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 遠慮のない風が、シュリのドレスの裾を乱した。
 ふくらんだ生地の表面に、かぎざぎをみつけた。
 先ほど、枝に引掛けたときに出来てしまったものだろう。
 マウリアさんに怒られるかもしれない。
 そう思ったが、謝ってあとから繕えばいいだろう、とシュリはのんびり思った。
 登りながら、透ける枝間が広くなったのを感じると同時に、視界が広がって見えた。
 他の木々の頂上を下に見下ろす高さ。
 シュリもここまで高く、樹に登ったのははじめてだ。
 だが、怖さも不安もない。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
 ルーファスの問いにもしっかりと答える。
 王宮に来てはじめて、愉しいと感じていた。
 揺るぎない樫の樹の息遣いが感じられた。
 どっしりとした安定感が、安心していられた。
 広々とした空間が清々しくも気持ちが良い。
 渡る風を全身で受けながら、声を聞く。
 ふたつの国境とひとつの渓谷を越えて来た風らしい。
 びゅうん、と声に似た響きをあげながら、風の精霊たちがちいさな羽根をいっぱいに広げ、ものすごい早さで辺りを飛び回って元気にはしゃいでいた。
 それに混じって、この高さでありながら、ミズスマシの姿をした水の精霊の姿もみかけた。
 背に立ち上がる透ける羽根をもつ虫型の精霊は、ちょっと変わったトンボみたいにも見える。
 風の上でバランスをとりながら、水面に浮くに似た感じで高くなったり低くなったりして遊んでいる。
 その脇を、金魚の水の精が、泳ぎながら横切っていった。
 水の精霊が高い位置にいるのは、雨が近づいている証拠。
 その数によって、雨量もわかる。
 空を見れば、心なしか雲の流れも早く感じる。
 今のところは大丈夫そうだが、夕立が降るかもしれない。
「そっちの枝につかまれ。流石に同じ枝にふたりは危うい」
「はい」
 指示に従うまでもなく、シュリは幹の右側の枝によじ登った。
 ルーファスは反対側の、わずかに高い枝へ。
「流石にこれ以上は無理だな」
 上を見上げて、残念そうにルーファスが言った。
 足下にある枝は、下の枝よりもふたまわりほども細い。
 更に登ることは可能でも、今度は降りることが難しくなる。
 そこまでの危険は冒せないということだ。
「以前はもうすこし上まで行けたのだがな。あの壁が見えるか」
 指さす方をみれば、遠くにそそり立つ壁が見えた。
 高い、高い壁だ。
 離れた位置から眺めても、その高さはこの樫の木と同じぐらいか、それ以上に見える。
「あれが、王宮を守る城壁だ。もう少し上まで行けば、あの向こうを見ることができる。見えるといってもごく僅かだがな」
「そうなんですか」
「ああ。かなり頑丈であるし、色々と細工も施され、外からも内からもあれを越えることは容易くないはずだ。攻められても、落すまでにかなりの時を要するだろう」
「はあ」
「こどもの頃、ずっとあの壁の向こうに行きたいと思っていた」
「行けなかったんですか?」
「ああ、一応これでも、次の王になる身だからな。十五の年になるまで、危険だからと外に出ることは許されなかった。治める人間が、自国のことを知らないというのも変な話だが、現実として、その頃の俺は王宮外のことは殆ど知らないに等しかったと言える。直接、政務に関るようになってから、なにかしらの理由をつけて出ることは可能になったが、それにしても手続きが必要だ。複数の許可がいる。ひとりで、というわけにはいかないしな」
「どうしてですか?」
「身の安全のためだ。ひとりの人間という以前に、俺はこの国の次の王になる者だから。俺の身になにかあれば、すくなからず影響がでる。そうならないように護衛がつけられたし、いまだ行動も制限される」
 シュリは首を傾げた。
「でも、動物に襲われたり、崖から落ちそうになったり、森でも滅多にありませんよ」
 すると、ハハとした軽い笑い声がたった。
「そうであれば、確かに護衛もなにも必要はないな」
「ちがうんですか?」
「そうだな。森の木以上に人の数はある。姿もちがえば、持つ知恵も考えもちがう。同じ状況に置かれても、行動ひとつがちがう。中には、俺がいなくなった時の影響を目的に行動する者もすくなからずいる、ということだ」
「ええと……よくわからないんですが、ほかの人に危害をくわえられることがあるってことですか?」
 その問いに返事はなく、沈黙が応えた。
 しかし、おそらく肯定するものだろうと、シュリは思った。
 この王宮に連れてこられてこれまでになく多くの人と交わったことで、彼女も人の間で暮らすむずかしさは実感としてある。
 本当に理解できないことばかりで、どうしてよいかわからないままだ。
 気がつけば、もう既に、滞在も二週間になろうかというところだ。
 なのに、未だ、なにひとつなせてはいないどころか、依頼の解決方法さえみつからないでいる。
 急に、胸の奥をなにかが突き上げるように感じた。
 こうしている場合ではない、と焦燥感に駆られる。
 だが、『魔女になりたい』という当初の目標があったればこそ、引き受けたものでもある。
