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 むーん?

 部屋に戻ってきたシュリは、首を捻っていた。
 なんとなく気になって仕方がなかった。
 ルーファスのことが。
 本人が聞けば喜びそうではあるが、方向性が若干ちがう。
 好きだと言われたからではなくて、興味の対象はあの『発作』限定だ。
 あれからルーファスがおりてくるまで、随分と待った。
 一度、様子を見に行こうかと思ったぐらいだ。
 だが、エンゾに天気のことを伝えたりしている内に、のそのそと幹を伝い落ちるようにしておりてきた。
 が、その額が腫れていることに、シュリも気付かないわけにはいかなかった。
 ぶつけたのか? いや、自らぶつけたのだろう。
 おそらく、彼女がおりてきた時にあったあの音だろう。
 赤くなったそこは、見るからに痛そうだ。
「あのう……だいじょうぶですか?」
「あ?」
「おでこ、」
「ああ」
 ことばははっきりしているが、返事はおぼつかない。
 声にもいつもの張りがない。
 怒鳴らないにしても、ぼそぼそと呟く声だ。
 いつものように不機嫌そうな顔をしていたが、同時にとても疲れているように見えた。
 やはり、発作を鎮めるために、相当、体力を消耗したにちがいないとシュリは思った。

 ――かわいそうだ。

 怖い人だけれど、いまは怖くない。
 ちょっと変だけれど、でも、病気だから仕方がない。
 それに、ご飯をもってきてくれた人だ。
 人付き合いの経験がほとんどないシュリでも、親切にしてくれた人には親切で返したい気がある。
 一飯の恩だけは忘れてはならない、と師匠にも教わった。
 人は食べないと生きていけないから。
 寝るだけならば、いざとなればどこでもいいが、食べ物に関しては、ものがなければどうしようもないから。
 食べずとも生きていける魔女が言う理屈にしては変だが、確かにろくな食べ物がない冬の時期の情けなさなどを思い出せば、そうだな、とシュリも思う。
 精霊たちが食べ物になる植物を生やしてもくれるが、やはり、余程のことがないかぎりやめてもらっている。
 調和をもたらす魔女が――見習いであっても――調和を乱すことをすべきではない。
 そう考えると、ここに来て二週間はおいしいご飯を食べさせてもらったわけだから、ルーファスに大恩があることになる。
 ここは、すこしだけでも返しておくべきだろう。
 シュリは、とりあえず、とちょうど近くを飛んでいた土の精霊である羽根の生えたミミズに声をかけて、打ち身に効くアマルアの葉を一枚か、二枚、もってきてくれないか頼んでみた。
 土の精霊は羽根を折り畳むと、シュリの足の下にある地面にもぐっていった。
 すると、そう間もおかない内に、シュリのいる枝とは幹を挟んで反対方向に、にょきにょきとアマルアの木が生えてきたのに気がついた。
 精霊にしてみれば、葉を持ってくるよりは、こっちの方が楽らしい。
 しかし、いつものことながら、どうせならば足下に生えてくれれば手間もかからずよいと思うのだが、土の具合とかもあるのだろう。
 それでも、アマルアは草に近い低木だから、樫の木の近くに生えさせることができたようだ。
 この樫の木は年寄りだがちからが強く、この庭の主と言える存在らしい。
 あと何百年かすれば魂が宿って、樹精になるかもしれない。
 それまで枯れずにいれば、の話だが。
 そうならないにしても、いまでも、他の樹が近づける存在ではなくなっているようだ。
 シュリは座っている枝の上を移動してアマルアの生えている上までいくと腹ばいになり、身を半分乗りだして、葉を二枚ちぎりとった。
 そして、ルーファスのところへ戻ると、手で葉をよく揉んでから腫れている額の上にぺたりと張った。
「……なんだこれは」

 しまった!

 つい、断りもいれずにしてしまったことに気付き、シュリは、一瞬、身をこわばらせた。
「え、と、打ち身とかに効くんです」
「感触が気持ち悪い。それに、青臭い匂いがする」
「……ごめんなさい。我慢してそのままにしてください。せめて、自然に落ちるまで。その方が治りが早いです」
 ルーファスは、怒鳴らなかった。
 指先で葉の具合を確かめたが、はがすことはしなかった。
 ふうん、と答えて、不機嫌そうにまた押し黙った。
 シュリは安堵して、その横顔をちらりと見た。
 額に葉っぱを載せてむっつりとしているルーファスが、奇妙にも可愛く感じた。
 シュリはすでに下ろしていた髪の毛の影で、こっそりと微笑んだ。
 それからルーファスとふたり、ただ黙って地面の作業が終るのを待った。
 額の葉っぱは、枝をおりる頃に外れて落ちた。
 まだ赤みは残っていたが、腫れはだいぶひいていて、シュリは安心した。

