55




 シュリは夢を見続けていた。
 悪夢だ。
 いまの彼女にとって、現実も悪夢の中にいるようなものではあるが、それよりまだ酷いものだ。
 なにせ、ぬろんぬろんのでろんでろんが視覚化されて、あとを追いかけてくるのだから。
 黒いそれは、形を変えてはうようよと蠢きながら執拗にシュリを追いかけてくる。
 黒く、とても大きい。
 シュリをすっぽりと呑み込めるだろう大きさだ。
 音もなく、床を這うように追ってくる。
 時折、手を伸ばすように一部を長くしては、シュリの髪の先を掠めていく。
 シュリは背後に迫り来る気配を感じながら、見知らぬ建物の中を必死で走って逃げる。
 助けを求められる者は、誰ひとりみつからない。
 いるのは、シュリだけだ。
 薄暗い通路は細くなったり広くなったりしながら、右に左にと折れ曲がる。
 無機質な壁と床に覆われた迷路のようなその場所に目印らしきものはなにひとつ見当たらず、なんども同じ場所を巡っているようにも感じる。
 聞こえる音は、己の心臓の音ばかり。
 どくどくと早い音をたてている。
 ほかに音はない。
 まるでなにかに包まれているように、なにひとつ音はしない。
 足音も、高くなっているだろう息づかいの声さえ。
 すでに顎はあがり、口を閉じることさえままならない状態だというのに、なにも耳に届かない。
 だからか、息が詰まるほどに苦しい。
 凍りつきそうな恐怖心に追い立てられながら、シュリは必死で足を動かす。
 足の裏を殴りつけるような、硬い床の感触。
 表面は滑らかで、蹴る力に後戻りしている感じさえある。
 ほんの僅かに後ろに気を取られた瞬間、滑る感触に冷や汗を流す。
 不意に打ち付けてしまった膝の痛みは、冷たく骨の髄までしびれるようだ。
 こけつまろびつしながらも逃げ続ける。
 先の見えない通路は、どこまで続いているのか。
 延々と長く続いているようにも感じる。
 ときどき見かける扉を開けてみようかと思うが、立ち止まるより先に行きすぎてしまう。
 立ち止まって、もし、扉が開かなかったりしたら、そして、捕まってしまった時のことを思うと、ほんの僅かな間さえ失う危機感が彼女にそれをさせない。
 捕まらないまでも、距離を引き離すこともできないでいるその間は焦りを助長させる。
 あまり早そうにもないのに、黒い影は一定の距離を置いて後ろにいる。
 怖い、怖い。
 助けて、助けて。
 シュリは心の中で繰り返し叫ぶ。
 助けて!
 と、唐突に、鼻を掠める淡い匂いに気付いた。
 青くつんとした刺激の中に甘さのある匂い。
 シュリは誘われるようにして、角をひだりに曲がった。
 途端、それまでつるつると滑るようだった床がなくなり、荒れた石畳の風景に変わった。
 飛び石となってしまった床石はがたがたで、剥き出しの土のそこここに雑草が飛びだすように生えている。
 欠けた煉瓦の壁は今にも崩れ落ちそうで、補修したのか打ち付けた板もはずれかかっている。
 屋根もところどころが抜け落ち、射し込む幾筋もの白い光が、地面に木漏れ日のような不規則な文様を描いていた。
 そして、正面。
 崩れた壁の真ん中に、白くぽっかりとあいた穴を発見した。
 人ひとりが通れるぐらいの大きさのある穴だ。  出口だ!
 シュリは最後の力を振り絞って光に向かって走った。
 あそこまで行けば大丈夫だ。
 あれは、明るいところは苦手だから。
 苦しさの中に歓喜を抱いて、走った。
 そして、白い光の中に飛び込む勢いで走り抜けた。
 気がつけば、目の前に見渡すばかりの草原が広がっていた。
 建物の壁や柱であったろう瓦礫が、ところどころに残っている。
 元は人が住んでいた場所であったろうが、いまは虫や小動物の住み処であり、鳥の止り木代わりとなっているようだった。
 清々しいばかりの青い空の下、風が吹き渡っていった。
 ふ、とシュリは草原に白く斑をみつけた。
 花の群生。
 まっすぐの細い茎に白い粟をまぶしたような、ちいさく可愛らしい花の群れが風に揺れていた。
 いっぽんいっぽんは頼りなくとも、群れ咲く間に立ち昇る香りははっきりと存在を主張する。
 それは、シュリが走りながら嗅いだにおいと同じものだった。
 シュリは、その匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。
 清涼感が身体に満ちるのを感じた。
 あれほど高く鳴っていた鼓動は、いまはとても穏やかだ。
 怖さもなかった。
 ひとり白い花畑を眺めながら、ああ、とシュリは微笑んだ。
 帰ってきたんだ、と。




 ――……帰ってきた? どこ?

