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 人と人の間にある距離を埋めることは容易ではない。
 一朝一夕とはいかないものがある。
 稀に容易くできる者もいるが、それは才能であり、経験値のなせる技だ。
 それが、人に命令することに慣れ、他者からは怖れられることの多い王子と、人付き合いの経験がほとんどない魔女見習いの娘との間では、マリアナ海溝ほどにも隔たりがある。
 もはや、亀裂と呼べるレベルではない。
 神秘に近い底知れぬ深さと、未知の生物が蠢いている気配もうようよ。
 が、それは目に見えない心での話だ。
 身体において等しく表されるものではなかったりする。
 そのはずだ。
 たぶん。


 かっぽ、かっぽ、かっぽ、かっぽ……

 シュリは、夕焼けに染まりはじめた空の下、帰路についていた。
 二度、壊されたテーブルは直す時間もなく、すべてが片付いたとき、ルーファスが弁償してくれることになった。
「ほかにもドレスでも宝石でも、なんでも欲しい物を取らせよう」
 そうも言った。
 なんとも豪気な言いようだ。
 つい十日ほど前には、殺すなどと脅していた同じ人物のことばとは思えない。
 そんなことよりも、なによりも。
 疑問なのは、この状況だ。
 身じろぎひとつできない。息をすることさえ躊躇われる。
 緊張と恐怖で全身がちがちに固まって、二度と身体が動かせないのではないかと思わせる。
 シュリは、来たとき同様にルーファスの馬に乗せてもらっている。
 だが、行きとは乗っている位置がちがう。
 来た時はルーファスの後ろだった。
 いまはルーファスの前だ。
 後ろにいる時には馬の背を跨いでいた脚は閉じられ、横座りの不安定な乗り方になっている。
 下手をすれば、転がり落ちてしまいそうだ。
 が、そうならないのは、腰をがっちりと固定するかのように巻き付くルーファスの片腕があるからだ。
 だから、当り前に、片手で馬を御している。
 そのせいか、馬の歩みも行きよりも若干ゆっくりめのように感じた。
 なぜ、こうなったのか?
 乗るときに、行きにはなかったルーファスの手が差し出されたからだ。
 そんな手助けはシュリには不要のものだったのだが、無視するわけにもいかずに握ったら、こういう乗り方になっていた。
 後ろでもなんの不都合もないどころか、そちらの方がどちらも安定して都合がよいはずなのに、なぜだろう?
 そんな問いさえ発することかなわず。
「怖ければしがみついてかまわないぞ」
 耳元に低い声が吹き付けられた。

 ぞくり!

 シュリの背筋に何とも言えない寒けのようなものが走る。
 いえいえいえいえいえ、とんでもない!
 声には出せず、小刻みに首を横に何度も振った。
 だいたい、この密着した状態でしがみついてどうなるのか。

 ――こわいよう。ししょお……

 得体のしれない恐怖が、シュリを嘖《さいな》む。
 なにが怖いのか、シュリ自身にもよくわからない。
 怒鳴られたわけでも、脅されているわけでもないのだが、兎に角、怖い。
 さきほどよりはルーファスの機嫌もよくなったようだが、なぜかこれまで以上に怖くて仕方がない。
 伝わる体温に息遣い。
 息が詰まりそうなのは、腰に回された腕の力のせいか。
 息苦しい。
 心臓まで締めつけられているようだ。
 思わず涙目になる。
 兎に角、機嫌がよかろうと、わるかろうと、ルーファスはシュリにとって心臓に悪い相手であるに違いないかった。
 ルーファスのシュリへの態度が変わったことには、彼女も気がついている。
 だが、なぜ急にこんなふうに変わったのか、がわからない。
 滝で彼女の顔を見た時の、あの驚きの表情。
 フェリスティア。
 シュリの顔を見て、そう呼んだ。
 人の、女性の名前だとは思うのだが、シュリには覚えのない名前だ。
 なぜ、シュリをその名で呼んだのか。
 何者なのか。
 気になりはするが、怖くて訊けない。
 取りあえずここは黙って、これ以上なにもなく無事に宮殿に戻れることだけを願っている。
 空の色を見ることもなく、ただ俯いて、過ぎていく森の景色の一部を眺め続ける。
 下草や、木の幹ばかりを見ながら、できるだけなにも考えないようにする。
 顔をあげれば、ルーファスの首もとから顎、口元がすぐ目の前にあることとか。
 なのに。
 耳元に、また息が吹きかけられた。
「寒くはないか」

