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 ビストリアは疼く額に扇の先をあてた。
 化粧がはげない、痕が残らないていどに軽く。
 本当のところは、こめかみを力いっぱいに指先でぎゅうぎゅう押したい気分だったが、辛うじて堪えた。

 ――本当にどいつもこいつも! うちの男どもときたら!

 『男』の部分を『馬鹿者』と言い替えてもなんら差し支えはない。
 気分がすこし浮上した先から、地の底に叩き落とすような真似を平気でする。
 これに関しては、絶対に舅方の血筋だろう。
 断じて、彼女の血筋ではない。
 そう決めつけたところで顔をあげて、ビストリアは正面の椅子に腰かけるキルディバランド夫人を見た。
「今ひとつ確認をするが、シュリと申す娘とは、先だって姿を現した魔女を師匠と呼んでいたあの娘のことに相違ないか」
 訊ねれば、はい、と神妙な面持ちでの肯定の声があった。
「フェリスティアの娘であることは間違いないのであろうな」
「私としては、おそらくとしか言いようがございませんが、お顔を見る限りは十中八九そうであるかと。ルーファス殿下のご様子からしても相違ないかと存じます」
 看病の際、はじめてシュリの顔を目の当たりにした世話係の女官は答えた。
「陛下も本人の口よりそう聞いたと申しておられたが、クラディオンの世継ぎである証はないのか」
「それらしきものは特には見ておりません。敢えて言うならば、妖精族の耳の形がそうであるかと」
「ふむ、しかし、耳の形だけでは断ずるには足りぬな」
 いつもの癖で、手の中に扇で拍子をとる。
「それにルーファスがいつどこで、フェリスティアの娘と知ったか、だが……彼の娘とおったのであろう? どのような様子であった」
「はい……突然、意識を失ったシュリさまを、倒れるよりも先に素早く抱き留められまして、寝台にお運びになられました。それから、私に御典医殿を呼ぶよう命じられ、ご自身はシュリさまに付き添っておられました。その後、御典医殿の診察の間こそ場を離れられましたが、それ以外は片時も離れがたいご様子で……終始、大変、お気遣いになっておられる様子がうかがえました」
「それほどに?」
 母親であるビストリアも、驚きを感じる。
 まるで、本当に恋でもしているかのようだ。いや、そういう意味の報告なのだろうと思い直した。
 しかし、ルーファスが恋とは!
 実母であるビストリアにしても、違和感があるどころの話ではない。
 こんなに息子に似合わない単語もないと思う。
 頭の疼きに加えて、一気に口中がまずく感じた。
「いまも付き添っているのか」
「いえ、先ほど、側近のカミーユ・ガレサンドロが呼びに参りまして務めに戻られております。シュリさまは、殿下がお命じになられた侍女を兼ねると申す護衛の者が看ております」
 そうか、とビストリアは頷いた。
「それにしても、ルーファスの想い人が、よもや、フェリスティアの娘とはな……いつ会うたものやら。クラディオンが滅んだ時には、まだ五歳か六歳。娘は腹の中で、フェリスティアとも面識はなかろうに」
 いえ、とキルディバランド夫人は躊躇いながら言った。
「おそらく、最初は殿下もシュリさまがそうであると気付かれていなかったかと」
「それは、どういうことであるか?」
「はい、髪で顔を覆い隠してらしたこともあるのでしょうが、最初、ここに連れて来られた時には、興味の欠片もないご様子でした。が、気付かれて、態度を改められたようでございます。これも、おそらくではございますが、昨日、シュリさまとお出掛けになられた時にお知りになられたかと推察いたします」
「顔を見たかもしれぬな。多くの男が、フェリスティアの美貌に一目で惑ったことを思えば、それも有り得るか」
「はい。シュリさまも目は閉じておられましたが、とてもお美しく感じられました」
 そうか、とビストリアは頷いた。
「しかし、わからぬな。と、すれば、あれだけ婚姻を厭うていたのは、その娘を想うてのことではなかったということになる」
「と、いうことになりましょうか」
「よもや、別の娘から心変わりしたのではあるまいな。あとから、『気の迷いだった』ではすまぬぞ」
「さあ、それは私にはなんとも」
 なんとも頼りない返事だ。
 人の耳には聞こえない音をさせて、塗られていた白粉が一部、ひび割れた。
 ビストリアの眉間に、深い深い皺が刻まれていた。
 昨日、カミーユから聞いた話に合致するのは、シュリという娘だ。
 しかし、ルーファスが気付いたのも昨日だとすると、微妙に時のずれを感じる。
「でも、あの噂もなにか関係しているやもしれません」
 キルディバランド夫人が言った。
「あの噂とは」
「クラディオン王家血筋の姫が生き残っておられると。わたくしも昨日の茶会の席で聞いたものでございますが」
 ビストリアの手の中で、ぱん、と扇が一際大きく鳴らされ、そのまま握り締められた。
「だれがそのようなことを言い出した」
「さて、そこまでは私も存じませんが。噂ですので」
「そなたは、側近くにいて、フェリスティアの娘だということに気付かなかったのか」
 が、その質問には、ビストリアも夫人からの動揺を感じ取った。
「いえ、実は、薄々、そうではないかとは思っておりました。湯浴みの際に妖精族の証の耳を見ておりましたので」
「それをだれかに申したか」
「はい。カミーユ・ガレサンドロに」
「なんと申しておった」
「たとえそうであっても、口外はしてはならないと申しておりました。彼の者も気付いてはいたそうですが、王子もご存知ないことであるし、ことを荒立てないようできるだけ穏便にすませるようにと。私もそう思いましたので、黙っておりました」
 ビストリアは、ふむ、と頷き、すこしの間、考えた。
 幼くはあったが、カミーユもフェリスティア妃とは関りがあっただけに気付くのが早かったのだろう。が、事情が事情だ。確証のない内は、報告するのも憚られたといったところか。
 ともあれ、最初にそう口にしたのであれば、カミーユ・ガレサンドロが噂の元になっているわけではなさそうだ。
 では、ルーファスが不在中であったにも関らず、昨日の返答は何を根拠にでたものか?
 まるで、そうなることを最初から見越していたようにも思える。或いは、最も身近にいるだけあって、本人すらきづかない心境の変化を汲み取ったか。
 よくわからない。
 偶然とも言えるし、なにか仕掛けたとも疑える。
 限りなく黒に近いグレーだ。
 が、そんなことは、本人に訊けばよいことだ。
 最初に噂を流した人物がだれかも気になるが、噂のみでなにもなければ問題ない。
 問題は、今後、どのようにするか。
 結果さえ良ければ、なにも追究することもない。が、逆であれば、また考えねばならないだろう。
「その噂に対して、皆はどのように申しておる」
「はい。私が耳にした限りでは、レディン姫よりもクラディオンの姫の方が殿下のお相手によいのではないか、というものでした。もし、クラディオンの土地が他国のものとなった場合、我が国もさまざまな影響を免れないから、と。逆に、我が国の一部となれば、ドラゴンの毒さえ取り除けられれば、多く恩恵も得られようということなどを申しておりました」
「然様であるか」
 さもありなん、とビストリアも思う。
 しかし、それであっても、身の証となるものは必要だ。
「して、もうひとつ。ルーファスの態度はわかったが、肝心の娘の方の様子は如何か。求婚したとして、応じようか」
 それには、それが、と夫人の顔に困惑した表情が浮かんだ。
「如何した」
「はい、畏れながら申し上げれば、シュリさまは殿下をたいへん怖れられているようにお見受け致します」

