突然のカミーユの激しい怒りを目の当たりにして、シュリはなにも考えられなくなった。
なぜとも、どうしようとも、どうすべきとも思い浮かばなかった。
ただただ驚き、まばたきすら忘れた。
これだけ獰猛な怒りを見たのははじめてだ。
これまで接してきたルーファスの怒りさえも上回る。
あれもあれで怖かったのだが、いまのカミーユの怒りの前では霞んで感じる。
全身でルーファスに突っかかる姿は、窮地に立った時の森の獣を思いださせた。
襲い来る敵を前に、子を守る母親のような。
身を挺し、命さえ投げ出す覚悟で立ち向かう姿以上に決死の。
だからこそなのだろう。
周囲にいた精霊たちが、種類を問わず一斉にその場からいなくなった。
逃げたのではない。
消えたのだ。
いま、最後までルーファスの傍に残っていた炎の精霊もかき消された。
一瞬で。
最初から、なにもいなかったように。
カミーユの放つ怒りの感情に消された。
「完全にキレやがった!」
エンリオ・アバルジャーニーが舌打ちする声で言った。
「ったく、完全に周りが見えてねぇ。嬢ちゃんたちは下がっていろ、いや、一度、ここから出た方がいいのか?」
「私たちのことは気にするな。それよりも、大将はほかの者たちを逃がすなりした方がいい」
落ち着いた声で、彼女の師匠が答えるのが聞こえた。
「ああ、そうか、おい、あんた! なにがあるかわからねえ、嬢ちゃんたちを守れよっ! このためにいるんだろっ! ルーファスまでキレかかったら、迷わず嬢ちゃんたちを連れて逃げろ!! おい、野郎ども! 急いで、一旦、避難だ! 急げ!!」
エンリオ・アバルジャーニーの口早に出した指示に従い、それまで騒がしくしていた厨房にいた人びとが動く気配を感じた。
その間も、剣の打ち合う音がつづいた。
「なんて……見事な……まさか、こんなに……」
息を呑むような、呟く声があった。
エンリオ・アバルジャーニーに代わってシュリの前に立った人だ。
腕でシュリが前にでないように制している。
だれかはよくわからない
隣りに立つ師匠が言った。
「これだから人の感情は始末におえない。いとも容易く精霊を還してしまう。シュリ、いまのが見えたかい」
訊かれたのは、精霊たちが消えたところを、だろう。
「はい」
「人の喜びや哀しみは精霊に大して影響を及ぼすものではないが、激しい怒りは精霊の存在を無に還してしまう。なぜだかわかるかい」
「……わかりません」
「そうだね。わたしにもよくわからない。でも、こうして見ていると、怒りに駆られた者とは、目の前にあるすべてのものを消してしまいたい、我が身すらもなくしてもかまわないと思っているように感じるよ」
「精霊がそれに応じているのですか」
「応じるというよりも、耐えきれないんだ。身を壊してしまう。人で言えば、竜巻の真ん中に放り出されたようなものだ。そして、精霊がいなくなって、ここの空気が急に澱んだのを感じるだろう」
「……はい」
それまであった空気の流れが止まってしまったかのように、シュリには感じる。
重い圧迫感に、若干の息苦しさも。
「師匠はだいじょうぶなんですか?」
精霊の現し身《うつしみ》であるという魔女の身体には影響はないのだろうか。
平気そうにも見えるが、心配にもなる。
「ああ、私はこの程度ならば大丈夫だ。ひとりだけのことであるしね。戦となれば、ちがってくるが。ああ、でも、あの男が同様の怒りをみせれば、すこし辛いかな」
あの男、ルーファスだ。
いまは怒鳴っていても我慢しているのか、本気で怒っているようすにはみえない。
カミーユの剣をいなしてはいるが、勢いに押されているようだ。
もし、もっと追い込まれでもしたら、と想像してシュリは、ぞっ、とした。
「師匠、ここを離れた方がいいんじゃないですか」
そう言うと、思いがけず、笑みが返された。
「心配しなくとも、大丈夫だよ。それに、そうなった時に近い遠いは、ほとんど関係ないしね。どこにいようと同じだよ」
「そうなんですか?」
「そう。それに、あの男ならば大丈夫だろう」
まだまだ小僧だけれどね、と付け加えられる。
「でも、」
「いまのところ怒りはしても、さしずめ激しい夕立か、大きくてもふつうの嵐程度だろう。濡れる程度でなにがあるわけでもないだろうさ」
「そんなことがわかるんですか?」
「ああ。だいたいの予想はつく。まあ、おまえが傷ついたりしたらどうかはわからないけれど……そういうことはないだろうし、させないから安心しなさい」
シュリは首を傾げた。
と、言っている間に皿が投げられて、床に落ちて割れた。
それだけで、シュリは心臓が止まる思いがした。
「やめろっ!! カミーユッ! ルーファスッ!」
戻ってきたエンリオ・アバルジャーニーが叫んだ。
みるみるうちに、ルーファスが壁に押し付けられた。
本当に大丈夫なんだろうか?
