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 ――あのね、王子さまがいたの。本物の王子さまよ。物語に出てくるような。
 私を守ってくれるって、私を泣かすようなやつはみんな追い払ってやるって、真剣な顔で、本当に一生懸命に言ってくれたのよ。
 とても可愛らしい、まだお小さいけれど、とても優しくて、立派な王子さま。
 本当に、嬉しかった。あんな風に心から言われたことなんてなかったから。
 だから、私は戻る決心をしたの。だって、私がいたら、戦になるかもしれない。そうしたら、あの子まで巻込んでしまうわ。そんなことはできないもの。そうでしょ?
 レイリアが命をかけて守ってくれた命だけれど、そのレイリアの子でさえ巻込んでしまう。
 まだ四歳のちいさな娘。
 あのこから母親を奪ってしまった上に、これ以上、私のために酷い目にはあわせられないわ。
 だから、行くことにしたの。あの子たちを守る為に……泣いてばかりいられない。
 大丈夫、私には、まだこの子がいるから。きっと、無事に産まれるわ。
 だから、その時にはお願い。この子を守って……古の約束どおりに。

*


 クラディオン王家は、ロスタ王家傍流のそのまた傍流の血筋だった。
 新制ロスタ期より六百年近い時を経て、シュナイゼル王直系の子孫の血はロスタの名とともに途絶えた。
 ロスタの歴史の中で、しばしばみられる出来事が原因だった。
 新制ロスタ王国が興るきっかけとなった、王弟による王位簒奪が代表的なところ。
 ロスタ王家の血筋の中では、男兄弟同士の諍いの頻度がなぜか他国のそれにくらべて多い。
 だから、それが起きたとき、人々は溜息交じりに思ったものだ。
「ああ、またか」、と。
 だが、一般家庭で起るそれとは違い、王族のそれは一国を揺るがすことにもなる。
 或いは、他国に飛び火することもあったりする。

 その時、マジェストリア王宮は、慌ただしい空気に包まれていた。
 珍しくも、殺気立っていたと言ってもいい。
 宮殿のあちこちで、小声で話し込む貴族たちの姿がみられ、そうでない者は上へ下へ、右に左にと忙しなく足早に転移していった。
 連日、閣議が続き、それ以外でもクラディオンに対して苛立つ声が多く聞かれた。
 クラディオンとマジェストリアの関係は、とても微妙なものだった。
 もともと一国をなしていた間柄であるが、マジェストリアは友好的に独立を果たした、というわけでもないからだ。それなりに、両国ともに血を流しもした。最終的には、政治的な手打ちが行われてマジェストリアは独立した形だ。
 それから暫くの間は、仲が良いなど口が裂けても言えない仲だった。
 そうであっても、隣国同士であり、人が治める国同士でもある。
 長い年月のあいだに修復されたところも多く、一応は友好国としての付き合いができるようにもなっていた。
 当時、血気盛んと言われるクラディオンの王に対し、ドレイファス王のあの性格が功を奏していたと言ってもよいだろう。のらりくらりとした、時には搦め手も使った外交政策に、表向き平穏が保たれていた。
 しかし、突然、それが崩壊した。
 その頃のことを思い出すたび、ルーファスの心は重い暗さを蘇らせる。
 いまの彼ならば、まだなんとかできたのではないのか、と後悔に似た思いを抱く。
 ルーファスはその時、まだ六歳のこどもだった。
 政治のことなどなにひとつわからなかったし、なにが起きているのか、さっぱりわからなかった。
 ただ、大人たちが騒がしくしている、ということだけはわかった。なにか大変なことが起きたらしい、というぐらいまでは。
 だが、やはり、こどもであったから、それ以上のことは知らなかったし、わからなかった。
 彼は、王子という立場がどういうものか理解しはじめていた頃だったが、その権力を行使するには、知識も知恵も力も足りなかった。
 無力であるという点において、ほかのこどもとなんら変わるところはなかった。
 彼女に会ったのは、そんな時だ。
 マジェストリア王宮はそれなりに広い。
 慣れた者でも、迷うことのある広さだ。
 王族の生活空間はそんな王宮の最奥にあり、貴族なども滅多に立ち入れない場所となっている。
