籠の中身は、サーモンとタマネギのマリネとタマゴのサンドイッチが二切れずつ二種類。
そして、庭で採れたばかりのスモモとイチゴ。
それに、瓶に入ったミルク。
言われた通りの軽食だ。
シュリはそれに飛びつき、食いついた。
食事を手渡したルーファスは、当然のように戻ることはしなかった。
サンドイッチをぱくつくシュリの隣りに居座った。
だが、必要以上にくっつくことも、食事の邪魔もしなかった。
片足を枝に乗せて横向きになった姿勢で、口を動かすシュリを見ているだけだ。
なにか言うわけでもない。
明確な表情らしきものもない。
なにか考えているようにも見えるし、なにも考えていないようにも見える。
しかし、なぜかはわからないが、いつもの怖さをシュリは感じなかった。
おなかが空きすぎたせいか、まだ身体の調子が戻っていないからだろうか。
それとも、なんとなくだが、ルーファスの方もいつもより疲れているような感じがするせいか。
気のせいかもしれないが。
どういう理由であれ、見られている側としては、落ち着かないものがある。
「ええと……ひとつ食べますか?」
おずおずと籠を差し出した。
シュリもまだ腹が満たされたわけではないし、大好きなタマゴサンドやスモモを持っていかれると、ちょっと悲しい。
それでも、若干、自分から気をそらせるにはいいかと思ってしたことだった。
「いや、いい」、と呟くに似た返事を聞いて、気まずくもほっとした。
そして、横目でルーファスの様子をうかがいながら、ふたたびパンを食べはじめた。
「うまいか」
咀嚼している最中にそう問われ、黙って首を縦に振った。
タマゴサンドはもとから好きだったが、サーモンサンドが意外なほどに美味しかった。
シュリは美味しいものは、あとに取っておくタイプだったが、先に食べたのを後悔したぐらいだ。
イディスハプルの森にも川はあったが、鮭は遡上してこない。
だから、これまで口にする機会もなかった。
はじめて口にする味だった。
サーモンに限らず、この王宮に来て以来、シュリがはじめて味わったものは多い。
森の暮らしと同じ素材であっても、美味しさがぜんぜん違う。
おそらく、使われているスパイスの違いもあるのだろうが、作る人の手が違うだけでこんなに味が変わるものか、とふたつめのタマゴサンドを口にして感心した。
「そうか、よかったな」
淡々とした声が答えた。
ふう、と息がつかれた。
シュリは、動いたルーファスの視線を追って、上を見上げた。
改めてみると、立派な樫の木だ。
伸びた枝には葉が積み重なり、そよ風に揺れては光の位置と影の形を変える。
すこし薄暗くはあったが、落ち着く明るさ。
こうしているぶんには、ちょうどよい涼しさだ。
精霊たちにも居心地がよいのだろう。
新しく加わった炎の精霊もいっしょになって、先ほどから、周囲で跳ね回って遊んでいる。
シュリが落ち着いているせいだろうか、もう、ルーファスを警戒する風もない。
存外、精霊たちはルーファスを怖がりはしても、嫌っているわけではないらしい、とシュリも気がついた。
「幼少のころ」、とふとルーファスが言った。
「カケスの巣があったな」
「カケス? この木にですか?」
ひとつ食べたイチゴは、すこし酸っぱかった。
シュリは急いで呑み込んで訊ねた。
「ああ、幹に洞をつくって子育てをしていた。たまに覗きに行っていたのを思い出した」
「木に登ったんですか」
「ほかにどうやって見るんだ」
「いえ、でも、あぶないでしょう」
王子さまが木登りというのも、シュリには不思議な話に聞こえた。
それに、王子さまでなくともこれだけ大きな樹を登るのはこどもでなくとも危険だし、大変だろう。
「たしかによく、そう言われて叱られたものだ。だが、息抜きができる時はそのくらいだったからな」
おもむろに、ルーファスは立ち上がった。
「久し振りに登ってみるか」
木の枝の上でバランスをうまくとって、手もつかってシュリを取り囲んでいる蔦の塊を越え、幹の方へと移動した。
「大丈夫ですか」
「大丈夫だろう。枝の具合もあるが、行けるところまで行ってくる。どうせ、まだ降りられるまでには時間がかかるだろうしな」