はらはらしながら、シュリは成り行きを見守った。
「ほら」、と師匠が言った。
「ごらん。炎の精霊が生まれた。あそこ、あの男の肩のところ。ほら、また。ああ、でもまだあの娘の怒りにあてられてすぐに還ってしまうけれど」
あ、とシュリも声をあげた。
「はじめて見ました……生まれるところ」
炎の精霊たちが現れては消えるを繰返す様子は、まるで火花が散っているかのようだ。
「あれは、あの男から自然と発せられる魔力と気持ちに応えて生まれ出づるものだよ」
「気持ちに応える? でも、王子さまも怒っているんじゃないんですか」
ルーファスの表情は、見るからに険しい。
「確かにそう見えるけれどね。でも、怒りとはちがうものなんだろう。でなければ、精霊は生まれないよ」
「……どうちがうんでしょうか」
「さてね。私にはその辺の区別は疎くてわからないけれど、でも、あの男は会えばいつも怒っているが、精霊たちは逃げはしても、消えはしないだろ」
「あ、そう言えばそうですね」
思い出してみれば、いつもふよふよと炎の精霊たちがルーファスの周囲に纏わりついていた。
どんなに怒鳴り散らしていても。
「つまり、そういうことなのだろう」
風のような声が答えた。
「人族もこの世界を構成する存在のひとつであり、ほかの生き物たちとなんら変わるものではないということなのだろうな。この世にあるすべての存在が、声なき声で呼びかける。土であり、水であり、樹であり、草であり、その辺に転がっている石ひとつひとつであっても。それは万物に散らばる魂の声と言えるものかもしれない。あるいは、そこに生きて死んでいったものたちの残した思念であるか。大いなる世界はそれに応え、形作る」
「魂の思い……それが、精霊を生み出すのですか? だとすると、精霊ってなんなんでしょう」
シュリは問いかける。
すると、さあね、と彼女の師匠は咽喉で笑った。
「ただの思い付きだもの。ほんとうのところは、私にもわからないよ。精霊は精霊、としか答えようがない。もう少し長くいれば、わかることもあるかもしれないけれど。でも、己が何者であるかなど、誰にも答えられるものではないだろう。おまえはすぐに答えられるかい? おまえは何者だ、と問われて」
はぐらかすように答える。
いじわるだ、とシュリは思った。
「……いいえ」
「だろうね。ただ、ひとつだけ確かなことは、おまえも私も世界を構成するひとつの存在であるということだ。ここにいる誰もがそうであると同様に。そして、ひとつひとつ、ひとりひとりが世界そのものでもある。だから、魔力を通じてあの男の呼びかけに応え、精霊は生まれもする」
「……意味がよくわかりません。難しいです」
「いつか、わかるよ」
師匠のことばに、シュリは悄然とした。
ほんとうにわかる時が来るのだろうか。
とても疑問だった。
やんだ音に視線を隣りから周囲に巡らせば、あれだけ激しくやりあっていたカミーユはエンリオ・アバルジャーニーに取り押さえられ、沈み込んでいた。
床にへたりこみながらもその表情はいまだ厳しいものではあったが、輪郭が揺らいで見える。
「私に二度も住む国を失えって言うんですかっ!! すべてを失えと!! そんなこと許せるはずがないでしょう!! そんなの死んだ方がまだマシだっ!!」
発せられる声は鋭くあったが、波立ちもあった。
それに応えるように、シュリは止まっていた空気がふたたび動き始めたのを感じた。
