31




 ドワーフたちの窟を後にし、シュリはルーファスと共に自分の家に戻ることにした。
 ふたたび騎乗して、山を下る。
 歩きの時よりも格段に身体は楽だが、気は重い。
 というのも、同乗者の機嫌が目に見えてよくないからだ。
 はっきりと怒っているわけでもないが、むっつりと黙ったまま、眉根を寄せた表情を崩さない。
 なぜだろう、と考えてみて、クラディオンの話をしたからだ、とシュリも思い当たった。

 ――クラディオンの話はできるだけしない方がいい。特に王子たちの前ではね……

 すっかり忘れていたマーカスの注意をいまになって思い出した。
 覆水盆に返らず。
 暴れなかっただけまだましなのだろうが、それにしても、気分を害してしまったらしい。
 なにがあったかは知らないが、よほど嫌なことがあったのだろう、と思う。
 太陽の位置からして、いまは昼近い時間だろう。
 家のことは師匠がほとんどしてくれたので、あとシュリのしなければいけないことといえば、まじない用の荷物を纏めるだけだ。
 このまま真直ぐ帰って城に戻ると、持たせて貰った昼食を食べる必要もないほどの時間だろう。
 それはそれで、問題はない。不機嫌なルーファスとこのままふたりきりでいる意味もないし、なにより、心臓に悪い。
 しかし、このまま素直に帰るというのも、なにか淋しい気もした。
「あのう、このあと、なにか予定はあるんでしょうか」
 恐々とシュリは質問してみた。
 すると、しばらく間があって後、「別にない」、とぶっきらぼうな答えがあった。
「こちらの用は終わった」
「そうですか……では、ちょっと寄り道してもらっていいでしょうか」
「なにか用事か」
「いえ、用事ってわけじゃないんですが、久し振りにちょっと寄ってみたい所があるんですが」
「……どこだ」
 相変わらず声は単調だが、どうやら了解の意味らしい。
「ええと、もうすこし行くと右に折れる細い道があるのでそちらへお願いします」
 返事はなかったが、向かう方向は変えてもらえた。

 身体に覆い被さってくるような緑の間を抜ける径を行く。
 歩くぶんには問題がないのだが、騎乗していれば、時折、邪魔に張り出る枝にあたる。
 そのたびにルーファスは、抜いた腰の剣で枝を払った。
 と、行く手を阻もうとするかのような蔦の絡まる枝に、シュリは、あ、と声をあげた。
「すみません、止まってください!」
 慌てて言ったが、間に合わなかった。
 既に、ルーファスの剣が枝にかかっていた。途端、

 ペッ!

