エンリオ・アバルジャーニーにとってルーファスたちは、息子や娘といってもいい年齢だ。
出会って十年経とうが、今もクソ生意気なガキでしかない。
その危うさも含めて。
料理人である彼にしてみれば、人間はみな身分など関係なく、食べて、糞して、やることやって寝る生き物だ。
肩書きを前にして体裁を整えはしても、敬う気はない。
それよりも、その人そのものをみる。
彼の作る料理をうまいと言って残さずたべる者は、真直ぐな良い人間だ。
身体が悪いわけではなく残す者は、小心者のつまらない人間。
残しながらうまかったと言う者は、理屈っぽく、愉しむことを知らない人間。
好き嫌いのある者は、自分の殻に閉じこもりがちな甘ったれ。
ケチをつける人間は、見栄っ張りのろくでなし。
黙って残さず食べる者が、いちばん難しい。
不器用な実直者か、もしくは、なにも興味がない感謝をしらない人間。
戻ってきた皿が語る。
その点、ルーファスとカミーユは性格が多少ひねくれてはいても、心身ともに健康だ。
なんだかんだで傷ついても、自分で直そうとしているし、直せている。
今のところ。
特にルーファスについては、同性ということもあるが、自分と同じ匂いを感じている。
本来ならば、こんな宮殿にいるよりも、市井で自由に振る舞っている方が、さぞかし面白い人生を送れるだろうと思う。
大成功を収めるか、生活破綻者となるか。
どちらであっても、起伏に富む、冒険に満ちた人生だろう。
だが、運命とは皮肉なもので、一番、向いていなさそうな将来をルーファスに用意した。
国を治める王の息子だ。
だから、たまに難儀だと感じる。
こんな風に、人の上に立つ者の顔をしている時など。
「厨房の者たちに口止めはしてあるだろうな」
「ああ、おまえらが騒ぐのはいつものこったからな」
「剣を抜いたことは」
「安心しろ。ここにいる者は、いつもおまえに扱き使われているカミーユの嬢ちゃんに同情している。多少、激しかったにしても、キレたのにも納得だ。だれかに言いつけようなんて気は起こさねえよ」
そう答えれば、当のカミーユが立ち上がりながら複雑そうな表情をうかべた。
「そうか」
ルーファスは特になにも言うことなく、頷いた。
「まあ、とりあえず、ここは仕切り直して、」
いま、デザートを出すからそれ食って茶でも呑んで落ち着け、と言おうとしたところ、
「仕切り直し……」
ルーファスの声に途切れた。
「そうだっ、貴様っ!! 覚悟しろっ!! いまここで成敗してくれるッ!!」
ちゃきっ、と剣の鍔が鳴った。
その言葉の向かう先は、ちゃっかりと元の席に戻ってひとりグラスを傾ける魔女。
――そこまで戻るかあーーーーーっっ!?
「まてまて、ルーファスっ! すこし落ち着けっ、なっ!」
せっかく収まったところを、また荒らされても困る。
厨房では、魚は捌いても人は裁かない。
おそらく、相手が魔女であってもそれに該当するだろう。
当然、とめた。
全身で。
熊をも受け止める力で。
が、
「これが落ち着いていられるかっ!! 貴様には許せるのかっ、なにも知らないのをいいことに、惚れた女に瑕がついたんだぞッ!!」
「悔しいのはわかる。わかるが、すんじまったもん仕方ねえだろうが。嬢ちゃんは気の毒だと思うが、おまえの口だすことでもあるまいっ!」
「権利ならある! 妻の名誉にも関ることだ! とめるなっ!」
「妻っておまえ……」
本人の頭の中では、既に妻帯者らしい。
恋の病に、とは言うが、こんな状態では言い聞かせたところで聞きやしないだろう。
というより、まったく無駄だ。
かくなる上は、力づくで抑え込むしかない。
だが、援軍が必要だ。
「カミーユ! おまえも手伝え!」
「……顔でも洗ってきます」
逃げた。
すたすたと足音をさせて、みるみる遠ざかっていく背中。
さっきのあれの後では致し方ないのかもしれないが、立派な職務放棄だ。
というより、
――薄情者めーーーーっ!!
いかに野生の熊をも倒すエンリオ・アバルジャーニーであっても、寄る年波には勝てない。
なんとか持ち堪えてはいるが、これから絶頂期を迎えるだろうルーファスにくらべ、分が悪いとしか言い様がない。
事実そうなのだろう。
しかし、ここで踏ん張らないわけにいかない。
まだまだ、若い者には負けん、の気構えで腰を落とす。
「師匠!」
心配なのか、シュリも叫んでいる。
「師匠、王子さまをなんとかしてあげてくださいっ! 発作を早くとめてあげないと、また怪我しちゃいますうっ!!」
――発作?
