50
シュリが連れていかれた場所は、庭園の一角。
小奇麗な四阿《あずまや》だった。
静かだが、鳥の鳴き声や小川のせせらぎの音が聞こえてくる。
トレスに這う蔦バラがちょうどよい影を作り、心地よいほどの風も通してくれる。
とても落ち着く場所だった。
ひとりだったならば。
だが、いまはそんな気持ちの余裕は皆無。
シュリはこれから話されるだろう内容に戦々恐々としながら、棒立ちのまま待ち構えた。
そんな彼女にルーファスは苦笑しながら、設えられたベンチに座るように勧めた。
「なにもしない。話すだけだ。悲鳴さえあげればだれかが飛んでやって来る場所だ。安心するといい」
嘘を言っているようにはみえなかった。
シュリは言われた通りに、おとなしくベンチに腰かけた。
ルーファスは、彼女から三歩ぶんの距離をおいた場所に立ったままだった。
そして、「おまえは」、と穏やかな口調で問う。
「おまえは、まだ魔女になりたいか」
どうして、ルーファスは、いつも簡単に答えられない質問ばかりをしてくるのだろうか。
シュリがすぐに答えることもできず黙って俯いていると、鳥が鳴いて間を埋めてくれた。
視界を遮る銀の髪が目の前に揺れているのを、シュリは目を凝らして見つめた。
口の形が勝手にゆがんでいるのを感じた。
きっと、いまの自分はとても変な顔をしているだろう、と密かに思った。
「魔女になったとしても、その時にはそれを望んだおまえではない」
責めるでも、いさめるでもない低い声を聞いた。
「わかっています」
シュリは答えた。
それくらい、彼女にも理解できている。
シュリの魂が消えて、空になったこの身が精霊の器になるということだ。
だが、それは実感のともなわない表面上の知識だけのこと。
シュリは人であった頃の師匠を知らない。
師匠は師匠だ。
ほかのだれでもない。
実は師匠と同じ顔の別人がいた、と言われても、ぴん、とこない。
だから、自分が自分でなくなる、ということもよくわからない。
ただ漠然と、こうして考えている自分がいなくなるのだろうな、ぐらいだ。
死のイメージは遠く、ほとんどないに等しい。
それよりも、『魔女になる』という目標を失ってしまったら、この先、どうすればよいのかシュリにはわからない。
エンゾは、『魔女になれなくても、シュリさんはシュリさんだろ』、と言ってくれたが、実際、目の前にしてしまうと、想像していた以上に欠けるものの大きさに、呆然としてしまってもいた。
「正直、俺にもそれがどういうことかよくわからん」
思いがけず、ルーファスは言った。
「だが、わかるのは、同じ姿をしていてもおまえではなくなるし、それを俺は許せないと思っている。他のだれもそんなことは望みはしないだろう」
本当に意外だった。
「……なぜですか? あなたには関係のないことでしょう?」
「関係はある。なぜなら、おまえのことをおまえの母親から頼まれたからな」
「ははおや?」
「言っておくが、樹に頼まれたわけではないぞ。正真正銘、おまえを産んだ母親だ」
「え?」
驚いた。
寝耳に水とはこのことだろう。
そんなものがいたのか、とシュリは実感もなく、頭の中でぼんやりと思う。
顔をあげた彼女を見て、ルーファスは苦く微笑んだ。
「いまからその話をしてやろう。おまえの母親がどこの何者であるか。そして、おまえと俺の縁を教えてやろう」
そして、シュリは自分が何者であるかを知った。
*
それで、と訊ねる側近を、執務室に戻ったばかりのルーファスは椅子から斜め上に見上げた。
「姫君のご様子はいかがでしたか」
「心ここにあらず、といった感じだったな」
話が終ってからのシュリは、立ちあがることすらおぼつかない様子だった。
返事もままならないあまりの頼りなげな雰囲気に、思わずよからぬ気持ちになってしまったのは内緒だ。
身体を支える言い訳に、ほんのすこしハグをする程度でおさえこんだ。
当然、部屋へ送っていくまでの間も、ずっと肩を抱いていた。
表情を愛でれないのが残念だが、見れば歯止めがきくか自信もない。
それに、他の者に見せるのも危険だ。
政治的な意味あいでというよりも、個人的感情の上で。
よって、当分はこのままで。
シュリが彼の傍に近付きたがっていないことは、ルーファスもわかっている。だが、いまのところは、仕方ないだろうと冷静にとらえていた。