 出入りできるのは、限られた専属の召使いたちや警備する兵士や騎士、そして、許されたごく一部の貴族のみ。
 そうしていても、警備上の理由などから、ルーファスも立ち入ることを許されない場所があった。
 その一角で彼女に出会った。
 滅多に使うことのない、緑の庭に面した部屋。
 近付くな、と言われていた場所と知ってはいたが、庭にいた彼を啜り泣く声が呼んだ。
「だれかいるのか」
 庭伝いに部屋を覗いた。
 すると、薄暗い中にいる淡い存在に気付いた。
 若い娘だ。と言っても、ルーファスよりは遥かに年上。大人だった。
 その彼女が両手で顔を覆い、声を押し殺すように泣いていた。
 淡いクリーム色の金糸を多くつかった見事なドレスはゆったりとしていて、それだけの身分があることを示していた。
 窓ガラスを叩くと、娘はようやく彼に気づいたらしく、顔をあげた。
「……だれ?」
 向けられた視線に、ルーファスは一瞬、呆けた。
 こども心ながら、美しいと思った。美しいという以外にことばがでなかった。
 青白い顔色は病人にように青白く、また窶れて見えたが、それでもこれまで見た人のなかで、最も美しく感じた。
 雨露に濡れて鮮やかさを際立たせるバラの花のように。
 儚げな姿は朧げに霞んでみえるようで、人ではない者のようだ。
 だが、恐ろしさは微塵も感じなかった。
 窓が開けられ対面すれば、陽の光に照らされた顔立ちはますます美しく、光の中に溶けてしまいそうだった。
 緩く結い上げられた髪は輝く黄金色。そして、泣いたせいで赤くはあったが、宝石のように輝く緑の瞳に、花の色をそのまま映したかのような薄紅色の唇が白い肌にいっそう際立つ。
「あなたは」
 見上げていた顔が同じ高さにまでおりてきた時、心臓は跳ね上がった。
 ふわり、と甘い花のよい匂いがした。
 花の精か、という考えが一瞬、心の中を過った。
「ルーファス・アルネスト・エスタリオ・ド・マジェストリア」
 名乗る声がすこし上ずってしまったのが恥ずかしかった。
「そなたはなにものだ。なぜ、泣いていた」
 誤魔化すように問えば、俯いたとも礼をしたともわからない様子で視線が地に落された。
「なぜここにいる」
 答えはなかった。
「だまっていてはわからない。こたえよ」
 居丈高に命じた。
 幼さゆえの無知と好奇心が、目の前にいる女性の哀しみに気遣うことを忘れさせていた。
 しばしの沈黙があって、叱るではない柔らかい声があった。
「このようなところをだれかに見つかりましたら、お叱りを受けることにもなりましょう。どうぞ、今のうちにお戻り下さいませ」
「いやだ。こたえるまで、ここにいる」
「……そのような我儘を申しなされますな。どうぞ、誰ぞに見咎められるより前にお行きくださいませ」
「いやだ。そちの名をもうせ。名乗らぬ者のいうことはきかぬ」
 頑として言い張った。
「こたえよ」
「名乗れば、すぐに立ち去っていただけますか?」
 その問いには、すぐには答えられなかった。
 できればもっと傍にいて、話してみたかったから。知りたかったから。
 落ちた沈黙の間に、遠くから自分を呼ぶ声をルーファスは聞いた。
 どこにいるかと探す声だ。
「さ、もうお行きなさいませ。皆が探しておりますよ。心配かけてはなりません」
「名をもうせ」
 せめて、それだけでも知りたい、と思った。
 近付いてくる声に、娘は困ったような表情を浮かべた。
「フェリスティアと申します」
「フェリスティア」
「さ、もうお行き下さいまし。もし、このようなところを見つかれば、ただではすみませぬ。どうぞお早く」
 急かされるように、肩に手がかかり軽く押された。
 どうやら、ここにいるのは、本当にいけないことらしい。
「では、フェリスティア、また来る」
 わかっている返事を待たずに、ルーファスは走ってその場を離れた。
「ああ、殿下、ここにおられましたか。探しましたぞ」
 部屋からすこし離れた庭先で、侍従にみつかった。
「あまりこちらの方には来られないよう、女王陛下よりお話がありましたでしょうに。また、お叱りをうけることになりますよ」
「うん、すまない。でも、なぜ、こっちに来てはいけないんだ? なにかあるのか?」