 ぞくぞくぞくぞくっ!

 寒くはない。
 夕暮れの時間ではあるが、そんな季節ではない。
 が、続けざまに波打つ背中の動きを誤魔化すように、必死で首を横に振った。
 頼むから、耳元で話さないで欲しいと思う。
 声は聞こえているし、聞こえていないと思うのならば、声を大きくして普通に話してくれてよいのだ。
 普通の時も怖かったが、この怖さよりもまだマシだったような気がする。
 怒りっぽい人、で片づけられたから。
 だが、いまは得体がしれない。
 まるで、別人にも感じた。
 いつの間にかすり替わっていて、ルーファスの皮だけかぶって化けているような。

 ――ひょっとして、師匠が……

 彼になにかしたのかもしれない、と思いついた。
 シュリを驚かせようと、席を外している間にいたずらを仕掛けたかもしれない。
 ひょっとすると、いまのルーファスの背中には釦《ぼたん》がついていて、それを外すと中からうようよとしていて、でろんでろんのものが……

 ――ひゃあああああああああっ!!

 己の想像に、シュリは心の中で悲鳴を上げた。
「どうかしたのか?」
 また、耳元で問われて、シュリは小動物のように身を震わせた。
「あ、の、」
 うようよのでろんでろん。
「なんだ」
 頑張って訴えようとしたが、返されたひとことで、ことばが続かなくなる。

 ――こわいぃぃぃぃ!

