83




 普段、大人しいやつほど怒ると、ということは前にも言った。
 これを詳しくのべれば、どこが怒りのツボかわからず、それまでに蓄積されたものも含めてその度合いも量れず、どうすれば宥められるかがわからない、というのもあるだろう。
 だが、主に語られるのは、意外性。
 常日頃、横暴で知られる人物がたまたま善行をおこなうと、一気に『とってもいい人』に印象を変えるのとおなじ理屈だ。
 架空人物の名がつけられたりもする、例のあの法則。
 それの逆バージョンといったところだろう。
 そして、そこに『美人』の要素が加われば、更に効果倍増。
 『可愛い』ではなく、あくまでも『美人』。
 『可愛い』は愛嬌であり、甘さであるから、怒りの印象を軽減させるものでしかない。
 ハリネズミ族の庭師に代表された通り。
 よしよしと頭を撫でられて、宥められて、あるいは脅されて、丸め込まれればそれでおしまい。
 ところが、『美人』の怒りは他人に付け入る隙を与えない。
 頭を撫でようとした時点で、殴り飛ばされかねない。
 『美人』に求められるのは、他者とは一線を画す孤高であり、高潔さだ。
 高慢さとも言われるけれど、実際はどうであれ、一般的な印象として。
 だからこそ、美人が怒ると迫力があるわけだ。
 意外性と与えるインパクトに、目の当たりにした者は判断に迷うに違いない。
 あるいは、ひょっとしたら、と。
 『可愛いが正義』と言うならば、『美しいが正義』であってもおかしくはない筈だ。
 おそらく。
 違っていたとしても、別に誰も困らない。
 『美人』を怒らせた者以外には。