 めきっ。

 ビストリアの手の中で、扇が軋む音をたてた。
「怖れていると?」
「……殿下の御前では勿論のこと、殿下のお名前を聞かれるだけで怯えた様子をみせられ……」
「それは、畏まってのものではないのか」
「……そういうこともございましょうが、先ほど申し上げた通り、最初のころは殿下もご存知なかったために、シュリさまをひどく脅しつけたことに原因があるかと。現に、私がはじめてお眼にかかったときには、寝台の中で震えて泣いておいででしたし」

 ――あの馬鹿息子! なにをやっている!?

 ビストリアは、こめかみがきりきりと引き攣る感触を覚えた。
 両の口の端がひっぱられ、なんとも言えない笑みに似た表情に変わる。
 うまくいっていると聞くのもなんとなく癪に障るが、うまくやれていないと聞けば、ひときわ情けなく感じる。
 立場云々は関係なく。
 つづく、「妖精族の血ゆえのこともございましょうが」、との申し訳なさげなことばに、頭に昇った血がわずかに下がった。
「ああ、そういえば、フェリスティアも人並以上に臆病な性質であったな」
 見ていて苛立つほどに。時には、蹴り倒したくなるほどに。
 そして、その頼りなげな風情に気を迷わせる男も多かったのは事実だ。
 だからこそ、驚いたのだ。
 自らクラディオンに戻ると言い出したことに。
 故に、止めることができなかった。
 どれだけの覚悟をしたか、ということがわかったから。
 感銘を受けたと言ってもよい。尊重せざるを得ない矜持をみせつけられた。
 その時の、それまで以上に美しかったフェリスティアの姿を思い出す。
 まっすぐな瞳は揺らぎなく、全身から放たれるオーラは透明さを増し、神々しくさえ感じた。
 同時に悔しくも感じた。
 己よりも弱々しき者を楯にしなければ国を守れない己の器量に。
 だから、その恩義を含めて、フェリスティアには個人的にもいろいろと思うところはある。
 が、その娘となると、話は別だ。
 ビストリアはキルディバランド夫人に申し渡した。
「レディン姫のこともある。そちは娘の存在を他には知られぬよう心をくばれ。当面は、引き続きこれまで通り客人扱いでよいが、宮中での振るまいなりをゆっくりでよいから仕込むように心がけよ」
「畏まりましてございます」
 深い座礼を受けて、ビストリアは頷いた。
 とりあえずは、嫁候補がひとり増えたと考えておくことにする。
 ルーファスがどう思おうと、国の情勢次第では知らぬ顔もできるし、口説くに仕損じることも充分に考えられる。
 要は、あまりあてにしない。だが、娘の身を確保しておくことは必要。
 それをどうするか?
 ぴし、と扇を鳴らした途端、引っ掛かりを感じて見れば、柄の部分が僅かだが割れていた。
 少々、酷使しすぎたようだ。
「新しい扇をもて」

 ぼきっ!

 首を軽く振ったはずみに、肩が淑女には似付かわしくない音をたてた。
 それには、ビストリアははっきりとしかめっ面を浮かべた。
 肩凝りは最高潮らしい。
 最近、よく眠れないこともあるのだろう。
 化粧の乗りもよくない。
 いま、彼女に必要なのは、休息だ。
 しかし、そうはいかない、それどころではない。
 それでも、一日でもよいから、息子や夫や政務のことを忘れ、ひとりゆっくり湯に浸かって美味しいものを食べて、ぐっすり眠って暮らしたいとしみじみと思い、溜息をついた。

 ひぃぃぃぃぃ……

 罰として教師のしごきを受ける、ドレイファス国王陛下の情けない悲鳴が、隣室から微かに聞こえてきた。
 ビストリアはもうひとつ、深々とした溜息を溢した。




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