出会いからの経緯とシュリのこれまでの生活環境を思えば、当然の反応だろうと。
嫌っているというよりも、慣れないことへの戸惑いの割合が多い印象だ、と。
つまり、そこから導かれる結論は、『まったく望みがないわけではない』。
というより、産まれてこのかた眠ったままだろう女の本能に繋がるスイッチさえ入れば、あとはなんとでもなると考えていた。
人はえてして、己に都合よくものを考えがちである。
しかも、恋愛に目が眩んでいれば尚更、拍車がかかる。
しかし、そのスイッチを入れるのが一朝一夕にはいかず、塩梅もむずかしい。
焦らされているようで苛つきもするし、ともすると激情――その場で押し倒したくなる本能に任せそうにもなるが、ぐっと堪える。
両足を地にはりつけて、踏ん張るように。
表面上は、ひとかけらの欲望もないような顔をして。
だが、好意は隠すことなく。
そうして、彼の存在にゆっくりじっくり慣らしながら、最大限の時間をかけておとす。
自らほかの選択肢を捨て、彼のもとに留まることを選ぶぐらいまで。
怖れからではなく、欲望に瞳を潤ませるほどまで。
我慢、がまん。
忍耐、にんたい。
辛抱、しんぼう。
呪文のように唱えて、ルーファスは己を律する。
それはどんな苦行にも増して、精神的に厳しい。
敵は身中にあり。
しかし、手間をかけて手に入れることができた時の感慨はどれほどのものかと想像しながら、耐え忍んだ。
最終的な目的地を思い描きながら。
恋愛という名の底なし沼を。
――腕の中で微笑み、甘えてくるシュリは、さぞかし心をとろかすほどに美しく、可愛い女になっているに違いない。
そうなった時には、可能なかぎり甘やかし倒して、心ゆくまで愛でてやろう。
望むままに、望まれるままに、あのたおやかな身体を腕の中に収め、昼夜問わず、愛しむのだ。
白く滑らかだろう全身にキスの雨を降らし、楽器のように歓喜の声を絶え間なく奏でさせよう……
ルーファスは思わず緩みそうになる表情筋をかたく引き締め、内心でほくそ笑んだ。
ここまでくれば、もはや、蜘蛛の巣レベルではない。
水を呑みにやってくる獲物を水中で待ち構えるワニ、否、巨大アナコンダかもしれない。
足の向きも定まらない子鹿など、ひとたび捕まえれば、ごっくん、ひとのみだ。
だが、ワニであれ、アナコンダであれ、野生の本能に従っているまで。
そこに罪悪感などない。
この男も然り。
そんな心情を知ってか知らずか、カミーユは変わらぬ淡々とした表情をルーファスに向けて答えた。
「無理もないですね。樹の股の間から、いきなり女の股の間ですから」
「そういう例えか?」
「魔女見習いだったのが一国の王女、というよりは実感を伴いませんか」
「……それはおまえだけだと思うが」
ルーファスは呆れながら、平気で『股の間』と口にしながら上品さを保つ女に言った。
「しかし、気持ちがすぐに切り替わるわけではないだろうが、すこしは魔女になることを諦めるための要素になればよいがな」
「ずいぶんとお優しいですね」
籠められたからかいの匂いに、ルーファスは、むっ、と眉根を寄せた。
「当り前だ。妻になる女だぞ」
すでに確定事項扱い。
カミーユは仄かな苦笑をその顔に浮かべた。
「そのお優しさをほかの者にも多少なりとも向けて頂ければ、私ももう少し立ち回り易くもなるのですが」
「冗談を言うな。おまえを自由に動き回らせれば、事態はよくなるどころか混乱する。そんなことにするぐらいなら、野生のトラを飼いならす方がよほど安全だし、容易かろう」
「たしかに野生のトラよりは、使える者と自負しておりますよ」
「口の減らない。せめてトラ並みの可愛げを備えて欲しいものだがな」
「それこそ、ご冗談を。可愛げを求める方はおひとりで充分でらっしゃるでしょうに」
そう答えて、くすくすと笑う。
「しかし、それだけ言い返せる余裕をもてるようになったのは、よう御座いました。姫君のお陰ですね」
「そう思うならば、苛めるな。弄ぶのも許さん」
「おや、それは残念」
「残念なのは、そんなことではない。計画に大幅な軌道修正が必要になった。シャスマールを退けるための」
ルーファスが浮かべた鋭い表情に、カミーユも表情を消した。
「伺いましょう」
ワニ対トラ。
顔を突き合わせて、相談をはじめる。