 ――やっぱり、かわいそうだ。

 シュリは思い出して、ひとり頷いた。
 ルーファスのことは相変わらずよくわからないままだが、悪い人ではない。
 ただ、『発作』で怒りっぽくて、怒鳴って、多少、物に当たり散らして暴れるだけらしい。
 しかし、その怒りっぽいにしても、誰かを傷つけたりしているところを見たことはない。
 なんだかんだ言っても、シュリも脅かされただけだ。

 ――こわいけれど。

 だが、親切な時は親切だ。
 シュリの中で、ルーファスに対する認識が固まった。
 肝心の呪いの解呪は絶望的なほどにどうしたらよいのか手掛かりさえ見つからないでいるが、せめて、ルーファスのあの『発作』だけはなんとかしてあげたいと思う。
 とすれば、彼女にできることと言えば、まじないしかない。
 しかし、『発作』をおさえるまじないをしてあげるにしても、根本の原因がわからないことには、治しようがない。

 むう。

 シュリは考えた。
 原因はなんだろう、と。
 そして、はた、と気がついた。
 ひらめいたと言うべきか。
 ルーファスの態度が、急に変わった時のことを。
 ルーファスに付き添われて、いちど森に帰った時のこと。
 シュリの家で師匠と話をした後。

 ――うようよのぬろんぬろんのでんでろでろでろっ!!

 あれは、師匠がいたずらしたとばかり思っていたが、そうではなかったかもしれない。
 師匠はルーファスの症状を見抜いていたのではないか。
 だから、密かに『発作』をおさえるための応急処置を施したのではないか。

 ――きっと、そうだ!

 だとすれば、あのルーファスの態度の急変も納得がいく。
 だが、あくまでも応急処置で、完全におさえきれるものではなかった。
 だから、時々、まだあんな『発作』が起きるのだ。
 つまり、ちゃんとしたまじないさえ行えば、効果はあるに違いない。
 だとすれば、師匠には原因がわかっているということだろう。
 シュリは椅子から立ち上がった。
「どちらへ」
 いつの間にいたのか、マウリアさんに問われる。
 なぜか、大きな鞄を手に抱えていた。
 どこかへ行ってしまうのだろうか?
「えっと、師匠のところへ」
「お身体は大丈夫なのですか。もう少し休まれていた方がよろしいのでは」
「あ、もう、だいじょうぶです。それよりも、師匠はまだいますか? どこにいるか知っていますか?」
「魔女でしたら、厨房におられるかと。料理人たちに味付けの指導を行っているとうかがっております」
 長い銀髪が逆立った。つぎに、

 きょ、わあああああっ!

 奇っ怪にも聞こえる叫び声をあげて、シュリは部屋を飛びだしていた。
 厨房の在り処も知りもしないで。
 
 森に引き篭もりの魔女見習いの娘。
 人付きあいに慣れず、単独行動は自然なこと。
 『協調性』なんて単語は知らない。
 『察する』は、辞書にも載っていない。
 だが、そんなことよりなによりも、彼女は『そそっかしい』。
 その思考さえも。
 だが、あえて言えば、彼女なりに理由があったりする。
 そして、とめる者もいなかった。
 それぞれにもつ思惑のために。
「グロリア! 早く後を追って! 今度は見失ってはなりませんよ!」
「はっ!」
 一つ、娘の良縁、ひいては将来の安泰を手に入れるためには、いまここでシュリの機嫌を損なうことがあってはならない。
 一つ、なんとか繋がった首をここで落すような真似はできない。
 これを正しい封建社会のあり方と言ってよいものか。
 とりあえず、上位と目される者には無条件に従うべし。
 これが、鉄則。
 ともあれ、キルディバランド夫人が命ずるより先に、女騎士もシュリの後を追って走った。
 似合わない汗まみれになったメイド服は脱ぎ捨て……着替えて、慣れた騎士服で。
 張り切って。
 しかし、彼女は知らなかった。
 護衛対象者が、幼い頃から食のために森で獣を追い、追われて鍛え上げた健脚の持ち主であることを。
 幸い、王宮は森ほどに道は複雑ではない。
 しかし、障害物は同じくらいかそれ以上。
「旦那様っ!」
「いやあああっ! なになさるのっ!! この無礼者っ!!」
「いや、けしてわざとではっ!!」
「儂のカツラっ!!」
 阿鼻叫喚に騒音を撒き散らすことになった。
 どこかでみた風景、いや、昼間の惨状ふたたび。
 惨事のあなた。
 いつまでたっても、片づけは終らない。
 苛立たしくも溜息を吐いたのは、誰だろう。

*




『繁殖』

 またぞろ頭の中に湧いて出たことばに、ルーファスは目の前にある机の天板に思いきり頭突きをくらわせた。
 めきっ、と音がして、美しくコーティングされた表面がひびわれて、細かい蜘蛛の巣を描いた。
 しかし、しつこく脳内にしつこく単語が繰返される。
 可愛らしくも女の声で。
 耳にしたその通りの一音たりともずれもなく。
 絶対音感の領域で。