「それは、殿下のお知りになられるようなことでは御座いませんよ。さ、参りましょう」
 その言い方はあっさりしたものではあったが、よけいに好奇心が刺激された。
 フェリスティア、とその名を口の中で転がす。
 ルーファスには、フェリスティアが悪い者には見えなかった。だが、彼は会ってはいけない者らしい。
 その理由がまったくわからなかった。
 部屋に戻ってからも、彼女のことがルーファスの頭から離れなかった。
 これまでも多くの貴族の娘と会ったことがあるが、あんなに綺麗な娘に会ったことはなかった。
 一体、どんな事情があって、この王宮の、しかも、王族の使う部屋にいたのか。
 どこかの国の姫だとも思うが、だったら、ルーファスも知っていておかしくはないし、会ってはいけない道理はない。
 なぜ、誰からも隠すように置いているのか、彼にはどう考えてもわからなかった。
 たとえ、もし、説明を聞けたところで、六歳のこどもには理解できなかっただろう。
 それだけ込み入った事情があった。
 ただ、幸いだったのは、ルーファスがこどもにしては軽率ではなかったことだろう。
 だれかれ問わず、フェリスティアのことを訊く真似はしなかったし、会ったことを匂わせることばを洩らすこともしなかった。
 その代わり彼は、次の日から毎日、こっそりとフェリスティア本人に会いに行きはじめた。
 そのまま行っても追い返されることはわかっていたので、ハリネズミの庭師の息子にこっそり命じて、一輪のバラを切らせた。
 このことは誰にも言わないよう、口止めだけは、しっかりした。
 ハリネズミの息子は、針を逆立てて、何度も頷いた。
 そして、ルーファスはその花を手土産にフェリスティアに会いに行った。
「ここに来ては駄目だと申し上げたでしょう」
 やはり、困ったようにフェリスティアはルーファスに言った。
「また、誰ぞに知られたら、」
「だいじょうぶだ。きょうはだれもさがしには来ない。みんな、俺が剣術のけいこをしていると思っているからな」
 胸を張って答えると、またすこし赤くなった緑の瞳が瞠られた。
「稽古を抜け出して来られたのですか?」
「ちがう。けいこはこの後でちゃんとする。きょうはこれを持ってきた。受け取れ」
 黄色い大輪のバラを差し出した。
「まあ……なんて見事な」
「けさ、咲いたばかりのやつだ」
 手に押し付けるように渡した。
 戸惑うような表情が浮かんだ。
「……ありがとうございます」
「うん、ここからは花は見られないからな。これを見ていれば、さびしくはないだろう」
 フェリスティアが泣いていたのは、きっと淋しいからに違いない、とルーファスは考えていた。
「それで足りなければ、もっと持ってきてもいいぞ」
「……いえ、これだけで充分でございます。お心遣いありがとうございます」
「気にするな」
 と、見上げた顔が、また涙を浮かべているのに、ぎょっとした。
「どうした。どこかいたいのか?」
 おろおろして訊ねれば、「いいえ」、と首が横に振られた。
「いいえ、いいえ、ただ、嬉しいのでございます。殿下のお優しい心が嬉しくて、つい」
「うれしい? うれしくて泣いているのか?」
 口元に手をあてて泣く娘の様子に、ルーファスは首を傾げた。
「うれしいときには笑うものだろう」
 そう言えば、「そうですね」、と答えがあった。
「嬉しゅうございます、殿下。ありがとうございます」
 そう言って、涙はまだ残っていたが、フェリスティアははじめて微笑みをみせた。
 それは、手にしている花も霞むほどに美しく感じた。
 頬に熱が上るのをルーファスは感じて、顔を見られる前に慌てて踵を返した。
「じゃあ、もう行く。また来るからな」
 結局、なにも聞けず仕舞いだったが、微笑みをみせてくれたことだけで、なんとも落ち着かない沸き上がる嬉しさを感じた。
 その勢いだけで、稽古場まで走っていった。
 それから、ほぼ毎日、ルーファスはフェリスティアのもとに通った。
 一回の逢瀬の時は短く、六歳のこどもにしては小狡いと言われそうなほどに、彼も充分に注意を払っていたので誰にも気づかれることはなかった。




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