82




 え、とシュリは首を傾げた。
「だれがそんなこと許すかっ!!」
 と答えたのは、言わずとしれたもうひとりの男の方だ。
「こんのスケベジジイがっ! 年を考えて言いやがれっ!!」
 叫んでテーブルの端を掴むと、思いきりそれを投げ、投げ……られなかった。

 ぐわっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!!

 厨房に、再び、勝ち誇ったような笑い声が轟く。
「ああ、脚がぜんぶ床に打ち付けられていますねえ。いや、魔法陣もつかって固めてもあるのかな?」
 椅子に腰かけたままテーブルの下を覗き込んだカミーユは言った。
 子供じみた仕掛け。だが、効果抜群。
「ったりめえだ。そう何度も厨房の物を壊されてたまるかってんだ!」
 高笑いをしながら、エンリオ・アバルジャーニーは胸を張った。
「きっさま……」
 浮き上がる青筋。
 背後に燃え上がる、どす黒い炎。
「ひっ!」
 怒りを見せるルーファスの形相に、シュリの短い悲鳴があがった。
 しかし、当の怒りを向けられる男は涼しい顔で、シュリの肩を抱きかかえた。
「こんなやつぁ放っておいて、嬢ちゃん、旅の話をしようぜ。旅はいいぞう。色んなもん見て、色んなもん食べて、色んなやつに出会える。そうしている内、普段、せせこましく考えていたことが、どうでも良いことに気付くんだ。逆に、どうでもいいと思ってたことが、どんなに大切なのかってことがなあ」
「シュリッ! そんなやつの与太話に、耳を貸す必要はない! 尤もらしい話をしていても、そいつの頭の中ではおまえを食うことしか考えてないぞ!」
 話を聞かせまいとするかのように、更に上乗せした大声でルーファスの喚き声が重なった。
 慌ててエンリオ・アバルジャーニーの腕から抜け出たシュリは、驚きの声をあげた。
「食う? 私、食べられちゃうんですかっ!? むしゃむしゃっ!?」
「ああ、ある意味、そうとも言えますねえ」
 カミーユが答えた。
「とは言っても、そちらの殿下も考えていることは似たようなもんですが。そう言えば、バターを塗りたくるとか言っていましたし」
「カミーユ! 貴様はまた、誤解を招くような言い方をするなっ!」
「ほお、そりゃあ、随分とマニアックなプレイだなあ。蜂蜜とか生クリームも試したか?」
「だれがするかっ! 貴様じゃあるまいし! 変態扱いするなっ!!」
「ぎたぎたの魚の餌のバターソテー!! うわあああん、やだあっ!!」
「おいおい、おじさんはそんなことしねえよ。天国をみせてはやれるけれどな」
「天国っ!? やっぱり殺す気なんだあっ! いぃやああああっ!」
「そうだ、そいつの話を聞くなっ! でなければ、バターソテーどころか串刺しにされるぞっ!!」
「串刺しぃっ!! いやああああっ!! 痛いのいやあっ!」
「いやいや違うって、いや、そうだけれどな、だが、違うぞ! おまえと一緒にするなっ!」
「目くそ鼻くそですね」
「仮にも貴族のお嬢様が、下品なことばを使うんじゃねえよ。嫁のもらい手がないぞ」
「余計なお世話です。たとえば、あなたのように頭も素行も悪い夫を持つぐらいだったら、独り身の方がいくらかましでしょう。他人の心配よりも、ご自分になぜ伴侶がいないのか、まず、いちどじっくり考えることをおすすめします」
 だれがなにを言っているのかわかるにしても会話はまったく噛み合わず、平行線を辿ったままだれも口を閉じようとしない。
 妙な方向に流れ始めた話に焦ったエンリオ・アバルジャーニーは、逃げ道を捜した。
 そして見付けたのは、またしも藁一本ならぬ、我関せずとグラスを傾けている魔女。
「おい! あんた、この娘の師匠なんだろう? 一体、どういう教育してんだ?」
 突然、振られた問いに慌てることなく、魔女は答えた。
 大まじめな顔つきで。
「繁殖行為について言っているならば、ちゃんと教えたぞ」
「繁殖行為……」 
 これを墓穴というのか、釣り餌と言うのか。
 空気を読まない、と人は言うが。
 すかさず食付いたのは、ルーファスだ。
「繁殖……!! そうだ、貴様、よくもシュリにっ!」
「なに教えてんだよっ!?」
 突っ込まれる側から突っ込む側へ転身。
 エンリオ・アバルジャーニーは、無事に別の流れに乗り換えられた。
 しかし、会話は更に魔女も巻込んで急加速。
 ジェットコースター並みのアクロバットを見せ始める。
