最初にそれを見付けたのは、子ハリネズミだった。
庭師のエンゾの三番目の息子、ロンゾだ。
その日、朝早くからめざめた彼は、いまだ布団のなかから出たがらないふたりの兄とは別に、仕事に出掛ける父親についていくことにした。
王宮の庭は、彼の庭。
駆け回る広さがじゅうぶんで、おやつを見付けるのも簡単なそこが、ロンゾは大好きだった。
タイミングが合えば、ほかの使用人の子である遊び友達とも会える。
決められた区域内であれば自由に遊ばせてもらえるし、新しい発見も多い。
いつもが、冒険。
時々、度を越して怒られはするが、遊び盛りのこどもたちには恰好の遊び場だ。
だから、ロンゾは、広い庭の全部ではないにしろ、よく知っている。
どこになにがあって、どこにどんな鳥が巣を作っていて、どんな植物が生えていて、どんな生きものがいるか。
もちろん、おやつに食べてもよいものと、そうでないものも。
目敏いこどもの目線で、場合によっては父親よりも知っていたりもする。
そこも、その一箇所。
庭の東側の、大きな樫の木のある一角。
今日はその近くから作業をはじめる父親から離れ、樫の木の下へロンゾはやってきた。
そこは、ロンゾにとって特別な場所。
いつか、ほかの子たちと同様にこの樹の上から風景を眺めてみたい、という夢が彼にはあった。
まだちいさいから、だけではなく、現実的に、ハリネズミ族に木登りは無理だ。
背中の針が重すぎて重心が悪く、登りはじめてもすぐに転がり落ちてしまう。
みな、無理だ、と言う。
兄たちでさえも。
でも、いつかできる、とロンゾは信じていた。
今日こそ、と挑戦者は高々とした樹を見上げる。
見上げて、いつもと違う様子にすぐに気がついた。
太い幹に絡まる蔦の多さに。
「あれ?」
木肌に絡みつき、覆わんばかりの緑。
太い幹の茶色の皮の色がほとんど見えなくなっている。
前にここに来たのは、二日前。
その時、こんなに蔦が絡まっていただろうか?
不思議に思いながら、ロンゾは蔓を目で上に辿った。
すると、幾重にも重なって見える太い枝の上の方に、特別おおきく絡まっている箇所をみつけた。
丸くかたまりを作って、蛾の繭みたいになっている。
なにかを守っているかのようにも見えた。
蔦草のこんな様子を見たのは、ロンゾもはじめてだ。
どうなっているのか、間近で見たいと好奇心が刺激される。
いつもはダメだが、この蔓につかまって、あそこまでよじ登れないだろうか。
この蔓は太くて、とても丈夫そうだ。
そう思い、蔓のいっぽんに手をかけた。
途端、ちいさな手のなかで、蔓がすべるように動いた。
しゅるしゅると微かな音をたてて、間違いなく動いた。
動物が逃げるように。
蔓は上に向かって伸び、緑の繭を一回り大きくした。
うねうねとうねりながら蔓の先をのたうちらせ、葉を動かした。
風にそよぐ時とはまた違う、ざわざわとした音がちいさなハリネズミのこどもの耳を打った。
まるで、おばけが話しているようだった。
ロンゾは驚いた。
驚いて、つぎに怖さが全身に広がった。
ぐさぐさと、ズボンに穴をあけながら反射的に背中の針が立った。
「とうちゃああああん!」
びっくりしすぎて、涙目で叫んだ。
「とうちゃん、とうちゃん、とうちゃあああん!」
叫びながら、転がるように父親のいる方向へ駆け出した。
「とうちゃああん!」
息子の呼ぶ声を聞きつけ、エンゾは水やりをしていた手を止めた。
いつもより切羽詰まった声ではあったが、こどもにはありがちなこと。
大したことのないことでも、大袈裟に受け取って騒ぐことなどしょっちゅうだ。
だから、心配することなく、走ってくる息子を待った。
「たいへん、とうちゃん、たいへん! つたがしゅるしゅるって!」
残念なことに、ロンゾはまだ幼く、もっている語彙がすくない。
おまけにすこし、舌足らずだ。
起きたことを説明したくとも、言いたいことの半分も伝えられない。
「蔦がどうかしたのか?」
「あのね、あのね、つるをもったらしゅるしゅるってしてね、」
「蔓がしゅるしゅる? ああ、引っこ抜いたのか。大丈夫だ、ここいらにある蔦は抜いてもいいもんだから心配することはないよ」
おそらく、間違って抜いてしまったので焦ったのだろう、と庭師は思った。
安心させるつもりで、笑顔で頭を撫でてやった。
が、ロンゾは首を大きく横に振った。
「ちがうの! しゅるしゅるってのびたの! かしのきのところにみどりのタマになってて、でっかいの!」
「緑の玉? 樫の木に鳥が巣でもつくってたのか」
「ちがうよ! ちがうの、とうちゃん! そうじゃなくてね、たいへんなんだよっ!」
話していても通じないことに苛立ったロンゾは、父親のぶかぶかのズボンの端を引っ張って、樫の木のところに連れていくことにした。
「きて! とうちゃん!」
「でも、とうちゃん仕事中だから」
「いいから、きてっ!」