「どうした?」
 大きく身震いがでた。
 途端、吹きだすように笑う声があった。
 堪えようにも堪えきれず出てしまう、というような笑い声だ。
 ルーファスは、もしくはルーファスに見える彼は、愉快そうに笑った。
 腰の締めつけが強まり、耳元だけでなく首筋の銀髪も息に揺れて、シュリはますます落ち着かない気分になる。
 大きく鳴る心臓の音が、ルーファスにまで聞こえているのではないのかと思う。
 とても不快な気分だ。
 すこしでも落ち着こうと息を潜め、身を強ばらせたままじっとしていた。
 と、目の前をひよひよと、花弁の形をした精霊が横切っていった。
 大概、季節が過ぎたはずだが、珍しいこともあるものだ。
「そうか」、と笑いながらルーファスが言った。
「おまえは、ろくに男どころか、人というものに接したことがなかったな」
 腰に回された手が僅かに緩められた。そして、ほんのすこしだけ身体が離されたのもわかった。
「さきほど、おまえの師匠と話して、幾つか考え直さなければならないことができた。呪いのことも含めてだ」
 笑うのをやめて、耳元に吹き付ける息もなくルーファスのことばが続いた。
「訊きたいのだが、おまえはドワーフに妙なことを訊ねていたな、埋蔵されている鉱石のことで。そして、あの呪いの本質にも辿り着いた。なぜ、そういう考えに至った」
 真面目な質問らしい。
 いつものルーファスに戻ったように感じた。
 答えるにはまだ落ち着かなくはあるが、答えないわけにはいかなかった。
 中身がうようよのでろんでろんであっても、疑いを持っていることを悟られる方が危険だ。
「……あれが、呪いでないことはお話ししましたよね」
 シュリは己の声のちいささを感じながら口にした。
 しかし、ああ、という相槌からルーファスの耳にはちゃんと届いているようだった。
「純金製の金だらいを見て思ったんです。どう考えても、どこからか運ばれてきたものではないらしいとなると、魔法によって作ったとしか思えなかったんです。元からない物は取り出せませんが、工程を経て作ることはできるかと。仕掛けとなる魔方陣を見付けて解読しないことには確証はありませんが」
「この地に鉱石があるかどうか、ドワーフたちに確認したというわけか」
 シュリは頷いた。
「人の書には、この国にそれほど鉱石があるようには書かれていなかったんですが、ドワーフさんたちなら、人では見付けるのに難しい場所のものでも掘り出せますから」
「そのようだな。明言はしなかったが、あの表情からして、それなりに埋蔵量があるようだった。きょうまで俺も知らなかったがな」
「だから、きっと、その鉱石から金だらいを作って術者に落す、という方法だと思ったんです」
「なるほど」
「でも、私の知っている魔法では、その全部はできないんです。鉱石をそのまま落すということぐらいまではできるんですが、鉱石を精製して金だらいを作る工程はできません」
「そうなのか?」
「はい。鉱石を地中から取り出して精製し、金だらいに形成したうえで、術者の上に移動させて落す。この一連の作業は、魔法で行うにはかなり繊細で複雑なものです。ほとんどの種類の精霊の力をあわせて使う必要があります。その上、術の威力や魔力の純度にあわせて、金だらいの質や大きさを変えるとまでなると、魔方陣を組むにしても、相当、気もつかうし、複雑なものです。それを全土に行き渡らせるとなると、魔女であっても、ひとりの力では無理です」
「おまえ達の魔法と人が使う魔法の両方の知識が必要というわけか。しかも、広範囲ということもあってザムディアック公の関与を導き出したと」
「はい、ロスタ大乱のときに魔女を見た人がいたという話を聞いて、それが師匠ではなかったかと。事実そうでした」
 ふむ、と考えるようにルーファスは相槌をうった。
「なぜ、おまえの師である魔女のためのものだとわかった?」
「それは……師匠だけとは限りませんけれど、こんなことをして、いちばん恩恵を受けるのが魔女だからです。ほかにも、魔力をもたない弱い人々のためにもなりましたけれど、『だれかのために』、と考えると魔女のためにって考えるのがいちばんしっくりくるんです」
「結局は、我ら一族――ディル・リィ=ロサの血筋の者のためでもあったが……呪いとするのが、ほかの貴族や民に言い訳とするに良かったからだろうな。我が祖ながら、よくやる」
 その声は怒りを感じさせないもので、呆れたような、逆に愉しんでいるかのようにシュリには聞こえた。
 ルーファスは言った。
「だからこそ、俺もおまえに会えたのだからな。その点は感謝すべきだろう」
 え、と問い返す間もなく、「開門」、といくつもの声を聞いた。
 話している内に、いつの間にか砦に到着していた。
 下ろされた跳ね橋を渡り門を潜ると、何人かの男たちがこちらに向かって走ってきた。
 馬から下りる時も、ルーファスから支えの手が差し出された。
 びくびくしながら手に取れば、ぽん、と軽く下ろされただけでなにもなかったことに、シュリは安心した。
 隙を見て、こっそりとルーファスの背中側をうかがい見た。
 釦はついていなかった。
 シュリは密かに眉をひそめた。
 だが、まだ疑いが晴れたわけではない。
 ひょっとしたら、服で隠されているだけかもしれないからだ。
 そして、うようよのぬろんぬろんが……

 ――ひっ!