 蔦が蠢き、葉の間の先端から緑色の粘液が飛び出てきた。
 腹巻きしたおっさんが、路面に唾を吐きすてるが如く。
 シュリは反射的に身を低くしてよけたが、それ以前にルーファスが楯になったようだ。
「なんだこれはあッ!」
 怒鳴り声が響いた。
 その隙に蔦――蔦にみえた虫はしゅるしゅると枝を伝って逃げていく。
「……カルデ虫です……でした」
「虫!? クソいまいましい! ベタベタだ! ちくしょう、なんだこれは!」
 運が悪いとか、間が悪いとか、油断大敵とか。
 言い方はいろいろあるが、結果として、火に油を注いだか。
 ぼっ、と炎が燃えるような熱気にあてられ、シュリはますます頭を低くした。
 頭についたそれを手で拭おうとしたのだろう。ルーファスの手にうつった粘液が糸をひいている。
 蔦に擬態した虫は、主に他の昆虫を捕食するためのほかにも、鳥などの敵から逃げるために粘液を使う。
「ごめんなさい。早く気がつけばよかったんですけれど……蔦みたいに見えるから、わかりづらくて」
 びくびくしながらシュリは謝った。
「ああいうものがいるなら、早く言えっ!」
「……ごめんなさい。でも、人には大して害のないものですから、すぐに洗い流せば大丈夫です。この先に滝がありますから、そこで」
「ええい、気色の悪いっ! なんだこいつはっ!」
 ルーファスは散々文句を言いながら、馬の脚を早めた。
 木々を抜けた先に、ぽっかりと開けた空間がある。そこに一歩踏み入れば、冷えた空気に包まれた。
 遥か頭上から、岩場を白い帯のように一直線に落ちてくる滝があった。
 滝の幅はそれほどないのだが、跳ねる飛沫が滝つぼよりすこし離れた位置にいるシュリたちにもかかるほど、勢いは激しい。
「これは……すごいな」
 怒っていたはずのルーファスからも感心する声があがった。
「水の精霊が特に集まる場所なんです」
 馬から降りながら、シュリは答えた。
「ちょっとつめたいですけれど、ここの水は安全です。頭と顔を洗ってください。そのままにしておくとかぶれたりもしますから」
「ああ」
「よかったらシャツも脱いでください。洗いますよ」
 ルーファスの頭から右肩にかけて、べったりと青緑色に濡れた痕があった。
「ああ、たのむ」
 と、手早く脱がれた黒いシャツがほうりなげられた。
「わわわわわわわあ!」
 受け取るというよりも、頭から黒い布を被ってしまう。
 黒く覆う視界から抜け出すように、シュリはもたつきながらも慌ててシャツを取った。
 しかし、その時にはすでにシャツの持ち主は、履いていたブーツさえ脱ぎ、ざぶざぶと滝つぼに脚を踏み入り、歓声をあげながら頭から水を被っていた。
 どきり、とシュリの胸の奥が鳴った。
 その後ろ姿。
 その背にくっきりと残った。太く引き攣れた鋭い傷痕。
 肩口から腰近くまで斜めに連なる。
 あれこそ、ドラゴンにつけられた傷痕だろう。
 死んでいてもおかしくないと思わせる痕だ。
 実際、そうだったと言う。
 瀕死の重症だったと。
 シュリは悪いものを見てしまったような気がしていそいで眼を逸らすと、そそくさとすこし離れた川べりへと移動した。
「うわあ、大きい!」
 広げたルーファスのシャツは、シュリの身体をひと巻き半もできそうな大きさだ。
 滝つぼから流れ出る川でそれを洗いながら、ふ、とシュリは思う。
 部下を、民を守るためにドラゴンを討ったというルーファスの背に、どれだけのものが伸し掛かっているのだろう、と。
 王子という存在は、あんな傷を負ってまで戦わなければならないものなのか?
 王子とは国の統治者の息子、という漠然とした印象しかもっていなかったが、思っていた以上に過酷なものなのかもしれない、と思う。
 どんな王が、どんな政をして、どうやって国を治めていたか。
 そんな話は、師匠から歴史のひとつとして教えられてきたが、シュリの実感には伴わない話だった。
 森の中で暮らしているぶんには、なにも関係なかったから。
 魔女には関係のない話だったから。
 与えられた知識は、同じ大陸に暮らすものとしての人や他種族を大まかに理解するためのものだ。魔法を使うにあたって、暮らす者たちにどんな影響を及ぼすものか知るためのものだった。
 だが、こうして人に間近に接していると、知識だけでは得られなかった考えや思いに触れる。
 それが良いことなのか、と考えれば、あまりよくないことのように思える。
 魔女に情は必要ないから。すべてに公平でなければならないから。
 人にも。それ以外の種族にも。精霊にも。
 だから、戸惑いもする。
 ルーファスのような激しい感情をぶつけてくる相手には、特に。
 首根っこを掴まれて、がくがくと揺すられているような気分だ。

 ――ちゃんと、魔女になれるのかなあ?