 次の瞬間、ルーファスの剣が高い音をたてながら、横に薙ぎ払われていた。
 払ったのは細身の剣。
 それがもとにあった場所は、目の前に立っていた彼の側近の細腰。
 側近たるもの常に主の危機に備えるもの。
 そうでない者も多いが、だが、カミーユはこのルールを真面目に守っていた。
 食事の最中も、剣を身から離すことはしなかった。
 まさか、それを守るべき主に向けることになろうとは、本人すらも予想していなかっただろう。
 だが、そんなことを思い返す余裕は、今の彼女にはなかった。
 そんな表情だ。
 所謂、キレていた。
 すっぱり、きっぱり、見事なまでの切り口で。
 そして、その断面を第三者にも見せんとばかりに、猛然と主に向かって斬り掛かっていた。
「よせっ、カミーユッ、乱心したかっ!?」
 いちばん慌てたのは、ルーファスだ。
 なんだかんだ言っても、右腕と言ってもいいカミーユから攻撃される謂れなど彼にはなかった。
 多少のすったもんだはあっても、最終的には味方である者。
 同志とも、戦友とも呼べる間柄。
 だから、ルーファスもカミーユに対してでき得るかぎりの便宜を図ってきたつもりだ。
 そして、今も。
 なにも彼女に対して悪い話をしたつもりはない。
 なのに、瞬間湯沸かし器がとつぜん熱湯を噴き出すどころではなく、大爆発だ。
 蒸気熱を吐きだしながら、屋根もぶちやぶって、遥か上空まで打ち上がっている。
 おおい、もどってこぉおい!
 そんな声も届かないほどの高みへ。
 鋭い切先が、よける先からひゅんひゅん音をたてて、右から左からと飛び回る。
 二度、三度、と軽く刃を合わせてすぐに離れるを繰返した。
 これが、狙いを定めていた祝福の魔女がそうするならば、わかる。
 だが、なぜ、カミーユがこれほどまでに怒っているのか、さっぱり理由がわからない。
 なぜ、ルーファスが親の仇であるかのような瞳を向けられなければならないのか。
「自分がなにをしているのかわかっているのかっ!?」
 繰り出された剣から身を躱しながら、ルーファスは怒鳴った。
 返事は、畳みかけるような正面からの突きだった。
 きん、と硬い音を響かせて、ルーファスの剣はそれを軽く弾いた。
 が、弾いた先から、風鳴りをさせながらの袈裟懸けが襲ってきた。
 それも軽く薙ぎ払ってルーファスは、後ろにステップしながら間合いを取ろうとした。
 しかし、それすらも許さないとばかりに、鼻先寸前を剣先が通りすぎていった。
 とっさに軽くのけぞっていなければ、間違いなくルーファスの顔から鼻はなくなっていただろう。
 深く踏み込んでの充分に体重を乗せた太刀筋は、剣技の教本に載りそうなくらい見事だ。
 実際、カミーユの剣の腕前は、ルーファスも一目置くほどのものだ。
 女性ではあっても、そんじょそこらの騎士ではかなうまい。
 それを知るものは少ないが、伊達に王子の側近をしているわけではない。
 いざとなれば敵を退けられるだけの腕前は有している。
 それもそのはず。
 幼いころからルーファスにつきあって、共に修業に勤しんできた者なのだから。
 身体的なハンデはあっても、それに代わる技をカミーユは身に着けてきた。
 勿論、本気をだせば、ルーファスの方がまだ強い。
 しかし、彼にもカミーユを簡単な相手とは言えない。
 傷つける意味をもたなければ、尚更だ。
「いいかげんにしろっ!!」
 ゴツ、とルーファスは力任せに合わせた剣を刹那に払いのけた。
 荒い石床を飛跳ねるようにして、カミーユは三メートルほどの距離を後退りした。
 が、すぐに崩れたバランスを立て直し、立ち向かってくる。
 身体の重心移動の正確さと脚の動きの機敏さが、彼女にとっての最大の武器。
 軽やかなステップから生みだされるエネルギーが腕を伝って剣先まで届き、男性に負けないほどの威力をもつ。
 力任せになりがちなルーファスの剣に比べ、カミーユの剣は精巧精緻。
 性格がそのまま使う剣にも表れた形だ。
 いやらしいまでに、ルーファスの苦手とする下段からの攻撃を多くしてくることからも。
 この剣の伎倆一点においてのみであっても、カミーユはルーファスにとって味方として頼もしい存在だった。
 背中を任せられるだけの。
 だが、それが、いまは敵。
 こんなに嫌な相手はいない。
 と、いきなり皿がとんできた。
 脂に汚れた。
 テーブルに置いてあったものだ。
 カミーユが投げた。
 ルーファスは、難なく横に避けた。
 皿は彼の脇を行き過ぎてから、がしゃん、と音をたてて床に派手に砕け散った。
 エンリオ・アバルジャーニーが叫んだ。
「やめろっ!!」
 やめて欲しいのは争いなのか、皿を投げることなのか。
「カミーユッ! ルーファスッ!」
 その間にも、二枚目が投げられた。
 今度は、ルーファスの顔面正面に向けて。
 ルーファスは体ごと横に向けてよける。
 が、一瞬、視線が外れたその隙を逃さず、カミーユはあっという間に間を詰めた。
 それに気付いたルーファスの背に、冷たい石の感触があった。
 黒いブーツが、割れた皿のかけらを踏みつけた。
 これを狙って投げたらしい、と気付いた時には既に遅し。
 目前に、怒りに満ちた女の顔を見た。
 キスもできる距離。
 ルーファスに与えられるのは、死の接吻か。
 逃れようにも、逃れられない。
 黒い瞳と琥珀色の瞳が至近距離で火花を散らす。
 否、火花は鋼が擦れ合って起きたもの。
 またもや、腰から胸に向かって伸びてこようという剣先。
 それが身に振りかかる寸前、際のところでなんとかルーファスは己が剣で留めることに成功した。
 しかし、鋭い刃の吐息を首もとに感じる。
 ひとつ間違えば、大量の血を振り撒くことになるだろう。
 そして、そのまま力相撲となる。
 数ミリ単位でついては離れてを繰り返す、鋼の顎門《あぎと》。
 払いのけられない。
 力の強さだけで言えば、当り前にルーファスの方に分がある。
 だが、この体勢。
 背にぴったりと張り付く壁。
 両足は地についているが、それだけだ。
 後ろに退くことも、前に進めることも壗ならない。
 踏ん張りがきかないだけ、力も入りきらない。
 対してカミーユは、腰の入り方も充分。
 深く踏み込んで、全体重をかけて押してくる。
 万事休すか。
 否。
 カミーユにも弱点はある。
 スタミナだ。
 いくら完璧さを見せつけようとも、スタミナ面でルーファスは格がちがいすぎる相手だ。
 だからこそ、先手を取り、早く仕留めるしか方法はない。
 実際、力押しという方法は、カミーユには向かない。
 その証拠に、こうしていても息が荒くなりかけている。
 額に脂汗まで滲ませて、普段からは考えられない表情だ。
 対して、ルーファスにはまだ余裕がある。
 このままカミーユのスタミナ切れを待つのも手かもしれない。
 が、それでは、他の誰かに知られて面倒になりかねない。
 彼にしても、早期決着したに越したことはない。
 できれば、双方無傷で。
 それに、忘れてはならない。
 ここは厨房であり、動く場に限りがあり、人も多い。
 好きにし放題できる兵士の訓練場とは、わけが違う。
 間違った判断ひとつで、怪我人を出すおそれがある。
 どうする、とルーファスは視線だけをすばやく動かして、可能な範囲で周囲を確認した。
 まず、離れた位置に立つ銀髪の娘が目にはいった。
 行く手を護衛につけた女騎士に遮られ、守られながらも、心配そうな顔をしてこちらを見ている。
 そんな表情も、またよし。
 向けられる側として、悪くない気分だ。
 女騎士は、厳めしいしかめ面で、片腕でシュリを制しながら、自由になるもう片方の手に抜き身の剣を握る。
 それでいい。
 フリルのついた前掛けは、ぜんぜん似合っていないが。
 それでも、いざという時にシュリの盾になって守りきれば、恰好などどうでもいい。
 その隣り、黒の女は……もっと、どうでもいい。
 いまは無視だ、無視。
 他に視界に入ってくる、第三者はいない。
 エンリオ・アバルジャーニーが、退避させたか。
 気が利くというより、経験からの措置だろう。
 と、そのエンリオ・アバルジャーニーは、どこへ行ったものか。
 動かした視線の反対側に、大男はいた。
「カミーユ、その辺にしておけ!」
 背後から伸びてきた手が、細い肩を掴むのが見えた。
 引かれた肩に、一瞬だけ、若干、押す力が弱まるのを感じた。
 その僅かなぶんを逃さず、ルーファスは脚を前に出す。
 そして、更につよく肩を引かれたカミーユは、振り払おうと剣を合わせたまま身体を捻り、後ろ蹴りを放った。
「おっ、と!」
 エンリオ・アバルジャーニーは素早く逃げた。
 が、体勢の崩れたその隙をルーファスが逃すはずがない。
 押して身を引き離しながら剣を利き手に持替え、カミーユの剣に力任せに叩き付けた。

