マジェストリア国が成立して約三百年。
大乱以降、ロスタ国の名であった頃を含めると約六百年。
ロスタからマジェストリアが独立するまでの約三百年間を『新制ロスタ期』と呼ぶ。
大乱以前のロスタ国の歴史は、約千二百年。
その時代を『旧制ロスタ期』や『古代・中世ロスタ期』などと呼ばれる。
それ以前は国として成立するものではなく、大まかに『古代』と呼ぶ。
各種族同士が細かい部族として集まり暮らし、妖精族がまだいた時代だ。
それ以前は『神代期《しんだいき》』と呼ばれ、歴史というよりも神話の時代だ。
国とひとこと口にするでも、長い時の積み重ねがあって現在がある。
それは、どの国でも変わることなく。
その一部であっても、詳細を知ろうとするのはとてつもなく時間のかかる作業であり、労力がかかる。
そして、そのぜんぶを理解し知ることは、まず不可能だ。
いわんや、素人においては。
絶対に。
保証付きで。
でなければ、学者なんて職業はないだろう。
しかし、それでも諦める必要はない。
なにかの拍子で知れることもあるのだから。
ほんの端っこの方であっても。
キルディバランド夫人は半ば心配、半ば呆れ気味に、世話を任されている魔女の娘を見た。
ここ五日ほど部屋に閉じこもって、一心不乱に本を読み進めている。
一冊の本を順番に読んでいるわけではなく、数冊の本をあちこち広げては、あっち読み、こっち読みをしている。
読みながら、時々、「あうー」だの、「ふにゃあ」だの、意味不明の呻き声をあげている。
厚みのある大きな本は、すべて、歴史と地理の専門書であるらしい。
しかも、一般知識程度のものではなく、学術書と言われる類のもののようだ。
貴族の令嬢でそんなものを手に取る者は、滅多にいない。
カミーユのような者もいるにはいるが、あれは例外。
夫人にとっては、彼女は令嬢と呼ぶどころか、同性とみなすことさえ怪しく感じる。
大抵は、女性の克ちすぎる知性は鬱陶しがられるがオチだからだ。
より良い家に嫁ぐのに、そんなものは必要がない。
愚かすぎるのも困りものだが、賢しすぎるのも、また可愛げがない。
なにごとも、ほどほどが肝要。
本来、一時、滞在するだけの魔女にそんな心配する必要はないのだが、個人的には、元が良いだけに勿体ない、とも感じてしまう。
――うちの娘にも妖精族の血が万分の一でも流れていれば……
黙っていても引く手数多。
わざわざ彼女がお膳立てする必要もなく、良家の子息に見初められ、娘だけでなくお家バンザイ。
社交界で鼻高々の、労せず左団扇の老後が待っているだろう。
ポムデワール子爵家のヘンリエッタ嬢などは、家柄こそ大したことはなかったが、その美貌でみごと侯爵夫人の座を射止めた。以来、ポムデワール子爵家は、侯爵家の後ろ盾を受けて、それまでうだつの上がらなかった息子たちも昇進、要職への推挙と、着々と名家への階段をのぼりつつある。
ほかにも、べルフェスト男爵家のシャーリーン嬢や、ソルドレイク伯爵家のパルフィオーラ嬢とか……
なにも美貌がすべてとは言わないが、あったほうがより良い人生が送れる可能性が高いのは事実。
彼女の娘もそれなりに努力はしているようだが、一向に実を結ぶようすは見られない。
必要もない者に与え、必要な者にこそ与えられない。
言っても詮ないこととわかっていても、言わずにはおれない。
しかし、それにしても、と夫人は密かに嘆息した。
なんの不足もないだろうと思っていた王妃こそ、夫人と似たり寄ったりの悩みを抱えていたとは!
実に青天の霹靂。目から鱗の話だった。
しかも、ことはもっと深刻である。
王家どころか、国の一大事だ。
――おいたわしや、王妃さま……
忠誠心の厚い夫人は、心中密かに同情の涙を流した。
ほんの、一滴だけ。
あの騒ぎののち、ふたりきりになった部屋で、悩ましげな溜息を洩らす王妃から唐突に質問をうけた。
「いいえ、まさか、そんなことは!」
有り得ない、と夫人は答えた。
本当のところ、そんなことを疑ったこともなければ、考えたこともない。
だから、どう思うというよりも、王妃の望む答えをするのが正答というものだ。
「しかし、あの年になっても浮いた話ひとつない。妻を娶れと言えば、いやだ、聞かぬの返事ばかりが返ってくる」
「それは王子としての自覚あってのことでありましょう。人々の範となるべく自らを律されてゆえのことかと。奥方さまを娶らぬは、おそらく、今しばらくは縛られることなく、自由の身でありたいということなのでしょう。あの年頃の殿方には珍しい話ではございますまい。特にルーファスさまは闊達な方でらっしゃいますし」
「……ならばよいが。しかし、そちも見たであろう、さきほどのあの魔女。ひとめで妖精族の血が流れているとわかるあの容姿。あれを前にしても、眉ひとつ動かさなんだ」
「それは、」
と、夫人も一瞬、言葉に詰まった。
たしかに、あの黒髪の魔女は、同性の彼女からみても嫉ましいを通り越して、見蕩れてしまうほどに美しかった。羨むどころのレベルではない。
それを前にしても、顔を緩めるどころかますます険しくしただけだ。
「……お心の抵抗の表れであったのかもしれませぬ。好む容姿であっても、やはり、魔女ですから。お相手として相応しくはございませぬでしょう」
本当にそうだろうか?