「なにって、雄と雌の交わりについてだが。ちがうのか?」
「だからって、実際に舌をいれるかっ!?」
「おいおい、舌入れたって、べろちゅーでもしたのか? 嬢ちゃんに教えるために? 本気か?」
「入れないのか? そういうものだと私は教わったが」
「するけれどな、しかし、普通やらんだろう。やっちゃいけねえだろうよ」
「変態ですね」
「変態……お師匠さまが?」
「そうですね。嗜好は別にしても、教育としては行いません。しかも、同性同士で」
「そうなのか? 実践したほうが分かりやすいだろう」
「お師匠様……変態? バターソテー?」
「……あなたも、そこから離れられてはいかがですか?」
「教わったって、誰にだ!?」
「ザムドだが」
「ザムドって……我が祖とおまえ、そう言う関係だったのかっ!?」
「まあ、あっちが惚れていたようだからな。正確には、私にではないが」
「はあっ!?」
「したのはべろちゅーだけか? まさか、それ以上はしてねえよな?」
「それ以上とはなんだ。性交のことか? したぞ」
 そこに、せえの、と掛け声があったわけではない。
 しかし、ぴたりと会話が途切れた。
 息の合った沈黙。
  耳の中では、ハウリング状態。
 したぞ、したぞ、した、した、した……
 それぞれに浮かべる表情も微妙に異なる。
 空気を読まないスキルというのは、コミュニケーションを築く中では最強らしい。
 それまで築いていたすべてを破壊する意味の上では。
 なんともいえず尖った空気に、ひとり意味のわからないシュリが背筋を撫でた寒けに身を震わせた。
 と、まず空気を破ったのは、やはりエンリオ・アバルジャーニーだった。
 流石、勇者、というわけではなく、
「おいおいおいおいおい! 冗談だろ!? 嬢ちゃんのはじめてを女同士で奪ったってのか!? もったいねえ、」
 突っ込み側の流れは好調。
 だが、それを断ち切る鋼の擦れる音が響いた。
「貴様……成敗してくれるっ!!」
「うっきゃああああ!!」
「殿下っ! お気持ちはわかりますが、ここではお控えに!!」
「とめるなっ!」
「ルーファスッ!! やるんだったら、外行ってやれ!」
 辺り一帯に、一気に殺気の量が増加した。
 あれば、レッドランプが灯り、耳をつんざく警報が鳴るレベルだ。
 耳栓必要。
 それは、彼らの頭上でも同様に。
 普通の人の目には映らないものの、ルーファスになつく炎の精霊の数が増し、他の精霊たちが慌てて逃げだしては右往左往状態で混乱中。
 その影響か、厨房内を照らす灯が点滅した。
 その下で、剣を抜いたルーファスの前に立ちはだかり、必死にとめるカミーユ。
 悲鳴をあげるシュリに、シュリを庇おうと間に立ちはだかるエンリオ・アバルジャーニー。
 椅子を蹴倒し立ち上がる四人を、座ったまま理由がわからないといった様子で見上げる祝福の魔女。
 悲鳴を聞きつけ、鍋を洗っていたグロリアもすっ飛んできた。
「シュリ様、ご無事ですかっ!?」
 しかし、剣を抜いたルーファスを見て固まった。
 どう見ても、一触即発。
「あの、これは、いったい……」
 どういう状況か?
 その場にいなければ、わかるまい。
 よもや、下世話な話から発展して、などという説明は誰もしたくないし、出来ないだろう。
「丁度いい、おまえ、」
 ルーファスがグロリアを見て言った。
 冷えきった声と眼差しで。
「そいつが逃げないよう、取り押さえろ」
「きく必要はありません。下がりなさい」
 間髪置かずして、カミーユからも叱責されているかの声で正反対のことを命じられる。
「は、」
 通常ならば、身分からいっても、ルーファスの命令をきくのが正当だ。
 だが、しかし、カミーユの命を無視するのも躊躇われる。
 グロリアが立っているのは、料理人と魔女の中間地点。
 そいつ、と視線が指すのは、黒一色のドレスを纏ったひとりの女だ。
 それは、すぐにわかった。
 彼女とは正反対の、たおやかとも言える女だ。
 女騎士が太い腕に力をこめて掴めば、骨が折れてしまいそうな骨格をしている。
 はじめて見る顔だ。
 指名手配中の凶悪犯とか、殺人鬼には見えない。
 同性でも見蕩れてしまうような美貌で、男は簡単に騙されそうではあるが、騙されるほうも悪いと思わせる。
 しかも、抵抗する様子はない。
 当り前に、丸腰だ。
 その相手にルーファスは切先を突きつけ、やる気満々で殺気を漲らせている。
 そして、カミーユがそれを阻もうとしている。