向けられる枝の下では、いまだエンゾたちがフラシュカの移植作業に精を出しているが、そう進んだようすもない。
「腹ごなしにいっしょに来るか」
そう問われ、シュリもなんとなく行ってみたいような気がした。
登った木から降りられなくなって泣いたのは、昔のこと。
今は得意だ。
木の実を採るのに、必要なスキルだから。
それに、ここでひとり、ぼうっと待っているのもつまらないだろう。
精霊たちのおかげで身体は元気だし、おなかもちょうどよく満たされている。
「行きます」
最後に食べたスモモは甘くて美味しかったが、種が大きいのが残念だ。
果汁でベタベタになった手をナプキンでぬぐって答えた。
そして、差し出された手を握った。
樫の木を登る、猿が二匹。
もとい、ルーファスとシュリのふたり。
ルーファスの黒シャツに黒いズボン姿はいいとして、シュリの方は、あろうことかドレスを身に着けている。
なのに、なんの躊躇いもなく、怖けることなく、枝を飛び越える勢いで登っていく。
するすると。
どんどん上をめざしている。
見事なまでの身体能力。
流石、森に暮らす野生児というところ。
しかし、よくよく思い出してみれば、シュリは紛うことなき、一国の王女さまだった筈だ。
いや、王がいなくなった今では、女王さまと呼ばれてもおかしくはない身の上だ。
とうに支配する国はないけれど。
こなたルーファスは、言わずもがなの現役バリバリの王子さまだ。
つまり、いっしょに木登りする王子と王女。
煙となんとかは、ではなく、無難に向上心の賜物と言い換えておくべきか。
それにしても、国を代表する者たちが、貴重な時間と体力を使って、だれにもなんの役にも立たないことをしている。
身の危険もかえりみず。
落ちれば、骨折どころか、打ち所が悪くて御陀仏にもなりかねないというのに。
普通はありえない話だ。
どこの世界であっても。
血相変えてすっ飛んでくる警官や消防士でなくとも、大抵の人は止めるだろう。
だが、本人たちは、そんなことはまったく気にしていない。
ちっとも。
ぜんぜん。
端から見ればとんでもないことでも、本人さえ愉しければよかったりする。
それを人は、趣味と呼ぶ。
そして、他人――主に女こどもを泣かせてでもするものを、道楽という。
しかし、木登りを道楽と呼んでよいものかは……謎だ。
空になった籠は、枝に引掛けておいた。
ルーファスは腰に帯びていた剣を外し、蔦で枝にくくりつけるようにして固定した。
シュリも切った蔦の余りをもらって、それで長い髪をうしろに縛ってまとめた。
履いていた靴も脱いだ。
それを見た、ルーファスも倣った。
裸足になったところで、ふたりは木を登りはじめた。
登りはじめてすぐに、着ているドレスが足に纏わりついて木登りにむかないことを、シュリも気がついた。
だが、もたつく度に、先行するルーファスが手を伸ばして引っぱり上げてくれた。
言っただけのことはあって、ルーファスは慣れたようすで木を登った。
幹にできた瘤に足をかけ、枝につかまっては、身体を上に引き上げていく。
思っていた以上に樫の木は高くあったが、しっかりと育った幹や枝に揺るぎはなく、シュリも危なげなく登ることができた。
「ああ、ここだ」
ひとつ上の枝にいるルーファスの声とともに、慌てたリスが一匹、走り出てきた。
「今はリスが使っているのか」
差し伸べられた手に助けられて、シュリは同じ枝の上に立った。
幹にあけられたちいさな穴は、古いものらしく縁がくすんでいる。
多分、リス以前にも、住民が入れ替わっては暮らしていたのだろう。
「びっくりさせてごめんね」
シュリは離れた位置で警戒しているリスに手を振った。
キィ、とちょっとした文句があった。
「ずいぶん登ってきましたね」
下を見下ろせば、茂る葉に隠れて、作業をするエンゾたちの姿も見えない。
周囲も仄かに明るさを増した気がする。
立つ枝の幅も細まって、動けば、ふたりを支えるには辛そうに、微かに木が軋む声をあげた。
「そうだな」、と答えてルーファスは上を見上げた。
「もうすこしぐらい先まで行けそうか」
自問するように言うと、また登りはじめた。
まだ、登る。
まだまだ、ひたすらに。