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 人の顔色を伺う、ということばがある。
 ことばにするよりも早く他人の様子や状況を判断し、最善の結果を導くよう行動する。
 神経をすり減らして『気が効く』人間を演じ、実行し、主に目上の相手に気に入られようとする。
 要は、相手の『要求する』手間をはぶかせるサービス精神だ。
 そうされることで、存外、気をよくする人間は多い。
 円滑な人間関係を築くためのスキルでもある。
 その目的はさまざまあっても、大ざっぱに言えば、予定調和。
 己の目の届く範囲においての。
 そのために勝てるゴルフのゲームでも手を抜いて相手に勝ちを譲ったり、耳を塞ぎたくなるような歌声であっても、褒めちぎる。
 よいしょ、よいしょ、と一生懸命に持ち上げる。
 どんな坂、こんな坂。
 自分より巨漢だろうが、罵られようが、内心、滂沱しながらも押し上げる。
 陰口やチクチク指される後ろ指は、聞かないふりに見ないふり。
 一応は、平和主義的とも言える処世術だ。
 そして、第三者からしてみればあまりよい顔をされないそれも、実は自然と行えるようになるには、相当の忍耐と経験を培わなければならない。
 しかし、長年かけて当り前にできるようになったところで、弱点はある。
 怒りだ。
 避けまくり、蓋をしまくって過してきたつけで、他人からの怒りに対する耐性が弱まる。
 怒りという感情は、ただでさえ他人に強く影響を与える感情のひとつだ。
 怒りを発する人間にその意志がなかろうと、相対する者には怒りを抱いてなくともその気持ちは伝播する。
 発せられた感情は目に見えぬ力となって、そばにいる者に振りかかる。
 そして、元より両者の力関係がはっきりしている場合、弱者に与えられるのは恐怖。
 なにも悪くないのに、反射的に謝ってしまったりもする。
 しかも、他人の顔色うかがい、先んじて行動する癖が身についてしまった者には、事実を冷静に受け止める余裕は失われる。
 行き過ぎれば、パニックだ。
 その見本が、いまひとり。


 あああああ……

 任意同行、もとい、召喚を受けてのビストリアへの報告という名の事情聴取を終え、廊下を小走りに戻りながら、キルディバランド夫人は内心で呻いていた。
 まさか、自分が席を外していた間に、陛下が部屋に入りこむとは思いもしなかったことだ。
 あまつさえ、あんな騒ぎにまで発展するなど、予想だにしないことだった。
 そして、シュリがショックで寝込んでしまった。
 これが、一介の魔女見習いであれば、『まあ、仕方ないわね』ですむのだが、亡国とは言え、王女となれば話は別。
 不測の事態といえど、失態以外のなにものでもない。

 ――どうしましょう、どうしましょう!!

 大変だ、という単語が頭の中でぐるぐると巡っている。
 血の気の引いた顔色からしても、脳に酸素が行き渡っていない模様。
 だが、額にはうっすらと脂汗が滲んで光っている。
 しかし、実際のところ、彼女はそんなに大変でもなかったりする。
 これまで通りにしていればよいことだ。
 現実、彼女にはなんのお咎めもなかった。
 が、女王陛下の威圧を目の当たりにしたことで、夫人はすっかり動顛していた。
 普段、たいした失態を犯さないこともあって、滅多にない出来事によりいっそうのダメージを受けていた。
 己を省みる余裕すら失われていた。
 見事、針の先が棒の太さに見えるマジックにかかっている。
 第三者の眼でみれば大したことのないことでも、ぎゃあぎゃあ大騒ぎしてしまうあの状態。
 そして、焦りが思考をさらに悪い方へと駆り立てていた。
 己の進退問題どころか、お家の断絶まで、凄まじい勢いで不幸への道程が頭の中に築かれていった。
 これがもし、ルーファスが相手であったならば、石化によって脳内も停止。
 余計なことまで考えずにすんだはずだ。
 だが、ビストリア相手の場合は、そこまでインパクトがないだけに、こういう事態を引き起こす。
 考えようによっては、より性質が悪いかもしれない。
 噂のことを女王陛下に訊ねられた時、キルディバランド夫人は息が詰まる思いがした。
 動悸、息切れ、眩暈に貧血。
 それはいまもつづいている。
 更年期障害と診断されてもおかしくはない症状だ。
 噂のことなど、口にしなければよかった、といまさら言ったところであとの祭り。
 ジュエルステッフ夫人の名を出すことは避けたが、身の振り方次第、軽はずみなひと言によっては、社交界からつまはじきにもされそうな気さえしてくる。
 しかし、それよりなによりも、女王陛下の悋気に触れることがいちばんに恐ろしい。
 扇を握り折った音は、夫人の耳にも届いていた。
 あの、シュリと上手くいっていないと言った時の、束の間にみせたあの表情!
 こう言ってはなんだが、人がみせるには凄みがありすぎる笑顔だった。
 ぞっ、とし、思い出しただけで全身の肌が粟立つ。
 見ただけで八つ裂きにされそうな。

