カミーユは呆れながら溜息をついた。
「もうすこし学習能力と理解力を備えておられるかと思っておりましたが、どうやら私は、貴方のことをすこし買いかぶっていたようです」
告げる相手、ルーファスは言い返すこともせず、むっつりと黙ったままだ。
頬杖をついて目を逸らし、彼女の顔を見ようともしない。
「単に人慣れしていないというだけでなく、妖精族の血が濃くでているということがどういうことか、貴方はわかっておられない。怒鳴りつけただけで気を失ったのです。目の前で大声あげて争えばどうなるかぐらい予想がつくでしょうに。妖精族がそれだけ繊細な種族だったということは、文献を紐解けばすぐにわかることですよ」
カミーユが、ルーファスがシュリを間にはさんで国王と喧嘩していると聞きつけて行ってみれば、昏倒したシュリのベッドの傍らで、情けなくもなにもできずに見守るだけの主の姿だった。
シュリは気絶しただけでなく、高熱を発したそうだ。
医師の診断は、心労による発熱。
カミーユは、すぐに仕事を理由にルーファスを執務室まで連れ帰った。
因みに陛下の方は、女王陛下の命のもと、教育係に強制連行されていったらしい。
今頃、さらに厳しい指導を受けて泣き声をあげているにちがいない。
得てして男というものは世話がかかるものだが、面白くも度し難いところがある。
それにしても、とふてくされたルーファスの顔を見て、カミーユは思う。
まるで、気に入りの玩具をこわして拗ねたこどものような顔だ、と。
彼にしてもシュリの性質がわかっていても、長年、思い続けてきたぶん、気持ちが先走るのだろう。
余裕があるように見えて、実は、からからに空回り。
もともと自分勝手な性質なうえに、王子という身分上、これまで他人に気遣う必要がなかったこともある。
その彼と繊細の塊のような妖精族との相性は、最悪の組み合せとも感じる。
だが、なにせ、しつこく二十年近くも想い続けた相手だ。
死んだと言われていたにもかかわらず、頑として信じようとせず、ひたすら探し続けた。
その上で、やっと見付けた相手だ。
ルーファスに諦める気はないだろうし、彼女としても諦めてもらっては困る。
シュリには迷惑だろうが、それこそ、生まれの不幸を恨んでもらうしかない。
「とりあえず」、とカミーユは執務机の上に積み上げた書類を指して言った。
「百枚ほどありますから、これぜんぶに目を通して、承認のサインをおねがいします。その間、私がシュリさまの様子を見に行ってまいりますので」
「おまえが行っても意味がないだろう」
やっと口を開けば、嫉みだ。
どうやら、シュリを気絶させてしまった失敗のうえに、引き離されたことに拗ねたらしいとカミーユも気がついた。
まったく、処置なし!
両手を腰に当て、カミーユは鼻からいきおいよく息を噴き出した。
「貴方がいらっしゃるよりはましです。一応は、貴方のしでかしたことのお詫びせねばなりませんし、それに、まだ例の件についてお訊ねにもなってらっしゃらないでしょう?」
すると、逆に鼻が鳴らされ、さらにそっぽを向かれた。
「兎に角、しばらくここでおとなしくしていてください。様子を見て、お会いになられても大丈夫なようでしたら、お呼び致しますので」
「腹立ち紛れに、また机を壊さないでくださいね」、と言い付けて執務室を出た。
廊下を足早に進む。
そして、周囲を見回し、衛兵もだれの姿もなくなったところで、カミーユは柱の影に隠れ、口に手を当てた。
途端、頬が緩み、止められなくなった。
出てしまいそうになる声を抑えながら、カミーユは笑った。
肩を震わせ、呼吸困難に陥りながら笑った。
咽喉と腹が痛くなった。
それでも、まだ、笑い声は口をついて出てくる。
さながら炭酸水の泡のように、次から次へと噴き出してくる。
こんなに笑えたのは何年ぶりか。いや、十数年ぶりかもしれない。
おそらく、自分の執務室であれば、大声をあげて笑っていただろう。
それはそれで、ジュリアスに変な眼で見られるだろうが。
それほどまでに、彼女にとってはおかしかったのだ。
ルーファスの態度が。
――面白すぎる!
癖になってしまいそうだ、と感じる。
よもや、主のこれほどまでに幼い態度や表情を見れる機会が来ようとは、彼女にしても予想もしていなかったことだ。
あの、ルーファスが!
あの、傲岸不遜を絵に描いたような彼女の主が!
いつも自信満々で、人の意見も道理も無視して力でねじ伏せるようなあの男が!