次第に自信がなくなるのを感じながら、夫人はそう答えるしかなかった。
「そうかな」、と王妃はふと溜息を洩らした。
「それにしても、あまりにも反応がなさすぎたように思われた。思えば、舞踏会を催しても、いかにも嫌々といった風体で、おざなりに顔を出してすぐに引っ込んでしまう。無理矢理、出席させたところで、着飾った令嬢を前にしても仏頂面ばかりで、愛想のひとつも見せようとはしない。ひとりぐらいは興味惹かれるものがおってもおかしくなかろうに」
「ええ、まあ、それは、」
「単に、華やかな場所が嫌いなのか、と思っておったが……大体、あの、カミーユ・ガレサンドロにしてもそうであろう? 如何に優秀であろうと女であり、見目よき者。それをそばに置きながら、なにひとつ話もなければ、色の欠片も見当たらぬ。仲を隠しているにしても、あれだけいっしょに行動を共にしているのだ。普通ならば、間違いのひとつやふたつ、みっつやよっつもあろうに。噂ひとつ流れてこぬ。ガレサンドロ家にしても家格に多少、難はあるが、『妻にしたい』と申したとしてもまったく無理な話ではない。それを、あのように男の恰好《なり》をさせて側近などと。ほかにも年がら年中、討伐だなんだと男に囲まれて暮らしていれば、そうも疑いたくもなる」
よほど悩みが深いのだろうと感じ入る勢いで、王妃は常になくことば数を多く口にした。
――それよりも男として役に立たない……いえいえいえいえいえ! そんなはずはない! あるものですかっ!
夫人は浮かんだ考えを、気の迷いと即座に消去する。
男色と役に立たないのとどちらが良いか。
そんな問いに答えられるわけもない。
一国の王位継承者としてのその疑惑は、あってはならないものだ。
由々しき問題。
本来ならば、一介の女官ごときが口を挟める問題ではない。
「畏れながら、王妃さま、それは考えすぎというものではありませんでしょうか」
おそるおそる、答えてみる。
「そうかな」
「ひょっとしたら、もうすでにどなたか心にお決めになった方がおられるのかもしれません」
咄嗟のものではあったが、その方が自然な考えのような気がした。
だが、王妃の表情がそれまで以上に強ばった。
「そのような話をどこぞで耳にしたか」
「いえ、だれもそのようなことは言ってはおりませぬが……あくまで、私の想像でございます」
刹那、かいま見えたのは母としての嫉妬の炎か。
しかし、それも、ゆるゆるとした吐息と同時に薄くなり消えた。
「それも有り得る話ではあるな」、と王妃は声を押さえつけるように言った。
「しかし、たとえそうであったとして、どこのだれか、ということになるが、心当たりはあるか?」
「いえ、私には」
「カミーユ・ガレサンドロということはあるまいか」
「さあ、それも私にはなんとも……そのようにお見受けは致しませぬが」
「そうだな。可能性はなくはないが、もしそうであれば、とうに話も出ていよう。ルーファスが黙っているわけがなかろうしな。どこでどう出会ったものかはわからぬが、口にしないどころか気取られないようしているあたり、なにか問題があるのか」
王妃はひとくち茶を啜り、カップを皿の上に戻して言った。
「のう、そちに内々に頼みがあるのだが、聞いては貰えぬか?」
キルディバランド夫人は知らずうちに、溜息をこぼしていた。
断れない立場ではあるが、まったくもって面倒臭い話を引き受けてしまったものだ、と途方にも暮れる。
自業自得と言うより薮蛇。
ルーファス王子の想い人がほんとうにいるのか。いるならば、誰かまでつきとめよ、とは! しかも、早急に!
『シャスマールとの縁組みの話もある。だが、ここだけの話、私もトカゲ族の姫を娘と呼ぶには抵抗を感じる。もし、それが人の娘であり、身分程度の問題であれば、その方がましとも思える』
気持ちはわかる。気持ちがわかるだけに、彼女としても協力したいのはやまやまだ。
だが、しかし、いったいどうしろというのか? どこを探れ、と?
実の母親でさえ把握していないものを、赤の他人がどうやって把握しろというのか。
どこから手を付けたものやらもわからない。
また、ひとつ、溜息が出そうになったところで、こちらを見ている娘の視線に気がついた。
髪に隠れて見えないが、顔はこちらを向いている。
慌てて、出かかった息の塊を飲み込んだ。
「どうかされましたか?」
にこやかな笑顔をつくって訊ねる。と、モップのようにも見える銀の髪が心持ち傾げられた。
「いえ、なにか悩み事でもあるのですか?」
顔に出ていたのだろう。問い返された。
「いえ、大したことではございません」
「わたしでよければ、お話を聞きますよ」
「いえ、どうかお気遣いなく。お気持ちだけ頂いておきます」
「でも、あまり顔色もよくないですし、心に溜めるだけで身体をわるくすることもあります。話して楽になれることだったら、そうしたほうが良いですよ。わたし、一応、これでもすこしはおまじないなんかも出来ますし、力になれるかもしれません」
そんなことで問題が解決するならば、だれも苦労はしない。話したところで、わかるまい。
内心、そう思いながらも、夫人はすこしだけ心惹かれるものを感じた。
「ほんとうに大したことではないのです」
己に言い聞かせるようにして答える。
「そうですか。だったら良いのですが」、と魔女の娘は納得しがたい様子ながら、頷いた。
「あの、休憩したいのですが、お茶をいれていただけますか。よければ、すこし気晴らしの話し相手にもなっていただきたいのですが」
「畏まりました。よろこんで」
夫人は笑顔を張り付かせて答えた。