 ――そんなにルーファス殿下のことを大事にされていたなんて! どうしましょう!?

 どちらかといえば放任に近く、愛情よりも義務が勝る淡泊な関係だと思っていたのだが、まちがいだったようだ。
 息子離れができていない母親の嫉妬。
 立場上、露に表せられなかった反動で長引いているのか。
 幸いは、すでにシュリをお手付きにしたかもしれない可能性を口にしなかったことだろう。
 もし、それを知られたとすれば……
 キルディバランド夫人は、ビストリアの表情からそう曲解していた。
 そして、もし嫉妬がこうじてシュリの存在自体をなかったことにする方向へ動けば、世話係をしている自分もどうなるかしれない。
 そう考えた。
 丁寧に、『どうなるか』、の部分に、『口封じ』とルビをふって。
 叫びだしそうな気持ちになりながら、キルディバランド夫人は廊下を急いだ。


「姫の具合は如何ですか」
「お熱の方は下がる気配もなく、いまだ眠っておられます」
 シュリの護衛兼侍女の表情や声からは、すこしも気持ちを洩れ出さないように紐で硬く縛っているかのようだ。
「お顔を拝見しても?」
「どうぞ」
 いざらせた身体の横を擦り抜け、カミーユは扉から部屋の奥へと足を進めた。
 陽は落ちて、既に外は暗い。
 だが、部屋の灯は眠る者のために、通常よりも仄かなものに調整されていた。
 柔らかい薄明かりの中、寝台で眠るシュリがいた。
 額を氷嚢で冷やすために髪はよけられ、顔が露にされている。
 顔色は青白く、苦しげに眉根を寄せた表情で、彼女が近付いても眼は閉じられたままだった。
 あまり安らかとはいえない表情だ。
 しかし、そうであっても、間違いなく美しいと思う。
 灯の加減もあるのだろうか。
 肌も髪も、内側から光っているかのようだ。
 淡い影のような長い睫毛。すんなりと上品な鼻筋。花弁のような唇。
 形作る線のいっぽんいっぽんが、繊細。
 カミーユ自身も人から美しいと言われるだけの自負はあったが、これはまた別格と感じる。
 容貌は別にしても、存在のもつ雰囲気自体が、人間離れして感じる。
 師匠である魔女も美しかったが、あれとはまた別のタイプだ。
 新雪のように清く、触れれば溶けて消えてしまいそうな儚い存在。
 カミーユでさえ、憧憬をくすぐられるような心持ちを抱く。
「殿下がとち狂うのも無理ないですか……」
 口の中で呟いた。
 それにしても、六歳のこどもまで惑わす美貌とは恐れ入る、と苦笑も浮かぶ。
 主の性質もあるのだろうが、それにしても破壊力は並みではないということだ。
 この顔でひとたび微笑めば、男どもは束になって薙ぎ倒されもするだろう。
 それはそれで、見物かもしれない。
 案外、滅んだクラディオンの王もその実、フェリスティアを愛していて凶行に走ったのではないか、とさえ思い浮かんだ。
 その真偽はどうであれ、シュリに目を覚ます気配はない。
「きょうのところは、お話するのも無理なようですね」
 溜息を吐いて、カミーユは脇に控える侍女兼護衛の者に言った。
「また、明日の朝、様子を見に参ります。彼女のことをよろしくお願いします」
「お任せください」
 畏まった礼を受けて、カミーユは部屋を出た。
 と、すると、そこで小走りにこちらへ向かってくる姿を見付けた。
「これはキルディバランド夫人、ごきげんよう」
「これは、ガレサンドロ様、お務めごくろうさまです」
 いくぶん引き攣った表情で、挨拶が返された。
「いえ、そちらこそ災難でした。いま、先ほどのおわびに伺ったのですが、シュリさまはお休みになられておりましたので、明日、また出直して参ります」
「さようでしたか」
 たったひと言の合間にも、夫人からは切羽詰まったような雰囲気を感じた。
「……なにかございましたか。おかげんでも? お顔の色がよろしくないようですが」
「いいえ、大丈夫ですわ。お気遣いなく」
「ならばよろしいのですが。貴方まで倒れられては、シュリさまはますます心細くもなりましょう。護衛もおりますし、すこしお休みになられては?」
