18




 ふたり並んで歩くにはすこし狭い石畳の道を、マーカスの後についてシュリはゆっくりと歩いた。
 花を求めて、足の長い蜂が、ぶうん、と音をさせながら横を通りすぎていった。
 昨日、シュリが走り回った庭とは違い、今、彼女たちの歩いている場所には目立った花はない。
 木々の根元や岩の脇にひっそりと隠れるように咲いているのが、所々にみられる程度だ。
 どうやら、ここの庭は、花壇として囲むのではなく、わざと野趣溢れる作りにしてあるようだった。
 バラが咲き誇る庭も綺麗だと思ったが、シュリはこの庭の方が好きだと感じた。気分が落ち着く。
 ふと、森にある自分の家が恋しくなった。
 普段だったら今頃の時間は、森に山菜や果実などを採りにいっている時間だ。
 キルスさんたちはどうしているだろうか?
 春に生まれた鳥の雛たちが、そろそろ巣立ちの準備をはじめる頃でもある。失敗して巣から落ちたりしていないだろうか?
 そういえば、薬用に採った野草が干しっぱなしになっている。雨に濡れたら駄目になってしまう。大丈夫だろうか?
 竃の火は消えていた筈だが、かけていた鍋の中身が腐って大変なことになっているのではないだろうか? それどころか、家の扉が開けっぱなしだったらどうしよう!?
 オオカミやクマやほかの動物たちが入ってきて荒らされていたら!?
 髪に隠れて見えないが、シュリの顔色はみるみる蒼ざめていった。
 どきどきと心臓の音が高鳴り、冷や汗が滲んだ。

 ――でも、でもでもでもでもでもっ!

 師匠がここに探しに来たということは、一度、シュリの家に行っているということだ。
 彼女が攫われたということを知っていたということは、きっと、見ていた鳥たちか、動物たちに聞いたのだろう。
 だったら、少なくとも家の扉を閉めていってくれたに違いない。

 すぅーーーーーーーっう。はあーーーーーーーーぁっ。

 シュリは深呼吸をして心を落ち着けた。
 ひょっとしたら、師匠は扉だけでなく、倒れた椅子とかも直して、片付けてくれたかもしれない。
 ついでに、野草が干しっぱなしになっているのに気付いて取り込んでくれたり、鍋の中身が残っているのを見て綺麗にしてくれたりとか、

 ――……しないよね。

 残念なことに、十五年間いっしょに暮らしただけあって、師匠の性格はシュリも把握している。
 そういう甘さを持ちえないということは、よくわかっていた。
 己のことは己ですること。
 シュリが物心ついて以降、彼女たちの暮らしの中では、それが厳然たるルールとして存在していた。
 すべてを教えて貰えたわけではなく、シュリ自身が見よう見まねで覚えたことも多い。
 失敗すれば、片づけも自分でする。
 シュリができずに泣こうとも、師匠が手を貸してくれることはなかった。
 根気よく口で説明し、傍で見守ってくれる時もあったが、見捨てられることもままあった。
 手を差し伸べてくれるのは、どうしようもない時だけ――怪我や病気で動けなくなったときだけだ。
 そんな師匠がせいぜいしてくれることと言えば、扉を閉めるぐらいのものだろう。
 事がうまく片付けられたとしても、散らかっているだろう家とかわいそうな鍋の中身のことを思うと、シュリの気分はずっしりと重くなった。

 ――一度、帰らせてもらえないかなあ?

