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 引力が強まる満月には、自然界ではいろいろなことが起きる。
 満潮時の波がいつもよりも高いとか、ポロロッカとか、サンゴの産卵など。
 自然の神秘の片鱗をみることができる。
 はっきりと証明されてはいないが、人体にもいろいろな影響を及ぼしていると主張する科学者もいる。
 例えば、ほかの日よりも出産率が高いとか、犯罪の発生率が高いなど。
 満月の夜に変身するオオカミ男の伝説も、その影響かもしれない。
 だが、獣人が当り前に存在するこの世界での影響はどうだろうか。
 人でありながら、『ケダモノ』といわれるこの男の場合は?
 すくなくとも、遠吠えだけはしなかったようだ。
 それでも、満月の夜は、いつもよりすこしだけ不思議なことが起きたりする。

 ちいさく悲鳴をあげはしたものの、シュリは部屋に飛び込んで窓を閉めることはしなかった。
 足が竦んで動けなかったというわけでもない。
 近付いてくる人影を凝視したまま、びくびくと身体を震わせていた。
 闇から抜け出すように、ふたたび雲から顔を出した満月が男の顔を照らした。
「いまの歌はなんだ」
 ぶっきらぼうなルーファスの問いに、シュリはひとつ嚥下した。
 だが、雰囲気からして斬りかかってくる様子もなく、乱暴する気もなさそうだった。
「え、と、祝福の儀式です。闇の」
「闇を讚えるのか。やはり、魔女だな」
「……満月の夜には。新月の夜には、光を祝福します」
「ほう?」
 萎縮しながらも答えれば、どこか興味深そうな声で相槌があった。
「聞きなれないことばだったが、どこの国のものだ」
「それは知りません。口伝えで教えられたものなので」
「それでは意味はわかるまい」
「闇は褥 秘めたる息吹を育む 生きとし生けるものよ安らかに 祝福を贈らん、とそんな意味だと聞きました」
「猫が集まっていたが」
「……猫は昼間よりも夜に近い生き物ですから。それに、終れば帰っていきます」
「なるほど。おまえたちは、そうやって森羅万象の均衡を保つということか」
 カミーユから聞いたのだろう。
 だが、男は男装の麗人のような怒りをみせることはなかった。
 とはいえ、不機嫌さに変わりはないので、やはり、怒っているのかもしれない、とシュリは思う。
 ルーファスは言った。
「しかし、その歌とやらが本当に効果をみせているのかはわかるまい。その均衡とやらがとれているかどうかも」
「大丈夫です。特別、変なことがなければ」
「変なこととはなんだ」
「え、と大雨とか、日照とか、洪水とか」
 ハッ、と嘲笑う声が答えた。
「天候さえ操るか」
「……ちがいます。降リ出した雨は止められませんけれど、早くやむように努めることはできます」
「おなじことだろう」
「似ているけれど、ちがいます。旺じた水の精霊を止めることはできませんけれど、ほかの精霊の力を増すことで均衡を保つことはできるということです。風の精霊の力を増せば雲は晴れるし、光を増せば、水の精霊の力を削ぐこともできます。でもそれも過ぎれば、地の精霊が衰えるので力を増すこともし、闇の精霊を旺じさせることで、光の力を削ぎ、地を休ませることができるということです」
 言葉足らずではあるが、その説明がどこまで通じたのか。
 窓からもれる室内の光にあたるほどシュリの近くまできたルーファスは、ふむ、と頷いた。
「なるほどな。それが魔女の務めというやつか」
「はい」
「だとすれば、逆もできるということではないのか。今でも、光を祝福すれば、均衡とやらを崩すことはできるのだろう?」
「無理だと思います。ほかにも魔女はいますから、わたしひとりが均衡を崩したところで、ほかの魔女たちが直します」
「魔女たちが一致団結すれば、均衡を崩すことは可能なわけだ」
「なんのためにですか?」
 ルーファスがなにを言いたいがわからず、シュリは問う。
 すると、「たとえば、人を酷く憎めば、滅ぼそうとすることもできるだろう」、と答えがあった。
「つまり、俺たちは貴様ら魔女に生かされていることになる」
 皮肉げにその口の端があがるのを見て、シュリは首を横に振った。
「いいえ、生きることは、それぞれの生き物の力によるものです。どんな状態でも生き残る者はいるでしょう。たとえ、魔女がいてもいなくても」
「そうかもしれないが、気のすむまで被害を与えることはできる」
「でも、そんなことをすると、魔女も困ります」
「なぜだ」
「果物や野菜が枯れると食べるものがなくなります。本物の魔女になれば、食べなくても平気なんだそうですが、私は困ります。でも、師匠も必要はなくても、食べることもお酒を呑んだりすることも好きですし、それができなくなるのは嫌だと思います。それに、均衡が崩れすぎると、魔女は消滅してしまうとも言っていました。魔女のことばでは、『還る』と言いますけれど」
「消滅? 死ぬということか。なぜ?」
