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 フェリスティア、と女の名らしき単語が掠れた声で呟かれる。
 シュリの両手首を縛めていた手から力が抜けた。
 おさえつけていた身体も緩められる。
 その隙を逃さず、シュリはルーファスの身体の下から素早く逃れた。
 逃れようとした。
 が、それよりも早く左手首が掴まれた。
 振りきれないほどに強い力だった。
 そのまま力まかせに身体を引き寄せられ、すっぽりとシュリは男の胸もとに抱え込まれた。
「おまえは……だれだ?」
 間近に迫る顔。
 ルーファスの全身から放出される魔力の兆しを、シュリは直前で感じる。
 周囲で、刺激をうけた炎の精が、ぱちぱちと空気を鳴らしていた。
 水の精霊がこれだけ多いにも関らず、近付くどころか、逆に遠ざかろうと逃げ惑うほどに強い。本当に破格の力だ。
 太い指先が頤《おとがい》にあてられ、強制的に上を向かせられる。
 息苦しさに、シュリは喘いだ。
 ほとんど虫の息状態。
 また、気も遠くなりかける。
 大きな掌が、それまでが嘘のようにシュリの髪を掻き分けた。
 隔たりをなくした緑の瞳を、黒い瞳が真っ正面から捕えた。
 硬い指先が、シュリの耳の輪郭をなぞるように触れる。
 尖った先端に触れ、溜息をこぼした。
「フェリスティア」
 硬直しながらシュリは、はっきりとその名を耳にした。
 シュリには聞き覚えのない名。勿論、彼女の名でもない。
 だが、なぜか、甘い響きを感じて、銀髪の流れる背筋をぞくぞくと波打たたせる。
 かっ、と頬が熱くなるのを感じた。
 頬に息がかかるほどでありながら、なおも唇が近付いた。
 なにかわけのわからない感情が、シュリの中で渦巻いた。
 こんな気持ちになるのは、はじめてだ。
 怖いような、そうでないような、甘いような、苦いような。
 いや、やはり怖い。
「だめだめだめだめだめだめだめですっ! やめて下さいっ!」
 手で近付く顔面を阻止した。
 ぐいぐい押して返す。
 シュリの手のなかで、男の顔が容赦なく歪む。
 くぐもった呻き声があがったが、ここは気にせずシュリは押し返した。
 背筋を逸らし、両手をつかって力一杯に押し返す。
 そうしたところで、腰を支える手がびくともしないのは日頃の鍛練の賜物か、或いは、執着心なのか。
「痛っ!」
「このじゃじゃ馬がっ! 往生際の悪い!」
「ゆび噛んだあっ!」
「抵抗するからだ!」
「そっちこそやめてくださいっ! 助けてえっ! 誰かあっ!!」
「うるさいっ! 黙れっ!」
 そして言った。
「おまえは、俺のものだっ! 黙って従えっ!」
 これを告白と言ってよいものか。
 だが、そんなことは、或程度、相互理解がなしえていなければ、なんの意味もない。
 ましてや、男女の機微に疎いどころか理解していない娘にとっては、尚更だ。
「そんなこと誰が決めたんですかっ! 勝手に決めないで下さいっ!」
 シュリも手を緩めることもなく、言い返す。
「許可は得ている!」
「誰のですかっ!?」
 瀑布の音さえもかき消すほどぎゃあぎゃあと、ぴったりと身体を密着しながらの攻防。
 一進一退。
 紙一重ほどの領有権争い。
 ここで争うのは、乙女の唇。いや、それ以上。
 だが、そんなこともわからず、持ち主はただ必死に触れさせまいと頑張る。
 本能だけで。
 それは、襲っている方もそうではあるのだが。
 性的本能 対 防御本能。
 それにしても、力に劣るシュリでは、完全に分の悪い戦いだ。
「やだあっ! たすけてえっ! ししょおぉぉっーーー!!」
 今度こそ願いは通じたのだろうか。

 ザバアアアッ!!