 目覚めたシュリの頭の中に、疑問だけがぼんやりと拠り所なく浮かんでいた。
 なぜ、そう思ったのか。
 夢の風景を思い返すが、いままで見たことも行ったこともない場所だった。
 森の奥に暮らす彼女は、草原のような広々とした場所には縁がない。
 こどもの頃、師匠に連れていってもらった場所だろうか?
 そう考えてみるが、思い出せない。
 綺麗なところだった。
 だが、見晴らしがよすぎて寂しく感じるところだった。
 なのに、なぜ、帰ってきたと思ったのだろうか?
 そう考えている内にも夢の記憶は色褪せて、泡のように消えていく。
 ただ、

「……帰りたい」

 抱える思いが、口をついて出る。
 イディスハプルの森の自分の家に。
 なにもかも忘れて、ひとり穏やかに暮らしたい。
 そんな思いだけが、ひとつだけはっきりとした形を浮き上がらせる。
 と、指先にあたるものに気付き、寝たまま頭をめぐらせた。
 額の上にあった氷嚢が、たぷん、と水の音をたてて脇に転がった。
 落ちたそのすぐ脇にあった白くちいさな花が、目に留まる。
 夢の中で見た、あの花だ。
 花の形も、つんと鼻をくすぐる匂いも同じ。
 枕脇に天井から降ってきたかのように、水に生けられるでもなく、一輪だけ落ちていた。
 この匂いが夢を連れてきたのか、と思う。
 だとすると、夢にみた風景はこの花の故郷で花がみた夢だったのかもしれない、とも思った。
 シュリは半身を起き上がらせ、ちいさな花を手にした。
 華やかさはないが、素朴な可愛らしさがある。
 彼女のはじめて見る、名もしらない草花。
 おそらく手入れされた花壇ではなく、夢の中であったような野山に当り前に咲く花なのだろう。
 それが、いつからあったものか、少々、しおれ気味だ。
 可哀想だ、とシュリは思った。
 土の上にあれば、長く花を咲かせ、種子をなすこともできただろう。
 そうでなくても、もうすこし長い間、花を咲かせていられただろう。
 だが、こうなってしまっては、あとは枯れていくだけだ。
 慣れない場所に無理矢理に連れてこられて。
 たった、一輪だけで。

 ――かわいそう……

 シュリは手の上の白い草花を見つめた。
 せめて、水にさしてやるべきだった。
 しかし、周囲を見回しても、水差しの中の水はあったが、適当な大きさの容器がなかった。
 花瓶はてんこ盛りに盛られた花でいっぱいだし、細く短い茎のこの花には大きすぎる。
 ほかになにかないか、と目だけで探してみるが、ちょうどよさげな容器はみつからなかった。
 自分の家であれば、どこになにがあるか探す必要さえないが、ここではだれかに聞かなければ、なにもわからない。
 あったとしても、勝手に借りて良いものかもわからない。
 それを訊ねるべき人も、どこにいるのか見当もつかなかった。
 それがもどかしくもあり、また、自分の領域外の場所であることをシュリは改めて認識させられた。
 部屋の中は、カーテンの布を通して射し込む薄い光に、ほの明るく浮かび上がって見える。
 朝なのか、夕方なのか。
 シュリにはそれすらも判断がつかなかったが、確かなことは、ここはシュリの家ではないということだ。
 自分の物はなにひとつない。
 当然のように、みな借り物だ。
 居心地がわるいわけではないが、長居する所ではない、とぼんやり思う。
 だが、せめて、花だけはなんとかしてやりたかった。
 シュリは、ふらつきながらもベッドから抜け出た。
 そして、手早く、脇に畳まれ置かれていた服に着替えた。
 靴を履き、再び花を手にすると、窓から滑り出るようにテラスへと出た。
 朝でも、夕方でも、エンゾが花壇に水やりをしているのではないか、と思ったからだ。
 あのハリネズミの庭師ならば、しおれかけの花でもなんとかしてくれるだろう。
 見回して姿をさがすが、どこにも見当たらない。
 だれの姿もなかった。
 完全に明けきる前の、靄の立ち篭める銀色の早朝。
 しっとりと水を含んだ盛りのバラが、一面に濃い花の匂いを立ち昇らせている。
 早起きの鳥たちのかわす高らかな声が響き渡り、音楽のようにも聞こえる。
 調和のとれた美しい風景。
 美しい朝だった。
 しかし、そんな風景に目もくれず、ちいさな一輪の野草を携えたシュリは、バラの花壇の間の道を急ぎ足で通り抜ける。
 銀色の髪が覆う姿は、すぐに朝靄に紛れて消えた。