「さあ、はっきりしたことはわかりません。でも、魔女が還ったあとは、乱れた均衡がわずかでも戻るのだと聞きました。現に師匠の前の師匠は、数年、干ばつなどが続いた時に消滅してしまったそうです」
「ほう?」
「それに、魔女がそこまで人を憎むことはないです」
「どうしてだ。おまえにしても、無理矢理、ここへ連れてきた俺を憎んでもおかしくはないだろう」
 そう言われてシュリは、ううん、とすこしの間、考えた。
「憎むというより怖いです。剣で刺されたりしたら痛いし、死んじゃいますし。それよりも、ここに来たおかげで、色んなことを知ることができたし、色んな人とも話せたし、ご飯はおいしいし、よいこともいっぱいありましたから。どれも、森の中にいてはなかったことばかりです」
 そう答えると、気の抜けたような表情が彼女を見た。
「だが、酷いめにあわされれば、憎くもなるだろう」
「どうでしょうか? 普段、人と接することはないのでわかりません」
「……魔女はみなそうなのか」
「たぶん。わたしは魔女は師匠しか知りませんけれど、師匠の話では、みな、極力、人と関らないようにしているそうです」
「なぜだ」
「『興味がないからだ』、と師匠は言っていました。興味がない相手になにかかしらされるのは、鬱陶しいんだそうです。そういう意味では、師匠はまだ人前に出るほうで、魔女としては変わっているそうです」
 ふうん、と相槌をうちながら、男は考える素振りをみせて問うてきた。
「では、どうしておまえたちは存在する」
 質問攻めだ。
 ここに来なければ、そんなことまで真剣に考えることなどなかっただろう。
 だが、いくら考えてもわからないその問いに、シュリはしゅんとして困り果てる。
「……わかりません」
「わからずして、魔女でいられるのか」
「……だったら、人はなんのために存在するのですか?」
 それがわかれば、魔女が存在する理由もわかるかもしれないと思った。
 が、応えたのは、笑い声だった。
 声をたてて、ルーファスは愉快そうに笑った。
 男がはじめてみせた表情に、シュリは内心で驚いた。
 まさか、笑うとは思ってはいなかったし、彼も笑うことがあるとは思っていなかったからだ。
「たしかにな」、と咽喉に笑い声を残したままルーファスは言った。
「その問いに答えられるものなど、この世のどこにもいないだろうな。いるとすれば、大うつけか、世の理のすべてを知る賢者ぐらいのものだろう」
 そして、「なるほどな」、と呟いた。
「つまり、おまえたち魔女から人やほかの生き物の生死に直接、関与することはないが、人の方からおまえたちに直接、関与することはある、ということか」
 ルーファスの言い方は難しく、シュリは首を傾げた。
「そうだと思います」
 くくっ、とまた男の咽喉が鳴った。
「姿もなにも人とそう変わらずして、妙なものだな」
 向けられる黒い瞳が、これまでより和らいで感じた。
「そうでしょうか」
 その眼を見上げながらシュリは、自分が震えていないことに気がついた。
 不思議なことに、あれほど怖く感じていた人が、触れられるほど近くにいても怖いと感じなくなっていた。
 ああ、とルーファスは頷くと、唐突に思えるほどあっさりと踵を返した。
「邪魔をした」
 挨拶のあとに、「なかなかよい歌だった」、とついでのほめ言葉が付け加えられた。
 いったい、彼がなにをしにきたのか、聞きに来たのか、シュリにはわからなかったが、そのひと言が嬉しく感じた。
 そう。今ならば、言えるかもしれない。
「あのっ、お願いがあるのですが!」
 勢いに押されながら、立ち去ろうとするその背にシュリは慌てて声をかけた。
「なんだ」
 立ち止まり、肩越しに振り返るその人に思いきって言った。
「いちど、家に帰らせてもらえませんか」
「なぜだ。なにか不足でもあるか」
 ゆっくりと向き直る姿に、シュリは頷いた。
 怒った様子はないことに、ほっ、とした。
「まじないのための道具を取ってきたいのです。それに、家のことも心配ですし、ひとつ確かめたいこともあるので。用事が終ったら、すぐに戻ってきます」
「どうしても必要なことか。確かめたいこととは」
「近くの山に住むドワーフの方たちに訊ねたいことがあるのです」
「ほう、ドワーフ族があんなところにいたのか」
 ルーファスは興味深げに答えた。
「よかろう。ただし、一日だけだ。転移用の方陣の使用を許可しよう。あと、看視役も同行する」
 移動用と言っていたが、転移というらしい。
 看視役とは、マーカスだろうか。
「ありがとうございます」
 シュリは頭を下げた。
 よかった、と思う。
「では、明日の朝、朝食後に迎えをよこす」
「はい、ありがとうございます」
 思いのほか、話が早い。
「ゆっくり休め」
「おやすみなさい」
 ふたたび向けられた背を見ながら、シュリは微笑んでいた。

 『怖いけれど、ちょっとよい人かもしれない』、というカテゴリーが新たにシュリのリストに付け加えられ、ルーファスがその中に分けられた。




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