 突然のスコール。
 局地的というにはあまりにも局地的。
 たったひとり、ルーファスの上にのみ大量の水が降り注いだ。
「頭を冷やせ、小僧」
 凛と響き渡ったのは、女の声。
「きさ、ま、」
「師匠ぉっ!」
「片脚をかけると同時に脇を締めながら腕を引き付け、腰を落とす、そのまま上体を軽く曲げて」
「はいっ!」
 十五年の教育は伊達ではない。
 恐るべき、条件反射。
 パブロフの犬、と人は言う。
 動かす身体は滑らかに、ことばをなぞる。

 ていっ!

 掛け声ひとつで、見事にルーファスの身体が吹っ飛んだ。
 日本でいわれるところの、背負い投げ。
 重力などものともしない、見事なまでの。
 ばさばさと長い銀髪が乱れもするが、凄まじいのは投げ飛ばされた方だ。
 対空砲ミサイルかと見紛うばかりの軌跡を描き、派手な音をたててそのまま薮の中へ突っ込んでいった。
 軌道上にあった木々が揺れ、はらり、はらり、と幾枚ものまだ青い葉を落した。
 『技あり』の声はなくとも、会心の投げいっぽん。
「ふあ」
 シュリは溜息ともつかない気の抜けた息をもらした。

 ぴこっ!

「できるなら、どうしてさっさとやらない? まったく、おまえときたら、精霊たちに戻っていると聞いて来てみれば、このざまだ」
 黒いハンマーを持った魔女は、弟子を叱咤した。
「だって王子さまですよ。怪我させてお手討ちにされたら困ります」
「女に無理強いする男に身分もなにも関係あるか。如何なる理由があろうと、人間のクズだ。容赦する必要はない。そんなやつは、怪我をしようが、命を落そうが、自業自得だ。とっとと蹴散らせ」
 新品の万能包丁並みの切り口で言い切った。
 くぅーん。
 頭を両手で押さえ、シュリは叱られた子犬のように師匠をみあげた。
「師匠」
「なんだ」
「顔を見られました……前にもいちど女の人ですけれど、カミーユという人に。魔女になれないんでしょうか」
 情けなくも聞こえる愛弟子の声に、魔女は黒髪を揺らし、ああ、と頷いた。
「まあ、そういうわけじゃないけれどね」、と溜息交じりに答えた。
「おまえの外貌は、いまみたいなこと以上に色々と煩わしいことを引き起こすからねえ。おまえの性格では、対応しきれないだろう。だから、隠しておくよう言っただけだよ。先代が私にしたみたいに、他人にまったく違えて見せることもできたが、あれもあれで変なところを歪めたりもするしね」
「じゃあ、魔女になれないってことは」
「この程度だと影響ないよ」
「よかった」、とシュリは、ほ、と息をついた。が、
「きぃぃぃぃぃさぁぁぁぁぁあまぁぁぁぁあああああっ!!」
 地を這うおどろおどろしいまでの重低音が響いた。
 薮の中からだ。ちょうど、ルーファスが吹っ飛ばされた位置。
 がさがさと草木を掻き分ける音がして現れたその姿は、水も滴るいい男……ではなく、まるで妖怪ナマハゲ。
 全身びしょ濡れの上に、髪は乱れ、落ち葉や小枝があちこちに張りついている。
 『泣ぐごはいねがぁ』、とわざわざ脅さなくても泣きだすこどもはいるだろう。
 その足取りはティレックスか巨大埴輪の神像を彷彿とさせる。
 ずしん、ずしん、と一足踏み込むごとに地響きさえ聞こえてきそうだ。
 ひっ、とシュリは怯えの声をあげた。
 その隣で、ふ、と魔女の首が傾げられた。
「なにかとても懐かしい気がするのだが?」
「こンの魔女ごときがっ! どういうつもりだっ! 邪魔するなっ!!」
 ひぃぃぃっ!
 シュリは師匠の後ろに隠れた。
 はて?
 上品に顎先に人さし指をあてながらモデル立ちをする黒の女は、意に介すことなくしげしげと薮から出てきたルーファスを眺めた。
「以前にどこかで会ったことがあったか?」
 魅力的な女にそう言われて、逆ナンパと勘違いするだろう男は大勢いるにちがいない。
 だが、投げられてもまだ踏ん反り返る姿勢を崩さない男は、鼻息も荒く怒鳴って返した。
「耄碌したか。この間、宮殿に押しかけてきたことを忘れたのか!」
「いやいや、そうじゃない。もっと、前だ。ええと、あれはいつだったかな?」
「知るかっ! 貴様なんぞに会っていたら、その場で斬って捨てている!」
「そんなことしたら返り討ちにして……ああ、そうか!」
 ぽん、と女の手が叩かれた。
「王子って言ったな。ザムドの血をひいているのか」
「ザムド? そんなやつは知らん! それよりも、」
「そんなはずはないだろう。その目付きの悪さといい、そう、その口調も、ザムド……ザムディアックによく似ている」
「目付きが悪いってのはなんだ!」
 あ、と声をあげたのは、背後にいたシュリだ。
「師匠、ザムディアック公爵を知っているんですか!?」
「公爵? ああそうか、私の知っているヤツはまだ兵士でしかなかったからな。むかついたって理由で国を巻込んでの反乱を起こすし、女癖は悪いは、浴びるほど酒は飲むは、しらふで暴れては、周囲に迷惑を撒き散らかすようなやつだった。だが、間違いなく強かったぞ。人並外れて化物みたいなヤツだったな」
「……貴様、いったい幾つだ?」
 満面笑みの楽しそうな口調の前に、流石に呆れた様子で、ルーファスも足を止めた。
 すこし距離を置いた、自分の間合いにある位置で。
「女に年を聞くもんじゃないが、そうだね、かれこれ六百年ぐらいは魔女をやっているかな」
 しれっとした答えに、目が見開かれた。
「六百年、だと?」
「で? やっぱり、ザムドの子孫なのか?」
「そうです」
 と、シュリが肯定した。
 すると、ああ、と納得した様子で魔女はうなずいた。
「ああ、やっぱり。この間は気がつかなかったが、顔立ちにもなんとなく面影がある。ザムドより線が細くはあるが……となると、ああ、そうか! おまえが、か! なるほど、通りで! だったら、仕方ないか!」
「なにが仕方ないだ。祖と一緒だとでも言いたいのか」
 むっとしながらの文句の返事は、本当に微かな笑みだけだった。
「師匠、師匠、師匠っ!」
 その後ろで、シュリはこどものように女の黒いドレスのスカートの端を引っ張った。
「だったら、師匠、教えて下さいっ!」
「なにをだい」
「金だらいのことをですっ!」
 おや、と肩越しに振り返れば、銀髪を乱さんばかりの様子でしがみつくシュリがいた。
 シュリは声を大きくして言った。
「金だらいは魔女のために、ひょっとして、師匠のために誰かがかけたものじゃないんですかっ!? それこそ、ザムディアック公爵の時代にっ!」