 シュリの前を水の精霊が横切った。
 気がつけば周囲に多く集まってきている。
 物思いにふける彼女の様子に、どうしたかと集まってきたようだ。
「ごめんね。ありがとう」
 答えれば、また辺りに散っていった。
 シュリは、思いきるように息を吐いた。
 なんであれ、いまは自分にできることを精一杯やるだけだ。
 すくなくとも。とりあえずは。
 洗濯は、上手にできたようではある。
 吹き込んでくる風の精霊に手伝ってもらってシャツを乾かした。
 その間、まじないに使うに良さげな小石を、二、三みつけて拾った。
 馬のところまで戻ると、頭から水を滴らせたルーファスが手ぬぐいで水気を拭っているところだった。
「髪、乾かしましょうか?」
 親切心で申し出れば、「いらん」、のひとこと。
「風邪をひきますよ」
「そんな柔ではない。すぐに乾く」
 黒髪を一振りすれば、水滴が飛び散った。
「それより腹が減った。ここでメシにするぞ」
 決定事項のようだ。
 乱暴な物言いだが、機嫌はなおったようではある。
 水の精霊の癒しが効いたのだろう。いつも王子に纏わりつくようにいる炎の精霊も、おとなしくなっている。
 シャツと馬に積んであった荷物を交換。
 受け取ったちいさな包みには、パンと干し肉とチーズの塊、そして、カップがふたつとぶどう酒が一本。
 なんとも質素だ。が、シュリには充分だった。
 シュリは酒はほとんど呑めないので、カップに水を汲んだ。
 平らな岩のひとつに腰かけ、それらを切り分ける。
 目の前で、傷痕がシャツに隠れた。
「その傷、ドラゴンにつけられたものですか」
 問えば、意外にも皮肉めいた笑みが振り返った。
「カミーユにでも聞いたか」
 頷けば、「見苦しくはあるが、仕方あるまい」、と答えがあった。
「そのこともあって、魔法の解放を願っているのですか? いざという時に治療ができるように」
「そうだな。そういうこともある」
「そういうことも、とは、ほかにも理由が? 結婚を嫌がってとも聞きました。それを断るためにも必要だと」
「……そういうことが関係あるのか?」
 そう問い返されれば、シュリも困る。
「いえ、ただ、気になって」
 すると、ルーファスはひとつ鼻を鳴らし、「まあ、いい」、と言った。
「それ以外にも、語るには多過ぎるだけの理由はある。いちいち説明する必要もあるまい」
「……そうですか」
 関係ないと言い切られれば、部外者であるシュリには返すことばもない。
 チーズと干し肉を挟んだパンで、よけいなことを言いそうになる口を塞ぐ。
「鬱陶しそうだな、その髪。邪魔にならないのか」
 シュリが呑まないことがわかったのだろう。ぶどう酒の瓶に直に口をつけながら、ルーファスが言った。
「べつに気になりませんけれど」
 髪をよけながら食べることは、いつものことで慣れている。
 偶に口の中に入る時もあるが。
「見ている方が鬱陶しいな」
「そうですか?」
「隠さなければならないほど、酷い顔をしているのか」
「どうなんでしょうか。わかりません。言われたこともないので」
「まあ、そうか。滅多に人に会わないのであれば。あの魔女、師匠とやらにもなにも言われないのか」
「師匠には、顔を見せるなと言われました。見せれば、立派な魔女になれないって」
「魔女になるのと、顔が醜いのと関係あるのか」
「さあ? それは、よくわかりません」
 人と話すことは、シュリの心を揺らす。
 特にこうして質問されるのは、居心地がわるく感じられた。
 座っていた岩の硬さが、急に気になりもする。
 ふうん、と手の中のパンを平らげ、指先を舐め取った件の男は、にやり、と笑った。
 つぎの瞬間、シュリは空を見上げていた。
「きゃっ!」
 食べさしのパンが、手から転がり落ちた。
 薄い雲が斑にかかる空が、正面に見上げる位置に変わっていた。
 一瞬の内に、シュリは岩の上に仰向けに寝ていることに気付いた。
 空を隠すように真上に、原因を作った男の顔があった。
 にやにやと、面白がっているような表情だ。
 事実、ルーファスは面白がっていた。
 戯れにからかってやろう、とその程度の感覚で。
 ちょっといじめて、きゃあきゃあ騒ぐのを愉しんで、冗談ですますつもりだった。
 虫に液をひっかけられた気分直しの意味も含めて。
 しかし、シュリはそんなことは知らない。
 本気で恐怖していた。
 ちからいっぱい抵抗する。
 片手一本でかるがると肩を岩に押し付けられた。
 体重はほとんどかけられていなかったが、圧迫感は体重以上の重さだ。
「俺がどれほどのものか検分してやる。見せてみろ」
「やややややめてくださいっ! 見てもおもしろくないですっ!」
「それは俺が決める」
 押し退けようとシュリは手で黒いシャツの胸元を押したが、びくともしない。
 たしか、まえにも、似たようなことがなかったか?
 そう思われても仕方がない。
 或いは、学習能力がないと言われても。
 本人はそれどころではなく、思い出すどころの騒ぎではない。
 しかし、脚もじたばたと暴れさせたところで大した抵抗にもならなかった。
「おおおお重いです! 退いてくださいっ!!」
「顔を確認したらな」
 にべもない。
 シュリの髪が、ばさり、と音をたてて払われようとした。
 必死の抵抗。
 シュリは顔の前で腕を交差させて庇う。
「やだやだやだやだやだやだやだやだっ! 助けてぇっ!」
「大人しくしていろ。とんでもない不細工でも、呪いを解くまでは殺しはせん」
「いぃやああああああああっ!」
 両手が一纏めにされ、頭の上で岩に押し付けられた。
「美しければ、そうだな、悪いようにはしない。妾ぐらいにはしてやろう」
 面白がる声が言う。
 とんでもなく、勝手な言い草にシュリは悲鳴をあげた。
「いやああああああっ! 助けてえっ! やだあっ!」
 兎に角、必死で叫ぶ。
 世間知らずの引き篭もりの魔女見習いのシュリには、実のところルーファスがどうしたいのかなどさっぱりわからなかった。が、身の危険だけは感じていた。
 ひしひしと。いままになく。この上なく。
「大人しくしていろ。怪我をするぞ」
「おねがい、後生ですからあっ! 見ないでえっ!」
「だめだな」
 にやにや笑いは止まらない。シュリが騒ぎ立てるのを逆に愉しんでいるようだ。
 銀髪が掻き分けられた。
 ひっ、と息を呑む高い声が曝された唇から洩れる。
 シュリは涙の浮かぶ目を、ぎゅっと引き絞るように閉じた。
 頬に硬い指先が触れる感触がある。
 乱暴ではないが、ぞんざいに髪が横に振り払われている。
 ふ、と、その手が止まった。
 はっ、とした声があった。慌てたようすで髪が払われ、顔のすべてが外気に曝された。
「まさか……」
 呆然とした響きがあった。




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