「いいえ、ご心配は無用にございますわ。王妃さまより、しっかりとお世話をするようにと言い付かったばかりでございます」
「そうでしたか」
 では、この落ち着かない雰囲気は王妃に影響を受けてのものらしい、とカミーユは察した。
 具体的にどんな話だったか聞きたい。が、ここは、敢えて退くことにした。
 まずは、ルーファスの方が先だ。さっさと戻って対策を提示してやらねば、また勝手に行動して墓穴を掘りかねない。
 では、とひと言でカミーユが踵を返すと、意外なことに夫人の方から引き留めてきた。
「ルーファス殿下は、今後、シュリさまをどのようにされるおつもりなんでしょう」
 肩越しに振り返れば、夫人は親の仇のような眼で彼女を睨んでいた。
 しかし、一瞬だけで、すぐにその表情は消えた。
「そうですね。すくなくともこれまで与えてしまった誤解は解きたいとお考えです。その上で、できれば、もうすこし仲良くされたいとも」
 本人が聞けば、ちがうと言いそうなほど、かなり控えめな表現で答えた。
「さようでございますか」
 夫人の表情に変わりなかった。
 カミーユはわずかに眉根を寄せた。
「陛下はそのことでなにかおっしゃられていましたか」
「いいえ、なにも」
 精一杯、すました声での返答だった。
 嘘だ、とカミーユも勘を働かせるまでもない。
「……そうですか。では」
 どう訊いたところで、夫人は口を割るまい。
 それはその表情が語っている。
 案の定、彼女を二度引き留めることはしなかった。
 歩きはじめたカミーユは、急に周囲の薄暗さが気になった。
 白い壁の上にかかるごく薄い影が、大袈裟に目についてみえる。
 まずいな、と思う。
 王妃はどういう形であれ、ルーファスの意志をくむ姿勢をみせると思っていた。
 だが、キルディバランド夫人の態度を見る限り、反対であるようだ。
 キルディバランド夫人は、良くも悪くも『女』だ。
 容易く周囲に流されもするが、我が身の保身にかけては男を上回る。
 社会的な立場と言えば、己がどんなドレスを身に着けているかであり、社会的問題と言えば、真っ先に己の財布の中身を考える。
 男も少なからずそういうところがあったりするが、優先順位がまったくちがう。
 その彼女が、現時点でルーファスよりも王妃の考えを優先するのは、間違いなかった。
 それは同性であり、同じ母親であり、発言力の強さにもよるものだ。
 実際、ルーファスが王妃の意見を翻させるには、相当の労力が必要となる。
 理に詰め、しつこく感情に訴え続けてようやくだ。
 に、しても、過去の勝率はかなり低い。
 国に関ることであれば、さらに落ちる。
 王妃がダメと言ったら、ダメ。
 だから、ダメと言う前に、なんらかの具体的な結果を示してしまうしかない。
 ただでさえ足るかどうかわからない時間が、さらに短くなったと感じる。
 自然とカミーユの歩く速度があがり、歩幅が広がった。
 自らの計画に生じた陰りに、さしものカミーユも、いつしか焦りで表情を硬くしていた。

*


 おとなしく机の前に座っていたルーファスだったが、カミーユがいなくなってすぐに執務室を出た。
 なにも壊さずに。
 窓から。
 こっそりと足音を忍ばせて。
 そして、三十分後にまた同じくこっそりと戻ってきた。
 多少、息だけを荒くして。
 その時、カミーユはまだ戻ってはきていなかった。
 ルーファスは水差しの中の水をひとくち含んで執務机の前に座ると、呼吸を整えた。それから、なに食わぬ顔で目の前の仕事に取りかかった。
 しばらくしてカミーユが戻ってきたが、自身の考えに気を取られていた彼女は、ルーファスが部屋を抜け出していたことに気づくことはなかった。
 そして、ルーファスも口にすることはなかった。
 彼がひとりでどこへなにをしに行っていたのか。
 知る者は誰もいなかった。




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