 瀑布の音さえ消えた。
 爆弾発言とはよく言った。
 人は生きながら屍のごとく、身体は硬直し、口は語ることばを失う。
 被害者は、約一名。
 だが、被害は最小限。しかも、すぐに生き返る。
 生き返って、真っ先に声をあげた。

「なんだとぉぉぉぉぉおおおおおおっ!」

 驚愕と怒りが、吼える声と黒い瞳の色にめいっぱい籠められた。
 それとは逆に、同じ色を持つ女の瞳には和らぎが生じていた。
 魔女には爆弾もなにも関係ないらしい。沈黙は、どう答えたものかと迷っていたようだ。
「……まあ、厳密に言えば違うが、そうとも言えるかな」
「やっぱりそうなんですねっ!」
 喜色を浮かべる弟子の頭を魔女は撫でた。
「よくわかったね」
「なんだ、どういうことだ、それは! わかるように説明しろっ!」
 ひとり置いてけぼりにされ、喚くルーファスを魔女は振り返った。
「そうだね……思っていたよりも早いが、おまえには知る権利があるな」
「当り前だ! 納得できる説明なんだろうな?」
「それはわからないが」、と魔女は答えた。
「場所を変えよう。もっと落ち着ける場所で。長い話になるからね」
 国の謎は、ひとりの魔女の過去に重なる。
 それを知るには、あと暫しの時が必要だ。
 黒いちいさな鳥が、滝の流れに沿って舞い上がった。




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