子煩悩なハリネズミは、息子の必死な様子に、すこしの間だけつきあってやることにした。
「はやく! とうちゃん!」
歩き出しても尚、ロンゾは待ちきれないらしく、先に駆け出しては後ろを振り返っては、エンゾをせかした。
「そんなに慌てるなよ。ころぶぞ」
エンゾはのんびりといつもの自分のペースで歩いた。
「はやく! こっち!」
そして、樫の木のところへ来て、ようやく息子が何を言いたかったのかを理解した。
なぜ、あんなに必死だったのかも。
「こりゃあ……」
穏やかな性格のハリネズミの庭師さえ、鼻の頭に数本の皺を寄せ、尖った前歯を覗かせた。
背中の針も、半分立ち上がった状態になった。
樫の木は、ロンゾが見た時よりも更に多くの蔦に覆われていた。
蔓の太さは蔦としては考えられないほどに太く、藤の蔓ほどもある。
一枚の葉の大きさも、普通の倍以上の大きさだ。
それらが、それぞれに絡み合うように捩れ、途中で枝分かれしては、蔓の数を増やしている。
今、目の前で。
波打つように蠢いては、意思があるもののように上方へと伸びていく。
鼓動の音が聞こえてきそうな蔦の様子に、ハリネズミの庭師は口の中にたまった唾を嚥下した。
「とうちゃん、ほら、見て、あれ!」
ロンゾの指さす方を見れば、たしかに枝のいっぽんを包む緑の球体が認められた。
職人が編んだ籠のように、蔓がからみあって真ん丸な形ができあがっていた。
観察すれば、蔦はそれ以上、上には伸びていないようだ。
いや、伸びようとしていない。
その時、かさり、と地面から音が聞こえた。
視線を向けると、落ち葉を押しのけて、芽が吹き出ていた。
それも、ひとつだけでなく、周辺のあちこちから。
かさり、かさり、かさり。
微かな音が重なりあって、芽吹く音は耳をとぎすまさずとも聞こえてくる。
そして、それらの芽は、見る間に二葉になり、背丈を伸ばしては更に葉の枚数を増やして、若木の姿をあらわした。
早送りの映像を見るかのようなスピードだ。
こんな光景は、長年、この王宮の庭に親しんできた庭師もはじめてみる光景だ。
思わず知らず、背中の針が更に立ち上がりかけた。
だが、ズボンに新しい穴をあける前に、またゆっくりと閉じられる。
大きな深呼吸が二回つづいた。
「ロンゾ」
庭師は、珍しくも硬い声で息子の名を呼んだ。
「急いで、ケルビンさんと、ポルコさんを呼んできてくれ。でっかい剪定ばさみやノコギリ、ありったけの道具を持って、急いで来てくれるように伝えておくれ。それから家にもどって、かあちゃんにもこのことを言って、家の中でじっとして待つようにって。おまえも、兄ちゃんたちといっしょに、じっとしているんだよ」
同じ王宮に仕える、ほかの庭師の手を借りる必要があった。
植物を愛する優しい庭師ではあったが、このまま樹や蔦を生えるがままにしておくわけにはいかなかった。
「おいら、とうちゃんをてつだう!」
怖いのだろう。
ロンゾからは、丸い目に涙をいっぱい溜めて、すべての針を立てた身体を丸めまいと、必死で踏ん張って立っているようすが見て取れた。
エンゾは微笑んだ。
「だったら、ケルビンさんたちを早く呼んできてくれよ。頼むよ。とうちゃんは、大丈夫だから。早く」
「でも!」
「たのむよ。とうちゃん頑張るけれど、ひとりじゃしんどいんだ。それに、おまえだけじゃなく、かあちゃんも、おまえの兄ちゃんや弟たちのことも心配で、仕事が手につかないよ。だから、早く行って、呼んできてくれ。それで、かあちゃんをおまえたちが守ってやってくれ」
「とうちゃん……」
「ほら、はやく行きな」
ロンゾはしばらくその場に立ちつくしていたが、父親が頷くのを見て意を決し、ちから強く頷き返した。
「わかった。行ってくる! 待ってて、とうちゃん!」
「足下に気をつけてな。ころぶんじゃないぞ!」
駆け出したちいさく丸い背中を見送って、エンゾは持ってきた道具箱から、切れ味のよい大きな剪定ばさみを取り出した。
尖った鼻先を掠める香りに気がついたのは、その時だ。
ひくひくと、髭を上下させて匂いの正体を探る。
清涼感のある甘い匂い。
「フラシュカ?」
視線を巡らせば、地面に置いた道具箱の脇に、白い粟の粒をまぶしたようなちいさな花が咲いていた。
「どうして、フラシュカがこんなところに?」
フラシュカは陽当たりが良く、水はけのよい平原にはえる宿根草だ。
こんな木陰に自然に生えるものではない。
しかも、マジェストリアでは、希少種とされている。
あるとすれば、王宮南側の棟屋上にある、王族専用の薬草園。
温室の中で、鉢植えがひとつ、ふたつ、あったのではないかと記憶する。
しかし、いまはその理由を考えている時ではないだろう。
エンゾは白い花から視線をはずすと、次から次へと生えてくる蔦草の根元を片っ端から刈りはじめた。
胸を痛めつつ。
だが、それも上から響き聞こえてきた鳥たちの鳴き声にかき消された。