いったい、なにがあったのか。
いったい、なにが起きているのか。
さっぱり、わからない。
理解不能だ。
たとえそれが、己の身に起きていることでも。
なにが、と問われれば、ただひとつ。
ルーファスが、だ。
ルーファスの考えていることが、と言い直してもいい。
昨日の出来事が頭から離れず、シュリはよく眠れない夜をすごした。
ふかふかの枕にしがみつき、戯れに叩き、微睡んではすぐに覚醒する。
おかげで睡眠不足だ。
そして、目覚めてみれば、悪夢のようにまだそれはつづいていた。
なぜ、朝から花や菓子が贈られたのか。
なぜ、全身の採寸をされなければいけなかったのか。
どう考えてもわからなさすぎて……怖い。
花はとても綺麗そうだったが、直視できなかった。
お菓子もとても美味しそうだったが、手を伸ばす気になれなかった。
もし、見て綺麗だとひとことでも口にしたら、食べて美味しいと言ってしまったら、もっと怖いことになりそうで唇が凍りついた。
採寸はやはり嫌だったが、断っても言うことをきいてもらえず、半ば押さえつけられるようにして測られた。
横からキルディバランド夫人に宥められつつ。
ドレスは必要だし、せっかくの王子にご好意なのだから、逆らうよりは、云々。
綺麗なドレスは嬉しいが、その王子が問題だ。
そうまでしてもらえる理由がシュリにはわからない。
しかも、唐突に。
いったい、なにがあったのか。
いったい、なにが起きているのか。
そして、いまのこの状況。
把握できないまでも、防衛本能は働く。
シュリはじっとりと汗の滲んだ手を、ぎゅっと握り締める。
じりじりとした気持ちに合わせて足をいざらせる。
ほんの僅か。
ミリ単位で。
気付かれないように。
じりじりじりじり……
――ひっ!
ぴたっ、と腰に当てられた感触にシュリは動きを止めた。
手は動かずして、横にずずいと一足で強制的に元の位置まで引き摺り戻された。
数分かけた苦労も水の泡。
そして、逃げるなと言わんばかりに、腰に添えられた手はそのまま居座り続ける。
ひーん……
シュリは胸中で、何度かめの泣き声をあげた。
他人とぴったり密着した状態は、スキンシップというものに縁遠くあった彼女にとって、慣れないどころか、居心地が悪すぎる。
気になって落ち着かず、話に集中もできない。
だから、先ほどからさりげなく距離を取ろうとしているのだが、隣に立つルーファスはそれを許してはくれない。
この密かな攻防が、ずっと繰返されている。
縋る思いで、そう答える机を挟んで斜め向かいにいるマーカスを見れば、ふ、と視線が外された。
見てみぬ振り。
もうひとりのタトル氏は、シュリのこの状態に気付いているのか気付いていないのか、我関せずを貫いている。
助けは当てにできない。
つまり、シュリは孤立無援だ。
ひとり必死に戦っている。いまのところ連敗だが。
ルーファスは、視線を外していても彼女の動きをはっきりと認識しているようだった。
「では、記録からいってもあの方陣を元にして転移用としたと考えるのが妥当か」
その人が、素知らぬ声で言った。
「はい、実際、あの方陣ので一部で使われている文字は神代期の文字、神代文字と呼ばれるもので、通常の魔方陣で使われる古代文字よりもさらに古いものであり、解読不能とされてきました。これまでも何人もの研究者が解読を進めてきましたが、資料もすくなく読み解けるものではありませんでした。ただ、読めずとも、転移の作用に大きく影響しているということだけはわかっています。しかし、今回のシュリさんの話から、魔女のみが解読可能な文字であることが判明し、よって、精霊に直接働き掛ける作用があるものと判断できます」
マーカスは、ルーファスを見て答えた。
が、その視線は、ひたとして動かず、わざとシュリを視界にいれないようにしているようにも見える。
当然と言えばそうだろう。
上司のセクハラを――本人は、口説いているつもりだが――面と向かって真面目に、セクハラと指さして言う部下はまずいない。
まずは保身を図るのが暗黙の了解であり、宮仕えの鉄則ルールだ。
そのせいで、「なにが、どこがセクハラなのかわからない」、と言う男が減らないのも事実。
不幸中の幸いと言えば、ルーファスが妻帯者でないことと、態度はどうあれ、本気であることぐらいか。
だが、シュリは、そんなことは知らない。
くどいようだが、世間知らずだから。
お悩み相談室があったとしても、存在すら知らないから、駆け込むこともしないだろう。
ただ、なんともいえない行為と、ルーファスの真意がわかりかねて怯えるばかりだ。
そんな彼女の目の前をふわふわと横切っていく精霊が一匹、いや、二匹……いやいや、三匹。
いまならば、まじないするにも捕り放題だ。
赤い色をした、バラの花弁にも似た姿をした精霊。
この精霊は、他の精霊と違い、個体により色違いになるだけで姿はほとんど変わらない。
どの精霊にも所属し、所属しないとも言える。というのも、ふたつの違う種類の精霊がくっついてこの姿になる。
そして、ある特殊な条件下で発生する。
森では、大抵、季節が定まっていた。
