お母様、具合が悪いの?」
「いいえ!」
 小言は、この際、省略。
 まだ、肝心の聞かねばならない事が残っている。
「それで……あなたはどうなの? アーサー殿とは」
「どうとおっしゃられますと?」
「アーサー殿とお話して、どうだったの? 感じの良い方だったとか、嫌な感じだったとか、なにかあるでしょう」
 すると、「そうねぇ」、とまたもや、ぼやけた返事だ。
「別段、なんとも。ふつうの方だと思いましたけれど」
「……嫌ではなかったのね」
「ええ、丁寧な方でしたわ」
「アーサー殿はなにかおっしゃって? また、お話を聞かせて欲しいなど」
「ああ、はい。そんなこともおっしゃっておられました」
 今日の会話の中でいちばん気に入った答えだ。
 キルディバランド夫人は、ひとつうなずいて言った。
「では、今後もアーサー殿が聞きお尋ねに来られた時には失礼のないよう、聞かれたことにはきちんと丁寧にお答えするのですよ。ご機嫌を損ねるような言葉は慎むよう心がけなさい。それと、いつお会いしても良いように、身嗜みにはいつも以上に気をつけておくように」
「わかりましたわ、お母様」
 素直にうなずく娘に不安が残るが、今のところはこれくらいだろう。
 出来れば、進んで親しくなれるよう努力しろ、と言いたいところだが、なにをしでかすかわからないところで、余分な指図はしない方が得策だ。
 ここは焦らず、手堅く。
 悪い印象さえ与えなければ、なんとでもなる。
 あとは、後日、改めて、カミーユに頼んで裏から話を進めてもらえば良い。
 あの腹黒小娘に頭を下げるのは、気が進まないなんてものではなく、屈辱に近いが。
 しかし、ここは家の為と耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶのだ……いや、ちょっと待て?
 なにも、ルーファス殿下の家令だからといって、そちらから申し出る必要もないだろう。
 王妃さまに、褒美代わりに縁組みを頼めばよいのではないのか?
 王妃の命となると、伯爵家ほかだれであろうと、如何なる思惑があったとしても逆らうことは出来まい。
 それに、本人同士が既知の間柄となれば、話を受け入れやすいに違いない。
 そうだ、そうしよう!
 その方が、ずっと、確実だ。
 なにせ、相手は、将来は国の要職を担うであろう青年だ。
 縁組み出来れば、お家万歳、一生安泰、老後も安心。
 そして、胸の片隅で、ほんの少し思った。

 ――おまじないが効いたのかしら……?

 なにかよくわからないけれど、加護がついているということであれば、更に心強い。
 久しぶりに夫人の頭上に出てきた狸が、笛を吹きながら三三七拍子で陽気に両手の扇子を振り回す。
 ちゃっちゃっちゃ!
 頭の鉢巻きにでかでかと書かれた文字は、当然、『必勝』だ。
「では、しっかりね。頼みましたよ」
「はい、お母様」
 娘のよい返事に、キルディバランド夫人は、今日はじめて心からの微笑を浮かべた。
 ほんの僅か、表情を曇らせた娘の変化に気付かずに。




 ≪ back  index  next ≫ 



inserted by FC2 system