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 はあぁっ。

 奇しくも、ルーファスのそれと重なった。
 顔を見れば、情なさそうな表情が浮かんでいる。
 久し振りに見た顔だ。 
「いくら森にひとりで暮らしていたとはいえ……いや、それにしても、」
 愚痴とも独言ともつかないことばをぶつぶつと呟いていた。
 気持ちはわかる。
 エンリオ・アバルジャーニーは、ぽんぽん、と張りを失った背を軽く叩いてやった。
 結果的にルーファスの怒る気が失せたのは良かったが、不憫としか言いようがない。
 おなじ男として、余計なお節介のひとつも焼きたくなった。
「あー、魔女さんよ、余計かもしれないが、ひとこと言わせてもらっていいか」
 見た目は美女としか表現のしようのない女に声をかける。
「なんだ」
 形のよい赤い唇が答えた。
 だが、そそられない。
 男の本能につながる琴線を刺激するなにかが、まったく感じられない。
 不思議なほどに。
 同じ綺麗でも、シュリの方がまだ食指が動く。
「人間と獣を一緒くたにならべるのは、ちぃっとばかし違うんじゃねえか」
「そうなのか?」
 おなじ小首を傾ける些細な仕草にしても、出来のいい綺麗な人形を前にしている感じだ。
「ああ。確かにこいつはすぐに腹を立てもするが、まだ若いってこともあるし、そうせざるを得ないっていうか、まあ、その時々でいろいろあんだよ。他の連中への牽制やら示しをつけるためとかな。簡単にいやあ、人は獣とは違って、女や餌を取りあったりテリトリー守るために、すぐにその場でやりあえるほど単純じゃねえってことだ。それをひと括りにしちまうのはどうかと思うぜ」
「そうなのか。人族も動物の一種だろう? 私には同じに見えるが」
「いや、そうかもしんねえけれど、人間には獣にはねえ複雑な感情ってもんがあるだろう? そういうところで違うのさ」
「ああ、言われてみればそうかもしれない。私がその辺をよくわかっていないことは認める」
「だろ? あんたの言う繁殖方法ひとつ取っても、獣と人のそれじゃあかける手間がちがうんだよ。中にゃあ、即物的にやっちまうやつもいるが、そんなんは一時しのぎのもんだ。そういう関係は、長続きするもんじゃねえし、させるもんでもねえ」
 ふ、と魔女の黒い瞳が閃いてみえた。
「そういうものなのか?」
「ああ。本気でガキをこさえたきゃあ、そんなことはしねえ。獣とちがって、一年やそこらで人間の子供は一人前になんねえからな。十数年はかかるし、子を育てるのに女は必要だ。ただ強いってだけじゃあ、滅多に人間の女は男に靡かねえもんさ。その上、こどもが一人前になるまで引き留めておくにゃあ、男は誠心誠意尽くす必要があるってことだ。女房こども養ってくための環境も含めて、覚悟もみせなきゃなんねぇ。いい加減なこたあ出来ねえってことさ」
「ああ、確かに人族のこどもを育てるのは大変だ。それは、わかる」
 黒い瞳が、隣りに立つ養い子を見た。
「だろ?」
 ふう、やれやれ。
 納得してくれたか、とエンリオ・アバルジャーニーは安堵した。
 神聖なる職場である厨房でする話でもなかったが、誤解しっぱなしというのも今後のためにならないに違いない。
 しかし、やはり、魔女の感覚は人とはずれているものらしい、と思わずにはいられない。
 その魔女は、満足そうに言った。
「では、子をなす意志はなく、人族の男女がこう……性交渉を持つということに、大して意味はないのだな」

 ――そういう納得の仕方かぁーーーーっ!!

「いま、交尾とか言いそうになっただろう!」
「気にするな。長年の認識による癖だ」
「癖? 癖なのかっ!?」
「ああ、ザムドにも言われた。動物といっしょにするなと」
「そりゃ、言われるだろうよ」
 まったく、調子が狂う。
「待て、」
 と、ルーファスが声をあげた。
 復活したようだ。
「おまえ、我が祖ともよくこんな話をしていたのか?」
「一度だけだがな」
「以前も思ったのだが、おまえと祖は、いったいどういう関係だったんだ。投げ飛ばしたことがあるってことは、敵だったのか」
 その表情は、訝しむというより怪訝。
「いや、そうではない。もとは、大乱の真っ最中に私のこの身となった娘とザムドは出会い、およそひと月ほど行動を共にした関係だ」
 答える表情は、あくまで真面目。
「恋人だったのか?」
 でなければ、交尾だのなんだのという会話もないだろう。
 エンリオ・アバルジャーニーも好奇心で問いかける。
 だが、首は横に振られた。
「残る記憶からいって、そうではないようだ。好意はあったようだが、それらしいことはなにもなかった。互いに怒鳴りあったり、剣を交えて戯れた記憶が残っているところからして、仲間といわれる関係だったようだ」
「反乱軍に加わっていたのですか」
 いつの間に戻ってきたか、カミーユも会話に加わった。
 エンリオ・アバルジャーニーは軽くにらみつけてやったが、無視された。
「一時、厄介になっていた程度だ。娘は師である祝福の魔女の遺言というのか、還る以前からの言い付けに従って、ほかの魔女に会いにいく旅の途中だった。その時に戦に巻込まれ、ザムドたちに拾われたようだ」
 己のことを語っているにもかかわらず、口調は他人事。
 彼女が六百年を生きる魔女ということは、エンリオ・アバルジャーニーも本人の口から紹介をうけていたが、こうして話を聞いていると、なるほど、と思う。
 ずれっぷりがハンパない。
「交尾だなんだという会話も、戯れてのその時か」
 ルーファスが納得した様子で言えば、いいや、と魔女はまたもや否定した。
「それは、私の方だ。魔女になってから、ザムドが娘に急に執着しはじめてな。返せだのなんだのと、まったくうるさいほどだったよ。だから、一度だけだが肉体的に行為をもたさせてやった。その話は、その時だ」