たったひとりのウブな小娘にここまで翻弄されるなんて!
カミーユの知るルーファスは、女性にかけてももうすこし器用であったように思う。
なんだかんだ言いながら、遊女たちや通りすがりに会った女をその気にさせる術は持っている。
甘いことばのひとつやふたつ、その気にならずとも吐ける筈だ。
現に、一度ならず関係を続けることを望む女はいたし、彼女もその後始末の始終を知っている。
その中には、誰にも靡かないことで有名な国一番と言われる娼婦もいた。
おかげで、一部その筋の者たちには、語り草になっているぐらいだ。
狙いを定めれば、一直線。
脇目も振らない。
それこそケダモノの真骨頂とも言える。
そんな風なのだから、女性に関してここまで思い通りにならなかったことなどほとんどなかっただろう。
それこそ、フェリスティア妃以来ではないだろうか。
そのフェリスティア妃でさえ、男として見れる年頃ではなかったというだけで、心は動かされた。
だからこそ、その身を犠牲にしてまで守ったのだ。
ルーファスがいるこの国を。
カミーユにとって、彼の妃の記憶は、幼かった故に遠く朧げだ。
事情を知った今ならば、それなりに思うところはあるが、泣き顔ばかりが思い出される。
現実として、密かにマジェストリアへ逃亡を図った時の馬車の中、弱々しくも抱き締められ、彼女へ謝罪することばを繰返していた光景しか思い出せない。
強さや勇気とは無縁の存在に感じた。
とても美しく、優しくはあったが、あまりにも儚げで頼りなく、子供心ながら、大丈夫なのかと心配してしまったほどだ。
母の方が強く、厳しかったように思う。
『貴方がフェリスティアさまをお守りするのですよ。そして、なにがあろうと、子爵家の名に恥じぬよう誇りを忘れず、堂々と振る舞いなさい』
それが、母の別れのことばだった。
遺言と言ってもいいだろう。
父に引き離されながら泣いてしがみつこうとする彼女に手を差し伸べることもなく、毅然と見下ろした表情が忘れられない。
寡黙だったのだろう父は、ことばを残すことはしなかった。
ただ、彼女と同じ茶色の瞳の色と、撫でてくれた肉厚の掌の感触だけを覚えている。
その時の彼女自身、自分の身になにが起きているのかも、なにが起きているかも理解できていなかった。
マジェストリアに着いてからも、母と父になぜ会えないのか、離れていなければならないのか、不思議で仕方なかった。
ひとり取り残されたと気付いた一時は、両親を恨みもした。
しかし、成人したいまでは、その父や母の面影さえもぼんやりとしたものでしかなく、その選択が人として敬うものであったと理解するのみだ。
結局、フェリスティア妃については守るもなにもできなかったが、後のことばは、常に胸の中にある。
彼女にとっての両親は、恋しいと思うよりも、己を保つ拠り所としての存在となっている。
ときどき手元に残されたちいさな肖像画で記憶を補完しては、偲ぶ。
カミーユが大まかながら、なにがあったか理解できるようになったのは、十歳を過ぎてからだった。
頃合いを見計らっていたルーファスから、詳細を聞いた。
彼との出会いは、ガレサンドロ家に引取られて間もなくだったと思う。
王子がご学友を求めているということで、白羽の矢があたったという名目だったらしい。
だが、実際のところ、年下の異性である彼女よりも学友に相応しい者は何人もいた。
その点については、ルーファスも頭を悩ませたらしい。
それで、『妹が欲しい』、と駄々を捏ねるという方法をとった、と後から聞いた。
「弟はもういるからいらない。妹がほしい。あまりちいさすぎてもだめだ。ちゃんとなにを言っているかわかるくらいの年で、髪の色は金色がいい。暗い色は見飽きているからな。見た目はもちろん、可愛くなくちゃだめだ。それに、ほかに血のつながった兄弟がいない者がいいな。その方が、本当の兄みたいに思ってもらえるから」
そして、首尾よく、彼女を手元に置くことに成功したそうだ。
カミーユにとっても、これはとても感謝すべきことだった。
その頃から従兄弟どもは性格が悪く、叔父や叔母からは厄介者を背負い込んだと、文句ばかりを言われていたから。
その点、ルーファスは、会って最初の頃は、本当の兄のように接してくれた。
言い訳のための演技だとしても、右も左もわからないカミーユの面倒をみてくれたことを覚えている。
時々、泣かされもしたが、従兄弟たちのような陰湿なものではなかった。
彼がいたから、ひとりの寂しさを紛らわせることができた。