気が合うかどうかは別にしても、この二匹の間で会話は成立するようだ。
すくなくとも、宮殿の狐狸の中にあっては最強の部類に属するに違いない。
話し合いののちに出てくるのは、なんだろう。
鬼がでるか、蛇がでるか。
……やはり、巨大アナコンダかもしれない。
*
その頃、シュリという名の憐れな子鹿は、夕暮れが近くなった部屋でひとり椅子の上にへたりこんでいた。
本当は床の上でもよかったのだが、戻るなりのよろけっぷりに見兼ねたキルディバランド夫人が椅子に連れていったためだ。
その夫人は、「ひとりになりたい」とやっと言えたひと言に、部屋を退出している。
だから、シュリは部屋にひとりきりだ。
たとえ他の者がいたとしても、状況は変わらなかっただろうけれど。
ああ、うう……
繰り返し出てくるのは、呻き声だけだ。
頭はもげそうなぐらいにふらふらとして、眩暈がする。
仕方がない。
十八年間、培ってきた価値観がすべて覆されてしまったのだから。
なにがなんだかわからないところにもってきて、この仕打ち。
茫然自失という以上に、アイデンティティの崩壊だ。
ゲシュタルト崩壊と言ってもよいかもしれない。
『わたしがお姫さま? うそ? ホント? きゃっ、素敵!』
そう言えたら、どれだけよかったことか。
だが、生憎と、シュリはそんな性格ではなかった。
「おかあさん……」
実感もなく、呟く。
だが、脳内に浮かんだのは、一本の樹。
逞しい幹と豊かに美しい葉を繁らせる。
風にゆれては、さわさわと心地よい音をたてる。
かえっておいで……
手招きではなく枝を振りながら、そんな幻聴まで聞こえてきそうな。
だが、ちがうのだ。
シュリの本当の母親は、正真正銘、人間だった。
当王家とも連なる大貴族の令嬢だったと、薄くはあるが自分とも血の繋がる親戚だとルーファスは言った。
しかも、クラディオン国の妃で、シュリはそのこども。
だから、必然的にクラディオン国の女王である、と。
草一本はえていない荒野であっても。
「だから、おまえの身はこの先、我が王家が責任をもって預かる。この先、なにも心配することはない。なに不自由なく、すべてにおいて便宜を図ろう。安心してここにいれば良い」
そうルーファスは、優しいほどの口調で言った。
「おまえのことは、必ず俺が守ってやる。おまえを害そうとする者すべてから」
と、言われたところで、はい、と頷けなかった。
現実として、これまでだれかに害されるなんて経験をシュリはしたことがない。
森で暮らして、ときどき動物に脅かされて怖い思いをしたことはあるが、自分の力でなんとかなったし、一過性のことだった。
被害という意味で言えば、この状況が最たるものだ。
ルーファスから受けるものがいちばん。
被害を与えた者に守ると言われて、いったいなにから守るというのか?
というより、あまりの衝撃に、話が右の耳の穴から左の耳に通り抜けていた状態。
相変わらず、頭ではわかっても、理解できない。
『血の繋がり』と言われても、そんなものと無縁に暮らしてきたシュリには重要性がわからない。
どうすればいいのか。
どうしたらよいのか。
これまでも、そう思ったことはなんどもあった。
だが、ここまで途方に暮れた経験は、シュリにとってはじめてだ。
「師匠ぉ」
頼りになるその人は、いまどこでなにをしているのだろうか。
それからどれだけの時間、ぼんやりしていたのか。
扉の開閉する音に、シュリは我に返った。
ふ、と見ると、夕暮れのオレンジ色に染まった室内の片隅に、ひとりの人影があった。
「あれ?」、とその人もシュリを見て言った。
だれもいないと思って入ってきたらしい雰囲気だった。
そして、シーッ、と唇に一本の指をたてて笑って見せた。
壁の向こうの廊下で、人が移動していく足音が微かに響いて聞こえた。
その音が聞こえなくなるまで、その人は動かなかった。
シュリもじっとして黙っていた。
騒がなかったのは、悪い人には見えなかったからだ。
だれだろう、どうしたんだろう、と様子をうかがう。
と、なにも物音が聞こえなくなったところで、シュリに近付いてきた。
ぽよん、ぽよん、とした足取りで。
いや、そんなふうに丸く出た腹を揺らしながら。
ドレイファス・エンタリオ・ビステリア・ド・マジェストリア国王陛下。
現在、ビストリア王妃指導による教育プログラムより逃亡中。