冬の終り、微かに春の匂いがしはじめた頃から、日中も火の暖が必要にならなくなる頃まで。
だから、よけいにわからない。
「シュリ」、と低い声で呼ばれた。
名を呼ばれるようになったのも変化のひとつだ。
その声は、どこか甘い。
ついでに、腰にあった手が動いて、するり、と彼女の髪と背を撫でた。
「はひっ!」
返事する声が裏返った。
「おまえは読めないのか」
「えっと……はい」
書庫に来る前に寄ったそこで、じっくりと魔方陣を見た。
かなり複雑な構成のもので、シュリの知識をもってしても、短時間で全体を把握できるものではなかった。
ただ、その外縁にあたる部分に書かれた文様にも似た文字は、彼女にも見覚えのあるものだった。
「教わってはいないのか」
「……はい」
「だが、魔女になれば解読できるということか」
「……たぶん」
「でも、魔方陣は使うんだよね?」
マーカスが、やっとシュリを見た。いや、微妙に焦点は顔の斜め上か。
「はい。師匠から教わった形や使い方は覚えています。でも、文字は読めませんし、意味まではわからないんです。師匠は、『魔女になれば自然と読めるようになる』と教えられました」
シュリの背中から、手が離れた。
とたん涼しくなった。
シュリは隣りに気付かれないよう、密かにほっと息をつく。
横目でルーファスを伺えば、鋭角的な横顔が難しい表情を浮かべていた。
タトル氏がのほほんとした口調で発言する。
「と、すると、神代文字とは呼んでおりますが、精霊にのみ伝わる独自の言語かもしれませんな。昨日の殿下のお話からして、ディル・リィ=ロサ王女が半精霊のような存在であったことが本当だとすると、王女があの魔方陣の構成に関っていることは間違いないと言えましょう」
「だろうな」、とルーファスも頷いた。
「地図からしても、転移用魔方陣がある砦の位置は、途中、改築改修は行われているにしても、十二箇所ともその頃から変わってはいない。国内の要所として適確な位置に建てられているから、移転させる必要もなかったわけだ。そして、呪いの魔方陣は延々と受け継がれてきたことになる。マーカス、」
「はい」
「転移用の陣自体が呪いに作用していると見ていいか」
「砦内にほかにそれらしい魔方陣が新たに見つからない限りは、その可能性は高いかと思われます」
「呪いを解いたとすれば、こんどは転移が使えなくなるというわけか」
「おそらくは」
そろそろと逃げていたシュリの肩が、また、がっしりと捕えられた。
うう、と出そうになるくぐもった呻き声がかみ殺された。
突破口は依然と見えず。
しかし、そんなことをよそに、会話はつづく。
「転移が可能になったのは、約百二十年ほど前と聞いている。可能にした研究者は呪いの作用を知った上で、上書きをしたのか。タトル、おまえはその頃からいたのだろう。どうだったか覚えているか」
「はあ、この宮殿に仕えさせていただいて二百年ほどになりますが、その間、一瞬で場所を移動できないか研究する者は何人かおりましたな。実用化したのはディムダムルという研究者で、仕えて以来、ずっとその研究を行っていたと記憶しております。探せば記録も残っているでしょう。が、それ以前にも人はだめでも物ならば、転移はできていたように記憶しております。具体的にどうであるかまでは存じませんが、それまで人を転移させることだけがどうしてもできなかったと言っていたかと思います」
「そうなんですか?」
マーカスが意外そうに問う。
「確かそうではなかったかと。私が仕えはじめた頃には、すでに国内の連絡用に使われていたような。それからさらに改良が進められ、国外にも使われ始めたのは、約六十年ほど前と記憶しております」
と、タトル氏は答えた。
「ええ、じゃあ、すくなくとも二百年前も、理屈はわからなくても使われていたってことですか」
「そうなりますな。理屈はわからずとも、便利というだけで使うに値するものでしょうしな」
「或いは、それも目眩しとしたディル・リィ=ロサとザムディアック公の計略か。もし、そうならば、我が祖先ながら実に食えん。周囲の者たちはさぞかし迷惑だったろう」
舌を鳴らすようにルーファスが答えた。
おまえが言うか!?
と、シュリが言えるわけはない。
できることと言えば、なんとかさりげなく掴まれる肩を振りほどいて今いる位置を移動できないものか、と視線を左右にさまよわせるぐらいのものだ。
理想としては、机を挟んだ向こうのマーカスの隣あたりがよい。
「その時の資料はあるか」
ルーファスの問いにタトル氏は首肯した。
「お持ちしましょう」
チャンスだ!
「おてつだいします」
シュリはすかさず言って、タトル氏についてその場を離れようとした。
まてまて。
彼女の肩を抱いた手は、びくともしなかった。
「行く必要はない」
「あ、でも、早いほうが」
「ここにいろ」
さして強制力のある言い方ではないのに、足が止まってしまうのはどうしてなのか。
「大丈夫ですよ。慣れておりますからな。それに近い場所にありますから」
ほっ、ほっ、ほっ。
タトル氏は笑いながら、悠然とした足取りで離れていった。
ああ、うう……
恨みがましくも、シュリは甲羅の形が浮き上がった背を見送った。