 だが、あの王子に言ったところで、快く応じてくれるとは思えなかった。
 あの怖い眼で睨みつけられて、怒鳴られて、また、とてもとても怖いめにあうに違いなかった。
 いつも王子と一緒にいるカミーユに言ったところで、女性ということですこし怖さは薄れはしたものの、やはり、言っても無駄なような気がする。
 いま目の前を歩くマーカスは、話を聞いてくれるであろうが、おそらく代わりに王子たちに許可されるか訊いてくれるだけだろう。結局は、同じことだ。
 帰れるのは、早くて二週間後。
 遅ければ、二十日、否、十九日後。
 我慢するしかないのだろう。できるだけ早くことを片付けてしまえば、それだけ早く帰れるに違いない。

 ――がんばろう。

 消極的なものではあったが、シュリが改めてそう決心したところで、「ああ、いたいた」、というマーカスの声があがった。


 書庫の館長であるタトル氏は、池のほとりの枝垂れ柳の脇で、甲羅干しの最中だった。
 その言葉どおりに。
 地面に腹ばいになって、背中に盛り上がる大きな甲羅を太陽の光に曝してのお昼寝中だった。
 タトル氏は、大陸に暮らす全種族の中で最も長寿を誇る、亀族のひとりだった。
 マーカスの、「じいさん」、との呼びかけに、ゆっくりと目を開いた。
「ああ、こりゃあ若い娘さんの前でとんだ恰好をお見せして」
 マーカスに起こされたタトル氏は、伸ばした長い首を巡らせてシュリを見ると、のんびりとした口調で言った。そして、顎を下に落とすような大あくびをした。
「いや、失礼。わしらは、どうにもほかの種族と比べて消化器官がよわいもので。こうして天気の良い日には、陽にあたっておかないと食べたものが体内で腐ってしまって病にもなります。どうか、このままで御勘弁を」
 ほかの種族にしてみれば、全裸の状態であるということなのだろうが、亀族の特徴である立派な甲羅は、服を着ているのと同じことだ。
 だが、それでも王宮の中では、いけないのだろう。
 脇には、黒いローブのような服が丸めて置かれていた。
「はい、どうぞお気になさらず」
 いかにも眠そうな、半分うすい膜のかかった瞳を見ながら、シュリは答えた。
「シュリさん、僕等はこっちの木陰に。じいさんに付き合って陽に当りすぎると、僕等の方が参っちゃうよ」
「ああ、はい」
 マーカスの促しに従って、シュリは枝垂れ柳のつくる柔らかな木陰の中に入った。
 ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、とタトル氏がしゃがれた笑い声をたてた。
「そういえば、おまえさん、以前、話し込んでいて倒れた時があったな」
「ああ、二度とあんなのはごめんだよ。夢中になりすぎて油断していたのがわるかったんだけれどさ」
 マーカスは苦々しい表情で答えた。
 して、とタトル氏は枝垂れ柳の下にちょうどあった岩の上に腰を落ち着けた彼女たちにむかって言った。
 また、ひとつあくびが出た。
「きょうはなんの用かね、お若いの。神代文字の解読はすすんでおるのかね?」
「相変わらず、遅々として進まずさ。きょうはその話じゃないんだ。ロスタの頃のことで知っている話があれば、聞かせて欲しいんだ。できれば、大乱以降のことで」
「ほ、それはまた、古い話を」
「例の呪いについて調べているんだ。じつは、いま、王子があの呪いを解こうとしている。それで、彼女は魔女なんだけれど、呼ばれたんだ」
 ほほっ!
 タトル氏の口から面白がるような声が洩れた。
 皺が多い顔の表情からはわからないが、細められた眼が弧を描いていた。
「魔女とは、わしもずいぶんと生きておるが、初めてお眼にかかる」
「シュリです。よろしくお願いします」
 シュリは、亀族の老人に頭をさげた。
「いやいや、こちらこそ、お目にかかれて光栄だ。はじめまして。シュリさんとお呼びすればよいのですかな?」
「はい、どうぞ」
「では、わしのことは、タトルと呼んでください。まだお若いように見受けられるが、魔女になられて日が浅くてらっしゃるのかな?」
「十八になります。本当はまだ見習いで、魔女は名乗れなかったりしますが」