「なんのことだい」、とのんびりと赤ワインを手酌で呑む黒い女が、エンリオ・アバルジャーニーと同じ疑問を発した。
「だって、発作なのでしょう!? 師匠なら治し方を知っているのではないのですか!?」
「発作? あれを病気というのかい。あれのどこが?」
と、エンリオ・アバルジャーニーと押し合い真っ最中のルーファスを指さす。
「だって、そうなんでしょうっ」
「どうして」
「だって、後ろに、中かからかもしれないですけれど、ぬろんぬろんのでろんでろんがっ」
「ぬろんぬろんのでろんでろん? なんだいそれは。そんな精霊、みたことはないが」
「王子さまの後ろに……えっと、見えないですけれどあるっぽいっていうか、うようよしたのが。あれって、病気を抑える為に、うちにいた時に師匠が施したんじゃないんですか? 怒りっぽくってすぐに暴れるのって病気だから、これ以上、発作をおこして怪我しないよう抑えるために!」
ずる。
エンリオ・アバルジャーニーの足が滑りかけた。
「なんでそう思うんだい」
魔女の問いかけは平静そのもの。
その前で、シュリは力説する。
「だって、あれから王子さまの態度が急に変わったから! それで、うようよしたものがいるような気がしてっ」
「どう変わったんだい」
「急に優しくなりました。怒鳴らなくなったし、脅したりしなくなりました。丁寧に話してくれるようになりました。親切にもなりました。ご飯を持ってきてくれたり! すぐに、ぎゅっとされたり、くっついてくるのは、困りますけれど」
――おおい……
突っ込むべきなのか、どこに突っ込むべきなのかわからない。
しかし言うに事欠いて、うようよにぬろんぬろんのでろんでろん。
エンリオ・アバルジャーニーは全身から力が脱けていく思いがした。
というよりも、腰砕け。
それは、彼だけではなく、目の前の当事者もそうであるらしい。
エンリオ・アバルジャーニーに半ば寄りかかるようにして、がっくりうな垂れていた。
「師匠には原因がわかっているのでしょう?」
わかっていないのは、シュリだけだ。
だが、祝福の魔女は愛弟子を笑うことなく、その名を呼んだ。
「シュリ、それはおまえの勘違いだよ。あの男は怒っていても、病気で発作を起こしているわけではなく、私はあの男になにもしていない」
その通りだ。
「え、そうなんですか? 発作じゃないとすると、じゃあ、なんなんですか?」
「求愛行動だろう。さっき言っただろう、あの男はおまえを番の相手にしたがっているのだから」
ずるり。
またもや、エンリオ・アバルジャーニーは足を滑らせかけた。
――どうしてそうなるっ!?
だが、話を聞くシュリに、疑問を感じた様子はない。
ええっ、と緑の瞳が丸く見開き、心の底かららしい驚きの声があがった。
「教えただろう、身体を大きく強く見せることで、雌にアピールする。他の番候補となる雄と争うものもいるだろう。それにより、自分との間の子は、やはり強く丈夫だ、と示すわけだ」
「ええ、じゃあ、最初からそうだったんですか? でも、とっても怖かったですよう」
「そういうものだよ。繁殖の季節をむかえた動物たちの行動を見せてあげただろう。雄の行動に対し、雌は最初はえてして怯えるものだ。鳥などの巣やダンスを披露するものはまた違うが。ああ、でも、ここにおまえを連れてきたのもそうだと言えるな。自分の巣をみせて、子育てに充分な環境を提供する姿勢をみせているわけだ」
「へえ、そういうわけだったんですかあ。全然、気がつきませんでした。あ、じゃあ、ご飯を持ってきてくれたのも!?」
「ああ、動物の種類に関係なく、よくある行動だな」
魔女は、尤もらしく頷いた。
「どうしよう、私、なにも知らずに食べちゃいましたっ!! それって、求愛を受けたってことになるんでしょうか!?」
「さて、先ほどのあの男の口振りでは、そうは思っていないようだったが。人族はそれほど単純ではないようだし、求愛行動は個々に違うようだ。これといった形式はないようだから、おまえが勘違いするのも無理はないだろう。それに、どの獣でさえも一回の求愛行動で雌が受け入れることは滅多にないようだから、そう心配することもないだろう」
エンリオ・アバルジャーニーは、どっと押し寄せる波に呑み込まれる己を感じた。
抗う間もなく、疲労困ぱい。
なんだろう、この師弟は。
見た目は黒髪の美女と銀髪の美少女であるのに、なんとも残念な気持ちになる。
そう、残念だ。
残念なほどにずれまくっている。
そして、本人たちにその自覚は、欠片もないようだ。
エンリオ・アバルジャーニーは胸の奥からせり上がってきた大きな息の塊を吐きだした。