ほんの僅かな流れを、肌に感じた。
その頼りなげな流れにのって、精霊たちが集まってきた。
ルーファスの力から発生したのだろう炎の精霊たちも形を留め、ゆっくりと羽ばたきを繰返していた。
「おや、ずいぶんと大きいのが出てきたね」
師匠の声に視線の先を辿れば、ルーファスの足下に赤い塊が見えた。
子犬のようだ。
炎の毛色をもつ。
丸い身体に、ふたつの尖った耳はピンと立ち、しっぽはふさふさ。
「かわいい」
思わずシュリが口にすると、隣りで黒い帽子が傾けられた。
「犬か、それとも、オオカミの子か。賢そうだし、こめられた魔力も強そうだ。成長すれば、人の目にも映るようになるだろう。よい使い魔になりそうだ。でも、人の間で暮らすには、まだ幼い。間違ってそこら中を炎で焼きかねないな。私が連れ帰った方がよいかな」
子犬らしき精霊は動くルーファスの足をよけると、そのままカミーユのもとへと歩を進めた。
そして、床につく膝に前脚をのせると、身を伸びあげて舌先で頬を舐めた。
なんども、なんども、一生懸命に。
「優しい子だね」
シュリの師匠は目を細めて言った。
「あれが見えれば、千のことばを紡ぐよりも気持ちが通じるだろうに」
寄り添う心の形。
「いいなあ……」
シュリの視線は、カミーユに張り付いたままの子犬に釘付けだ。
撫でたい、かわいがりたい、と声にださなくても丸わかりだ。
そうしているうちに、次第に他の精霊たちも集まってきては、カミーユの周囲を取り囲んで同じように慰める仕草が見られた。
まるで、カミーユが見えない大きな手で頭を撫でられているかのようにシュリには見えた。
突然、あー、と迷う声が上がり、エンリオ・アバルジャーニーがカミーユから手を放した。
そして、シュリの方を振り返ると、面倒臭そうに言った。
「おい、そこのあんた、もう戻っていいぞ」
あんた、と呼んだのは、シュリのことではないらしい。
彼女の前に立つ人だ。
「は、ですが」
ちら、とシュリを振り返った。
そうして、シュリもようやく男性と思いこんでいた人が、女性であることを知った。
大きな女性だ。
シュリよりも一回り以上、大きい。
茶色の髪も、結う必要もないくらいに短い。
しかし、だれなのか、どうしてここにいるのかわからなかった。
フリルのついたエプロンをつけているところをみると、厨房の者だろうか。
それにしては、恰好がちぐはぐに感じた。
シュリを通り越して会話は続けられた。
「もうおさまったし、危険はねえよ。鍋洗いをつづけてくれ。これ以上なにかあっても、普通の人間のあんたにゃあ、対処しきれんだろうよ」
「普通……」
行け、とルーファスが黙ったままわずかに顎を動かした。
「さあ、行った、行った」
エンリオ・アバルジャーニーが、しっ、しっ、と獣を追い立てるように手を振った。
「では、失礼します」
女性は釈然としなさそうな様子をみせながらも、頭を下げて立ち去っていった。
「じゃあ、俺も厨房の連中を呼び戻すかな。片づけもせにゃならんし、まあ、皿二枚ですんだのが不幸中の幸いだな」
エンリオ・アバルジャーニーはだれに言うでもなく言うと、女性の後を追うように行ってしまう。
「カミーユ」
ふたりが場を離れるのを待っていたかのように、ルーファスが口を開いた。
「おまえは勘違いをしている」
シュリにはやはり、怒っているようにしか見えなかった。