 またぞろ脳裏に浮かんだ怖い妄想に、シュリはひとりで青くなった。
 息を切らしながら、早くなった心臓を抑えるように胸に手を当てた。
「留守中、なにかあったか」
 そんなシュリに気付いた様子もなくルーファスは傍に寄ってきた男のひとりに確認をとった。すると、
「王宮のカミーユ・ガレサンドロ殿より一件、伝言を承っております。『本日、シャスマール国レディン姫が国入りされたとの報せあり。一週間後に王宮へ到着予定。寄り道せずにさっさと王宮へ戻られたし』、だそうです」
「……なんだと」
 一瞬で、ルーファスの身体から怒りの炎が立ち上った。
 反射的にシュリは後退りした。
 彼女だけでなく、周囲からも、ざっ、と地面をする音がはっきりと響いた。
 猛獣注意。危険!
 赤い矢印がルーファスを指し示し、でかでかとした黄色いステッカーが宙に浮かんで見える気がする。
 この怒り方は、本物のルーファスならではの怒りだ。
 が、それはすぐに消えた。と言うより、見えなくなった。

 ぎゅう。

 気がつけば、シュリはルーファスの腕の中にいた。
 ぎゅう、とハグには強すぎる力で抱き締められていた。
 ほんの一瞬だけのことではあったが。
「よし」、とシュリから手を放したルーファスは、ぽんぽん、と彼女の背中を軽く叩くと言った。
「落ち着いた」

 は?

 いったい、なんなのか。
 どういうことなのか、呆気にとられるばかりで、シュリにはさっぱりわからない。
 だが、ことば通り、目の前のルーファスからはすでに怒りのオーラは消えている。
 報告をした男が、驚きの中に微かな恐怖の表情を浮かべて彼女をみていた。
 その男だけでなく、ほら、あちらからも、こちらからも。
 皆、シュリ達を凝視している。中には、強ばったまま引き付けを起こしているかのような者もいる。
 そんな視線を気にする様子もなく、怒りをおさめたルーファスは言った。
「別命あるまで通常通りの任務に就け。俺はこのまま王宮に戻る。馬を」
「はっ!」
「はいっ!」
 出された命令に弾かれたように、周囲にいた男たちが一斉に動き始めた。
「行くぞ」
 シュリの背が、ふんわりと柔らかく押された。
 促しに従って彼女も歩きはじめるが、ぎくしゃくとしたものになった。右手と右足が同時に出そうになる。
 唸り声をあげる風の音や、激しく降る雨音を聞いてざわつく心に似た感じをシュリは受ける。
 じわじわと侵食するかのように広がる怯えは、周囲の者にも伝染していく。

 いったい、なにがあったのか。
 いったい、なにが起きているのか。

 あのルーファス王子が!
 誰だかわからないが、女を連れている。しかも、これまで前を歩きこそすれ、横に置くなどありえなかった。なのに、肩まで抱いてのエスコートだ。

 ――有り得ないっ!!
 ――彼女はいったい何者だっ!?
 ――なんで髪で顔を隠してるんだ!?
 ――明日は嵐かっ!?

 もはや、事件を通り越して、オカルト扱い。
 ミステリーゾーン。未知との遭遇。
 その証拠に、ちらり、ちらり、と彼女たちに視線を向ける砦の人々の表情は、生き返った死人を見るかのごとく。
 恐怖に硬直し、我に返って眼を背けると、そそくさとさりげなく逃げていく。
 人はわからないことにこそ恐怖を感じるものだ。
 たとえわかっていたとしても、だれもシュリに教えたりはしないだろう。
 ホラー映画に出てくる少女のように、わざわざ危険な方へ行く者などいない。
 しかも、その危険がどういうものかわかっているならば、尚更のこと。
 だれも現実に、フレディとかジェイソンに会いたいわけではない。
 馬に蹴られるよりも先に、その隣に立つ男に冥土送りにされるかもしれない危険をあえて冒す理由はない。
 せいぜい出来て、生あたたかい眼で見守ることぐらいだ。

 ――がんばれよ……

 ひとりが呟いた心の声は、だれに向けられたものか。
 だが、あくまでも心の中。
 それを必要とする相手に伝わることはない。

 ――こわいよう……

 シュリの底知れぬ不安と恐怖は、まだまだ続きそうだ。
 うようよでぬろんぬろんのでろんでろんと共に。




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