 一体、なにが? なぜ?
 騎士道とかそういうものは別にしても、どうしてか、理由が知りたいと思うのが人情というものだ。
 捕えるに容易そうなだけに、尚更。
 だが、先ほどあげた理由から、誰も彼女に説明しようという親切な者はいなかった。
「おやめください」
 女騎士がうろうろと迷っている間に、カミーユが決然たる表情で口を開いた。
 右頬をかすめる横に刃を置きながら。
 なにかの拍子にほんのわずかでも動けば、血をみることは必然。
「魔女であるとはいえ、これといった理由もなく丸腰の女を殺めたとあっては、またアレックス殿下を支持する者たちにつけ込まれもいたしましょう。シュリ様を無体に穢されてお腹立ちはわかりますが、どうかここは堪えてください」
 すると、「穢れ?」、と不思議そうに祝福の魔女が首を傾げた。
「穢れ? 汚れ?」
 シュリも自分を指してのことばに、慌てて顔を掌で拭い、どこか汚れているのかと急いで全身を点検する。
 が、どこにもソースのしみひとつ見付けられなかった。
 どこが汚れているのか訊こうにも、とても訊ける雰囲気ではない。
 それより先に、喧嘩はやめろと言うべきなのだろうが、口を挟もうにも、ルーファスとカミーユの緊迫した遣取りの間に割り込む隙はみつからない。
 それよりも、怖いが先に立つ。
 ぱくぱくとシュリは金魚のように口を数回開け閉めして、結局、閉じた。
 彼女のそんな姿すら目に入っていないのだろうルーファスは、遠慮のない怒鳴り声をあげた。
「かまわん! これ以上は腹に据えかねる! そんなに王位が欲しければくれてやれっ!!」
「殿下っ!!」
 カミーユが叫んだ。
 胡散臭い微笑みも、あぁーあ、と溜め息をつくような気怠げな雰囲気も忘れて。
 ルーファスは剣先を数ミリも動かすことなく、続けざまに言った。
「どうせ近々、継承権は放棄するつもりでいた。早まったところで問題ない」
 魔女と魔女見習いの娘をのぞく、複数の息を呑む音が重なった。
「どういう意味ですっ? それ、本気で言っているんですかっ!?」
 カミーユの声は悲鳴に近い。
 エンリオ・アバルジャーニーさえ厳しい表情を浮かべた。
「本気だ」
 答えるルーファスに、これっぽっちの揺らぎもなかった。
「なぜっ!? 急にどうしたというのですっ!? どこからそんな結論が出てきたのですかっ!?」
「シャスマールとの縁組みは受けてやる。これまで通り、魔硝石の取り引きを継続する条件でな。そして、受けた上で、継承権は放棄する。アレックスは早々に呼び戻して適当な貴族の娘をあてがい、立太子させればいい。それで王妃はトカゲ族となることは避けられる。或いは、王とならぬ者に娘はやれぬとシャスマールから言ってくるかもしれん」
「そんなっ!! シュリ様はどうされるのですかっ!? あれほど捜してやっと見つかったというのに!!」
「わたし?」、と身を縮こませていたシュリが小首を傾げた。
 しかし、これに至っては、皆、ルーファスとカミーユのやりとりに気を取られ、だれの耳にも入らなかった。
「シュリは、イディスハプルを我が直轄領とした上で森に帰す。それでこれから先も、誰にも手出しはされまい」
「フェリスティア様との約束はどうなるのですっ!?」
「約束は守る。フェリスティアが俺に願ったのは、シュリを守ることだ。願ったのはシュリが幸せであることだ。森に帰ることがシュリの望みならば、俺はそれをかなえる」
「……あなたは……」
「おまえには、シュリの名でクラディオンの国を書面上だが復活させた上で、正式に父方の家を継げるよう手配しよう。亡命者扱いとなるが女子爵として独り立ちも出来るし、いまのおまえの器量ならば、後ろ盾がなくともどうにも出来るだろう」
 淡々とそこまで口にして、ルーファスの眉間の皺が濃くなった。
「だが、こいつだけは許せん! シュリを育てたのかもしれんが、この先も害悪をなす者となろう。いまここで剣の錆にしてくれるっ!!」
 ぎり、と奥歯を噛みしめるような声が言った。
 改めて切先が、祝福の魔女に狙いを定められた。
 しかし。
「……冗談じゃない」
 おどろおどろしいまでの声が言った。
 まるで、ルーファスのそれが乗り移ったかのごとく、百年先、千年先まで祟られそうな声で。
 そこに立つ姿は、誰の目にも鬼にみえた。




 ≪ back  index  next ≫ 



inserted by FC2 system