 繁殖、繁殖、繁殖、繁殖、繁しょく、はん殖、はんしょく……

 木に泣く声あらば、おそらくその声であろう音が室内に響き渡った。
 これまで幾度となく投げられ、叩き落とされ、殴られ、蹴られしてでもなお復活を果たしてきたルーファスの執務机は、ここであえなく臨終の時を迎えた。
 だが、合掌をする手はない。
 真っ二つに崩れ落ちたその前で、引導を渡した者は呻き声ひとつなく、ただ荒い息を吐くのみだ。
 鉄槌のごとく振り落とされた額は、せっかくシュリの心遣いで引きかけていた腫れももとの木阿弥。
 というか、もっと悪化。
 割れて、血がだらだらと流れ落ちている。
 その形相は鬼の如く。
 まるで相討覚悟で死闘を行った後のよう。
 と言ったところで、結局は、

 『はんしょく』

 うがあっ!
 獣の唸り声をあげて、ルーファスは己の頭をかきむしった。
 端からみれば、乱心したとしか見えない状態。
 いや、事実、乱心中だろう。
 混沌とするわけのわからない感情を持て余し、破壊活動で気を紛らわそうとしてもかなわず。
 シュリの、十八年間ひたすらに想い続けていた女のたったひとことが、彼を平穏から何億光年も離れた暗黒宇宙へと放り込んだ。
 穢らわしくも恐ろしいブラックホールの中心へと。
 その身も心も清いばかりと安心していた。
 純粋無垢なまま、彼が見付けるのを待っていてくれたと。
 だれの手に触れられることなく。
 妖精族の血をひく娘でありながら。
 奇跡だと。
 亡きフェリスティアの加護があってのことだろうと、ひそかに感謝もした。
 だが、しかし、そうではなかった。
 敵はすぐ身近にいたのだ。
 育ての親として。
 祝福の魔女が、ルーファスよりも先に、彼の最も愛すべき存在である娘を穢していた。

『一度だけですけれど、人族の繁殖行為はどのように行われるか教わった時に、実際にどんなものか教えてやるって、師匠が』

 繁殖行為と学術的なことばを使ったところで、内容はアレしかない。
 時には伏せ字とされ、神聖とも猥雑ともされる男と女の間で行われるアレだ。
 しかし、女同士で?
 それもありかもしれないが、否、とルーファスの脳内は否定する。
 『教えてやる』、と魔女は言った。
 それに、彼の前でもやって見せたではないか。
 一瞬で、別の姿に成り代わる術を。
 何度も。
 鳥であったり、幼女であったり、女であったり。
 だったら、男の姿に変化することだって問題ない筈だ。
 なれないわけがない。
 あんなことやら、こんなことやら。
 手取り足取りさんぼんめの足も使って……

 ぐうぉわあああああっ!!

 言語中枢も破壊された。
 いまの彼を人に分類していいかも迷われる。
 それでも、訳そうとするならば、『オー・マイ・ガッ!』、というところか。
 もし、他の女が同じことをされても、ルーファスも気にはしなかった。
 しかし、『ただひとり』と固く心に決めた女となれば、話は別だ。
 しかも、答えた時のシュリの様子からしても、彼女自身なにをされたかなにを失ったかわかっていない印象を受けた。
 本来、見られたであろう恥じらいや、不安や、痛みやら、喜びやら。
 一生にたった一度きりの。
 その見せる表情はすべて、ルーファスだけのものになる筈だった。

 ――赦さんっ!

 天がゆるそうとも、シュリがゆるそうとも、だれがゆるそうが、このルーファスの正義がゆるさん!
 断じて、赦してなるものかっ!
 乙女の敵、祝福の魔女!
 ルーファス・アルネスト・エスタリオ・ド・マジェストリアの名のもとに、成敗してくれるっ!!

 ある意味、こんなに『正義』ということばが似合わない男もいない。
 そんなことは余計なお世話。本人としては、知ったことではない。
 近い将来、国の代表となる者としては、表と裏の使い分けは必須項目に該当する。
 表と裏。
 本音と建前。
 ぶっちゃけ言えば、と内容はもっと簡単。

 ―― コ ノ ウ ラ ミ ハ ラ サ デ オ ク ベ キ カ

 おどろおどろしい内容は、いまのルーファスによりぴったり。
 背負う背景だって、多分、そんな感じ。
 ともあれ。
 勿体ぶろうが、簡略化しようが、やることは同じだ。
 硬くグーに握った拳を一ミリたりともゆるめることなく、ルーファスは最高潮に達した気分の勢いで、執務室を出ようとした。
 彼の仇なる者のもとへ。
 が、その手が扉の取手を握った瞬間、

 ゴッ!

 再度、したたか額を扉に打ち付けた。
 どうやら、扉の強度は机を上回るらしい。
「おや、失礼」
 普通に開いた扉から、カミーユが顔を出した。




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