 タトル氏の大仰な言葉はシュリには照れ臭く、俯いた。
「ああ、そうなんですか。では、わしが祖父から聞いたことのある方とは別の方ですな」
「聞いたことのあるって、タトルさんのおじいさんは、魔女に会われたことがあるのですか?」
 魔女の数は少ない。
 はっきりとした数はシュリも知らないが、片手で数えられる程度と思われる。
 魔女が人前に姿を表すことは滅多になく、シュリも師匠以外の魔女に会ったことはない。
 ゆっくりと、身体のわりには小さな頭が上下した。
「いちどだけ、その姿を拝見したことがあるそうです。妖精族と見紛うばかりの、それはそれは美しい魔女殿だったそうで。ちょうど、そのロスタの大乱直後の頃のことだったと、何度か聞かされもしました」
「そりゃあいい!」
 マーカスが声をあげた。
「じいさん、その話をしてくれないか? なにかヒントになるかもしれない。ひょっとしたら、その魔女が呪いをかけたのかもしれないし」
 ふむ、と頷きながら、まだ眠気がおさまらないのだろうタトル氏は、今度はちいさめのあくびをした。
「わしが聞いたとき祖父は高齢でしたからな。わしも幼いころの話ですから、記憶もあやふやなもので……そう言えば、黒髪であったと言っていたような」
「黒髪の魔女?」
 当然のようにシュリの頭の中に浮かんだのは、師匠の姿だ。
 師匠が何才であるのか、シュリも知らない。
 いつか訊ねてみた時も、「忘れた」、のひと言で済まされた。だが、それなりに長く魔女をやっているようではある。
 だが、黒髪はとりたてて珍しくもなく、姿を自由に変えられる魔女にとっては、その程度の色を変えることなど造作もないことだ。ほかの魔女である可能性も充分にある。
「祖父は若いころ、ロスタの王宮にて古文書の解読を任されておりましてな。亀族にはありがちな、研究一筋で大乱の際にも逃げることもせず、仕事をしておったそうです。すでに、シュナイゼル王子の軍は王都にまで攻め込み、逃げたところでわしらの足では逃げ切れるものではないでしょう。『どうせやられるならば、ひとつでも多く文字を解読してからの方がよかった』、と祖父はそう言って笑っていましたよ」
 シュリは目を丸くし、マーカスが笑った。
「さすが、じいさんの祖父さんだけあるなあ」
 タトル氏も微笑むと、「亀族はそういう性質なのですよ」、と言った。
「その大乱の最中に、件の魔女殿が、いつの間にか王宮に入り込んでいたそうです。理由はわかりません。祖父は、その際に、ちらりと姿をかいま見たそうです。それは美しく、ディル・リィ=ロサ王女に勝るとも劣らない美しさであったそうで、王宮に務める男たちの中には、ひと目で魔女殿に心奪われる者もいたとか」
「ディル・リィ=ロサ王女って言うと、マジェストリア王家の祖にも繋がるザムディアック公の奥方だよな。シュナイゼル王の妹で、『奇跡のバラ』と呼ばれる絶世の美女だったって伝わっている。実際、どの程度だったかはわからないけれど。ザムディアック公はもとは名もない一兵士だったけれど、シュナイゼル王に先駆けて反乱を起こした英雄だ。途中、シュナイゼル王子の戦列に加わって力になったけれど、当然、ザムディアック公こそ上に立つべきだって声もあったろうな。王妹を妻にしたってのにも、政治的なものを感じるね。でも、結局は、こうしてザムディアック公の子孫が一国を治めているわけだし、そうなるべきものだったのかな、って思うよ」
 マーカスの言葉に、タトル氏も頷いた。
「さよう、さよう。しかし、ディル・リィ=ロサ王女にも歴史上、謎が多く存在しますな。大乱の頃まで行方不明になっておったそうです。というのも、一説では、大乱以前の王位簒奪は、王女の母君であるリンディアナ妃がもともとの原因とまで言われており、その因果ゆえとも言われておりますな」
 それから暫し、タトル氏によって、シュリたちの知らないロスタの内乱から大乱に至るまでの経緯の一説が披露された。




 ≪ back  index  next ≫ 



inserted by FC2 system