 シュリが向かったのは、かつて出会った子ハリネズミたちが水を抱えてやってきた方向。
 つまり、井戸があるらしい方向だ。
 井戸ならば庭師が立寄ることも多いだろう、という考えだ。
 もし、エンゾに会えなくても水は汲めるし、桶かなにかあれば、花を水に浸けてやることもできるだろう。
 具体的な位置は知らなかったが、行けば見つかると思っていた。
 野生の勘に従って。
 なにも考えていないと言った方が適切か。
 あるのは、花を助けてやらねば、ということばかり。
 完全なる思考放棄。
 脳みそのストライキ。
 自分のことに関しては、些細な事柄ですら考えることを拒否した状態。
 わずかでも考えれば、怖いから。
 悲しくなってしまうから。
 だから、考えない。
 身体が本調子には程遠い状態であることにも気付かない。
 足取りは右へ左へとよたよたと蛇行しながらも、まっすぐ前だけを見て歩く。
 余計なものは目に入れないようにして。
 こういう時、本人は注意深くしているつもりでも、あくまでも『つもり』だけ。
 実質、なにも見ていなかったりする。
 そんな状態だから、肝心の井戸の傍を通りすぎてしまったことにも気付かなかった。
 結果、行き着く先はきまっている。
 迷子だ。
 我に返って、ここはどこだろうと思った時はすでに遅し。
 バラの庭はとうに通りすぎて、目的の井戸ははるか遠く後ろに置き去りにしていた。
 いつの間にか、周囲は、高い緑の壁にかこまれていた。
 迷路のような造りの綺麗に苅られた常緑樹の植え込みの間を、足の向くまま右へ左へと折れ曲がる。
「ぼうや、どこにいるの、ぼうや」
 ひとりの婦人が、植え込みの陰から姿を現したのは、その時だった。
 肩すぎまである白髪を、一纏めにゆるりと三つ編みにした髪形の、全体的に丸い印象の女性だ。
 背はそれほど高くはない。
 シュリよりも、若干、低いぐらい。
 ドレープを沢山あしらった、白いゆったりとしたドレスの裾を引き、肩に濃い紫のレースのストールをかけている。
 細かい皺を刻んだぽっちゃりと下がった頬に化粧っ気はなかったが、みるからに上品で優しそうな老婦人だった。
 この人に井戸の場所を訊こう、とシュリが口を開きかけたところ、
「そこのあなた、わたくしのぼうやを見なかった?」
 訊ねるより先に訊ねられた。
 『ぼうや』が誰か、シュリに知る由もなかったが、幼いこどもの姿をみた覚えはない。
「いいえ、見ませんでした」
 戸惑いながら、シュリは首を横に振った。
 老婦人は、そう、と頷いた。
「テスの遊び相手に呼ばれた娘かしら」
「……いえ、ちがいます。井戸を探していて、」
「井戸? ああ、では、新しくきた侍女ね」
 途端、老婦人の視線が冷たいものに変わった。
「そのフラシュカからして、大方、ブルグダッシェあたりに言われてきたのでしょう。まったく、いらぬ気ばかりまわして、肝心なところで気が利かぬ上にしみったれたこと。一輪ばかりあっても、どうにもなるものではないのに。戻って、必要ないと伝えなさい。どうせなら、車いっぱいに積んで持ってくるようにと。できないのであれば口を挟むな、と言っていたと伝えなさい」
 それこそ、口を挟む間もなく言われる。
 だが、シュリには、ちっとも要領を得ない内容だ。
 何を言われているのか、さっぱりわからない。
「あの、」
「何をしているのです。さっさとお行き」
「でも」
「さがれ」
 激しさはないものの、有無を言わせぬもの言いに、シュリはそれ以上、訊く勇気をもたなかった。
 後退りをしながらちいさく首だけを動かす礼をして、踵を返してその場を立ち去る。
「ぼうや、どこなの? 出ていらっしゃい、隠れていないで」
 老婦人の呼びかける声を背後に聞くと同時に足音が響いた。
「王太后殿下、こちらにおいででしたか。おさがし申し上げました」
「ぼうやがどこにも見当たらないのよ」
「ご心配せずとも、ドレイファスさまでしたら、お部屋でおやすみですわ」
「そうなの?」
「ええ。お部屋を変わられましたから、そちらで」
「部屋を? いつ」
「もう、随分と以前のことですわ」
「あの子は独り寝を怖がるのよ」
「大丈夫ですわ。もう、ご立派に一人前でらっしゃいますし。さ、お部屋のほうへお戻り下さい。身体が冷えてしまいますわ」
 王太后殿下――前王の后。
 ドレイファスの母親で、ルーファスの祖母にあたる女性だ。
 所謂、一般で言うところの認知症にかかっており、朝も昼も夜もなく、過去も現在もあやふやで、人の見分けもできるかも怪しい。
 実はいまも、寝巻き姿のまま徘徊の真っ最中だった。
 幸い、大事になる前に、お付きの女性が発見したもよう。
 そして、王太后に気を取られていたお付きの女性が、植え込みの角を曲がらんとしていたシュリの存在に気付くことはなかった。
 事情を知るはずもないシュリも、頭上に疑問符を浮かべながらも、立ち止まることはしなかった。
 引き続き、よろよろと雛鳥ほどに頼りない足取りで、井戸をさがしはじめる。
 否、最初は、庭師をさがしていた筈だ。
 いつの間にか、シュリの頭の中で目的がすり替わってしまっていた。
 だが、本人はそんなことにすら気付く余裕もなく、手に花だけを持って見知らぬ場所を彷徨う。
 自覚ないまま、絶不調の状態で。
 言ってしまえば、こちらも徘徊中。
 そんなシュリを最初にみつけるのは、一体、誰だろう?




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