 それさえあやふやになった今、つぎの一歩をどこに出せばよいのかもわからないでいる。
 今、こうして樹の枝の上に立っているように。
 その点、幹の向こう側にいる男は、シュリが及びもつかないほど色々なことをわかっているように感じる。
 常に自信を漲らせているかのように見えるルーファスには。
 それは、王子という立場がそうさせているのかとも感じる。
 同時に、きっと、彼女の知らないたくさんのことがルーファスの周囲でもあるのだろうと、シュリははじめて気がついた。
 いつも怒っているのは、そのせいなのだろうか。
「……王子さまもたいへんなんですね」
 ようやく、ぽつりとそれだけを口にした。
「大変というよりも、面倒だ。それでも、ここのところはカミーユの働きで随分と簡略化されてきている。平和が維持できていることもあるし、俺が強いということは、皆、わかっているから、以前ほどうるさくは言われない。そこらの野盗に襲われたところで、ひとりで退けられるぐらいの力はある」
 なにせ、ドラゴン一匹を丸焼きにできると言うのだから、そうだろうな、とシュリもうなずく。
「……早くおまえを捜しに出たかった」
「え?」
「早く、フェリスティアとの約束を守りたかった。クラディオンの壊滅と共に、フェリスティアもおまえも死んだと皆が言ったが、信じなかった。フェリスティアがあれほど強く望んで、産むと言った娘が、生を得てすぐに失うとは思えなかった。それでも、妖精族の血をひく娘がひとり残され、無事に暮らしていけていると思わなかった。だから、早く見つけ出し、力になってやりたかった。守ってやりたいと思った。フェリスティアにできなかったぶんまで。それにしても、随分と遅くなってしまったが」
 ルーファスの言わんとしていることは、ことばとしてはシュリにも理解できた。
 しかし、意味がわからなかった。
 森に引き篭もりの、世間知らずの娘だから。
 妖精族が、その血をひく者たちが、これまでどんな扱いを受けてきたかなど知らなかったから。
 表情から読み取れるものがあるかもしれないが、太い幹が邪魔をしてルーファスがどんな顔をして話しているかも見えなかった。
 だが、と声だけが聞こえる。
「すべては俺のひとりよがりの考えだったようだ。現におまえは俺がいなくとも、魔女のもとでそれなりに安全に暮らしていたようだし、精霊たちにも守られている。俺の手がなくとも、自立して暮らしているようだ。すくなくとも、こうして木に登るぐらいは容易いということがわかった」
「木登りと自立するのと関係があるんですか?」
 そう問えば、「いや、直接は関係がないな」、と苦笑混じりの声が返ってきた。
「だが、おまえはフェリスティアとはちがう、ということだ」
「はあ」
 シュリには、やはり、よくわからなかった。
 フェリスティアという女性がシュリの実の母親であることを、受け入れたわけではない。
 ルーファスにとって、シュリが再従姉妹の子であるということについても、どういう関係なのか謎に近い。
 森の木のお母さんの方が、よほど実感としてある。
 ただ、『そういうものらしい』、と一応の理解はしていた。
 それにしても、なぜルーファスがシュリにそうまで関ろうとするのかがわからない。
 フェリスティアがルーファスにとって大事な人で、産まれる前からシュリを守るとした約束を果たそうとしているという理由からだということはわかった。
 約束は守るべきだ。
 だが、当事者であるはずのシュリは、それにまったく関与してはいない。
 彼女の意志というものは、どこにもない。
 だから、どうにもその約束は筋違いとしか思えなかった。
 森で悠々自適に暮らして、己の境遇にさして不満をもっていない娘としては。
 もし、それでもなんとかしたいと言い張るのならば、ただ、ただ、胸の内がもやもやとして気持ちが悪いこの状態こそ、なんとかして欲しいと思う。

 ――なにを考えているのだろう? 私にどうして欲しいんだろう?

 はっきりことばにしてくれなければ、シュリも対処のしようがない。
 わずかに強さを増した風が葉擦れの音をおおきく響かせた。
 そのせいで、低い男の声がすこし聞こえづらい。
 なにか聞き漏らしたせいでわからないのかもしれない、と思った。
「森に……帰りたいか」
 続く問いかける声も、切れ切れに聞こえた。
「はい」
 正直にうなずいた。
 そうか、と答えたように聞こえた。
「それでも、まだ、俺にしてやれることはあるだろう」
 シュリは、また、小首を傾げた。
 やっぱり、ルーファスがなにを言いたいのか、どうしたいのか、彼女にはなにひとつわからない。
 もっと、わかりやすく言ってくれればいいのに、と思う。
 ざわざわと、シュリの胸の内を表すかのように、樫の木の葉が一斉に鳴った。
 集まる風の精霊たちの数が、いつの間にかずいぶんと増えていた。
 水の精霊たちも。
 薄かった陽の光がより薄くなり、影の色に同化しつつある。
「そろそろ戻るか」
 ルーファスの促しに、シュリは先だって登ってきた樹を降りはじめた。




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