いつでも、どこでも、ルーファスはカミーユを連れ歩いたし、彼女もついていった。
そのお陰で、普通の令嬢以上に一流の教育も受けられ、令息以上に剣の扱いや理論武装を覚えた。
そんなわけで、カミーユにとってルーファスに対する感情というのは、恩はべつにして、実の兄に対するものとそう変わりのないものだ。
主と呼ぶようになったいまでも。
主従関係が成立したから余計に。
苦労させられているぶん、ときどきいたずらもしたくなるし、へこませてもやりたくもなる。
これまでも偶に困らせてやろうとしたこともあったが、ルーファスは怒りはしても、困惑したりへこたれたりはしなかった。
しかも、懲りない。
それが、シュリに関してここまで崩れるとは、カミーユにとっても予想外のことだった。
実に愉快だ。
しかし、このまま放っておくのはよろしくないに違いがなかった。
笑うのをやめて、カミーユは考える。
精神的不安定さが身体にまで影響してきたことは、シュリの精神状態が危険水域まで達しているということだ。
主の反省材料になったのはよいが、すこしいたずらも過ぎたか、と淡い後悔のようなものも浮かび上がる。
このままルーファスを寄せ付けないようになられては、この先の計画に支障がでる。
普通の女相手ならば、強引に口説き落すこともできるだろうが、シュリに無理強いはできない。
シュリがもたないであろうし、もし、身体に傷つけるなどして精霊の怒りとやらにふれれば、なにが起きるかわからないらしい、とこれはルーファスから聞いた。
あわせて、クラディオンの現状は、フェリスティア妃がクラディオン王の手によって殺害されたことによる、ということも知った。
「実際、どの段階で精霊が反応するのかはわからん。森から連れ出した時はなにも起きなかったところをみると、ことが起きて反応するまでに、多少の時間はかかるものかもしれん。現実に傷ついたり、感情の働きかけの程度で動くのかもしれん。が、わからない限りは強引にことを進めることはしないほうが賢明だろうな」
シュリはフェリスティア以上に、精霊たちに愛されているらしい。
これは計算外だ。
力づくは論外であっても、強引さは必要。
だが、その加減を間違えて、このマジェストリアがクラディオンと同じ、もしくはそれ以上の災禍にあってはかなわない。
目標を達するどころか、我が身さえ失っては元も子もない。
カミーユの目標。それは、クラディオンの復興。
たとえ、書類上であっても、国の名を成立させる。
そうすれば、彼女は父親の籍である子爵家を再興させることが可能となる。
垢抜けないガレサンドロの名とはおさらばして、カミーユ・ラスティス・ド・セニエを名乗り、女子爵として彼女は晴れて独立。
ばんざい!
そのために、王女であるシュリの存在と、大義名分を成立させて実質的な手続きを行える権限を得るためのルーファスとの婚姻は、必要不可欠なものだった。
他国の介入を許さないためにも。
しかし。
現実問題として解呪は不可能に限りなくちかく、シュリも口説くどころではない状態。
計画の根幹をなす部分に大きな狂いが生じている。
己の些細ないたずらが、露骨に裏目に出てしまった状態だ。
苦々しいどころの騒ぎではない。
昨日、女王陛下に大見得をきった手前もある。
結果を出さなければ、カミーユ自身の立場を危うくすることになりかねない。
幸い、シュリは、魔女になるということに、半ば迷いがでているらしい。
それからどうやってルーファスに視線を向けさせるか?
印象をよくさせるには?
――………………むずかしいな。
ルーファス、イコール、怖い。
完全に出来上がってしまっているだろう公式を覆すことは、彼女であっても難題だ。
本当のことだから。
しかも、こじらせ方が、彼女の想定範囲を超えている。
自業自得もあるが、ルーファス自身が掘った墓穴が大きくて深い。
象がまるまる一頭、埋められるのではないかというほど。
なのに、時間もない。
だが、なんとかしなければならない。
でなければ、身の破滅。
これまで培ってきた知識や経験を捨て、どこぞのくだらない男の子を産んで育て、おしゃべりと刺繍だけが生き甲斐のような長く無為な人生が待っている。
そんなのは真っ平ごめんだ!
叔父たちを喜ばせることになるのも、癪に障るなんてものではない。
そうさせないためには、最速、最小限で効果をもたらす方策が必要だ。
彼女自身のためであり、頼りない兄代わりの男に、多少は恩を返す――売るためにも。
新たな手段を考えつつ、カミーユは廊下を歩きはじめた。