 なんだとぉぉぉぉおおおっ!!

 エンリオ・アバルジャーニーとルーファスは、同時に怒鳴り声を張り上げていた。
 まったく、魔女のずれっぷりに限度はなく。
 否、このずれっぷりこそが、魔女なのか。
「さっき、そう答えただろう」
 動揺する男ふたりの前で、答える女の顔になんの悪びれた様子はない。
「いつ、そんなことを言った!?」
「さっきだ。繁殖行為をどうとかでおまえたちが騒いだだろう。したとかしなかったとか。それで、大将が『したのか』と訊ねたから、『性交のことか』と聞き返したら頷いたので、『した』と答えた」
 言われてみれば、そんな会話をしたような気もする。
 遠い昔のことのように思えるが。
 エンリオ・アバルジャーニーはルーファスを見た。
 ルーファスも彼を見た。
 なんとも気まずい空気が流れた。
「……そういう意味でしたか」
 カミーユが呟いた。
 三人揃って、シュリへ視線が向かった。
 ぽかん、とした顔で、突っ立っていた。
 彼らがなんの話をしているのか、さっぱり要領を得ていない表情をしていた。
 無垢な表情。
 どこから見ても可愛いが、いまは放っておく。
 どうして、この娘がすでに経験ありと勘違いしてしまったのか。
 己の穢らわしさを目の当たりにしてしまったような気分に、エンリオ・アバルジャーニーは目を逸らした。
 それは、ルーファスもカミーユも同様のようだ。
 魔女が、やっと思い付いたように問い返した。
「ひょっとして、シュリの話だったか?」
「そうだよ、その話だよ。その嬢ちゃんは生娘なのか、ってえ訊いたんだ」
「当り前だろう」
 答えを聞いて、ますますがっくりと肩も落ちる。
 ルーファスにいたっては、再起不能の状態に近い。
 テーブルに片手をつき、うな垂れている。
 魔女は言った。
「魔女になるには、生娘であることも条件のひとつだ。この娘に選択の自由を失わさせるわけがない」
「ということは、あなたもそうだったわけですか」
「そうだよ」
 興味津々でカミーユの追い討ちをかけるかのような確認も肯定された。

 ――勘弁してくれ!

 つまり、これまでの話を総合すれば、あれやらこれやら、あんなこともあったりなんかして。
 くんずほつれつのドロドロとした人間関係が、考えるまでもなく頭の中に浮かんでくる。
 メロドラマ並みの。
 それこそ、うようよだか、ぬろんぬろんだか、でろんでろんだかなのだろう。
 登場人物は、伝説にもなっている人物たち。
 英雄とか、傾国の美姫とか呼ばれている者たちの話だ。
 その生き証人の生の告白なんぞ、今更、聞きたくはない。
 ある意味、この国の黒歴史かもしれない話など、この年になって聞いたところでなんになる。
 伝説は伝説のままでいい。
「コーヒーいれてくるわ。デザートを持ってきてやる」
 エンリオ・アバルジャーニーは言って、その場を離れる。
 当初、予定していた通りに。
 それを合図に、残った者たちは、おとなしく席に戻ることにしたようだ。
「大将、わたしがやります! 大将は殿下たちのところに戻ってもらっていいですよ。すぐに持っていきますから、任せて下さい! 上手に淹れてみせます!」
 コーヒーを淹れようとしていると、部下のひとりが彼のところへやってきて言った。
 張り切ったその様子を見て、エンリオ・アバルジャーニーは、ゆっくりと首を横に振った。
「いや、俺もたまにゃあ、こういうこともしねえとな。ゆっくり時間をかけてやることに意味があるってえのか、初心にかえるってのかなあ」
「はあ」
「年を取ると、そういう時も必要なんだよ」
 己よりも二回りは若い部下に言って聞かせる。
「はあ、あの、大将、すこしお疲れなのではないですか。大丈夫ですか?」
「ああ、すこしな。でも、まあ、大したことはない。気にするな」
「はあ、ならいいんですけれど」
 釈然としない表情で、部下は別の場所に移っていった。
 ふ、と視線を巡らせた先に、ぴかぴかに磨かれた鍋が積まれていた。

 ――俺も年をくったもんだ。

 脈絡もなくそう感じて、溜め息が溢れた。
 



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