 がん! 

 一発で剣が下に下がる。
 取り落とさなかっただけ、流石か。
 だが、それだけで精一杯だろう。
 憎々しげに睨みつける瞳から、いまだ闘志は失われていないにしても。
「ここまでだ」
 ルーファスは言うと、カミーユの肩を押した。
 待ちかまえていたように、エンリオ・アバルジャーニーが背後でカミーユの身体を受け止め、羽交い締めにした。
 痺れているだろう手首を捻り上げ、剣を手放させる。
 床に落ちた剣をルーファスは拾い上げた。
 一難去って、溜め息も出る。
「いつものこったが、剣を抜くのはちょっとやりすぎだ」、とカミーユを羽交い締めにしたままエンリオ・アバルジャーニーが言った。
「こいつはこんなんでも、一応は王子さまだ。宮中で刃物を向けたってことをうるせえ連中に知られただけで、本気で首が飛ぶぞ。おまえさんだって、そうはなりたくないだろうが」
 この男にしては珍しく、本気で心配する声をよそに、カミーユは冷ら笑った。
「そんなのかまいませんよ。それこそ、欲しけりゃこんな首、いくらでもくれてやります」
 聞いた男達の表情が、揃って険しいものに変わった。
「どういうつもりだ」
 ルーファスは問うた。
「俺はおまえに悪い話をしたつもりはない。なぜだ。なぜ、俺に剣を向けた」
「なぜ、ですって?」
 エンリオ・アバルジャーニーの腕に取り押さえられたままの姿勢で、カミーユの顔は嘲りの表情から怒りの表情へと戻った。
「あなたこそ、どういうつもりですかっ!? 欲しいものは、すべて目の前に揃っているというのに、それを目の前にして継承権放棄!? 冗談じゃない!! これまでだれがどれだけ苦労してきたと思ってんですかっ! 後ろ盾なくしてやっていける!? やっていけますよ!! けれど、そのために、あのド阿呆の貴方の弟君に仕えろっていうんですかっ!! それで、政に口も出すこともできなくなって、こんちくしょうのどうしようもない馬鹿野郎の禿げオヤジ共に頭を下げ続けろって言ってんですよ、貴方はこの私にっ!! そんなの国を潰すって言っているのと同じことです! 私に二度も住む国を失えって言うんですかっ!! すべてを失えと!! そんなこと許せるはずがないでしょう!! そんなの死んだ方がまだマシだっ!!」
 叫ぶ声は怒りと共に、底知れない哀しみに溢れていた。




 ≪ back  index  next ≫ 



inserted by FC2 system