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 ――おまえが、おまえ達がそう望んだのだろう? 皆、美しい姫君が生き返ることを望んだ。もちろん、人間として。おまえは人の上に立つことを望み、姫君がおまえものになることを望んだ。この身となった娘はそれをかなえることにした。祝福を与えた。もとよりディル・リィを守り、祝福の魔女になるよう育てられた者だ。だから、人としての生をディル・リィに譲り、魔女の器となることを選んだ。それのなにが不満だ?

*


 人の記憶は曖昧だ。
 覚えていなければと頑張ってみても、次の瞬間には忘れてしまうことはよくあること。
 あれはどこへいった。
 これはどこだ。
 そんな日常光景は、めずらしくない。
 なぜ忘れてしまうのか、理由は色々あげられてはいるが、はっきりと突き止められてはいない。
 世界中の研究者が研究中。
 だが、忘れたと思っていても、なにかの拍子に思い出したりもする。
 それも不思議。
 ある研究者曰く、人の記憶は忘れていても消えたわけではない。
 人生すべての記憶は、脳の中に残っている。
 ただ、それを取り出すことができずにいるだけだ、と。
 そして、記憶は感情と深く結びつき、記憶を呼び覚ますために感情は重要な鍵だと言う。
 では、別人格の記憶を宿し、感情が薄い魔女の場合は?
 言えるのは、もっと不思議だ、ということだ。


「よい機会だから、私が魔女になった時のことを、すこし話してあげよう」
 テーブル席にもどったシュリ達に、祝福の魔女は語りはじめた。
「娘とザムドがどういう関係だったかは、残る記憶からはっきりと推し量ることはできない。ただ、ふたりの間に、私には理解が追い付かない感情があったことは確かだろう。ザムドたちと共にいた短い期間の記憶は、十八年の歳月の中で、最も印象深く刻みつけられている。おまえほどではないが、それまで深い森の片隅で、人と交わることをできるだけ避けて暮らしてきた娘にとって、とても刺激的な毎日であったようだ」

 娘は森奥深くにある小屋で育った。
 物心ついてからは、近隣の村の人びとの依頼で、たまにまじないをしたり薬草を渡すぐらいの付き合いをもつ程度で、ほとんど人と関ることはなかった。
 魔女の養い子と言われるだけで、己が何者か考えることもなかった。
 ただ、育ての親である先代の祝福の魔女の教えを聞き、いつか自分も魔女になることを信じて疑わなかった。
 そして、そうあることを望んだ。
 魔女になるということが、どういう意味をもつかも知らずに。
 先代の祝福の魔女はそのことについて、娘になにも語らなかったから。
 そして、時が来て、娘は幼い頃より傍らにあった精霊を連れて旅立ち、男に出会った。
 男は、もとは傭兵を生業としていた。
 物心ついたころにはすでに両親はなく、貧しい者たちが集う街の片隅で育った。
 育つというよりも、単に死ななかっただけだ。
 常に、餓えと憎しみを脇にはべらせて生きていた。
 生き延びるためになんでもやった。
 おなじ境遇の仲間と一緒に、盗みも殺しも、悪いと言われることは一通りなんでもやった。
 己が何者かなど考えたこともなかったし、考えようという気も起きなかった。
 ただ、男はひとかどの者になることを望んでいた。
 従うのではなく、従えさせる者に。
 また、より多くの富を得ることを欲した。
 長じて男は、力によってそれらを得ようとした。
 滅多に敵うものなどいないくらいの強者となり、多くの者が男に従った。
 しかし、まだ男の望みには遠かった。
 男は、男が望むものを持つ者から奪うことにした。
 結果、それは国への反逆、反乱となった。
 そして、男は娘に出会った。
 望みを持たぬ者と多くを望む者が出会い、事は成った。

 つまり、とカミーユは、途中、運ばれてきたコーヒーに口をつけて言った。
 エンリオ・アバルジャーニーはそれら置くと、逃げるようにその場を離れ、席には残っていない。
「貴方もザムディアック公もなるべくしてなった、というわけですか」
「そうだ」、と祝福の魔女は頷いた。
「しかし、事が成ったにも関らず、ザムディアック公は納得しなかった。貴方の身体の元となった娘を求めた。それで、貴方は仕方なくかどうかはわかりませんが、公と肉体関係をもった、と」
「そうだな」
「解せませんね、恋人でもなかった者を。想いがあったのならば、共にいた時に口説くなりなんなりしたでしょうに。失ってはじめて惜しくなった、とか?」
「いや、そうではない。おそらく、外貌《みため》のせいだ」
「外貌?」
 魔女は、唇の端にデザートのクリームをつけたシュリの顔をしげしげと眺めて言った。
「以前、端だけ話したことがあったが、先代は赤ん坊だった娘を拾った時、ディル・リィを精霊に預けることを思いついた。ディル・リィの魂と娘の魔力を交換することで。しかし、妖精族の血はそれを可能にした以外に、問題もひとつあった。それが、外貌だよ。個々の差はあるにしろ、人の身としては美しいと言われる者になる。それは、娘の身にいたずらに危険に曝すことになる。人の男は美しい娘を見ただけでなにをするかわからないところがあるから。先代が守っていられるうちはよいが、先代も己の身を保つことに限界を感じていた。だから、いつ還ったとしても、娘たちどちらかの道が定まるまで、最低限の身の安全をはかる必要があった。それで、赤ん坊のうちにまじないをかけ、娘の外貌を変えたのだよ。平凡な、美しいと言われない容姿に。娘が己の魔力を取り戻すまでの間」
「それは……」
 カミーユは眉をしかめた。
「娘もそれは知らなかった。だから、私の記憶の中での娘は、痩せっぽちの顔立ちも冴えない貧相な姿をしている。おかげで旅の間中も、滅多に人目をひくことはなかったようだ」
「師匠、じゃあ、もし、師匠が魔女にならずに人のままだったら、ずうっとそのまんまの容姿だったんですか。ええと、冴えない?」
「おそらく。年を取ることで変わることはあってもね」
 シュリは、ううん、と唸りながら、行儀良くナプキンで口を拭った。
 目の前の皿は、すでにひとりだけ綺麗に空いている。
「なんか、想像がつきません」
「ならば、これでどうだ」
 魔女は答えると、一瞬でその身を変えた。
 同じ場所の同じ席に、同じ黒い瞳に黒い髪をもってはいたが、棒切れのように痩せた小柄な娘が座っていた。
 肌の色は白くはあったが、頬はかさかさとして潤いがなく、そばかすが散っていた。
 小さな丸い顔に、目と鼻と口。
 なんの特徴もない顔だ。
 恰好も、膝を隠す長さの飾り気のない黒い地味なワンピースに、目深にかぶった黒い頭巾に変わった。
 特に醜くはないが、美しくもない。
 敢えて表現するならば、平凡。
 どこにでもいそうな田舎娘だ。
 シュリは目を丸くして、己とは対照的な黒の娘を見た。
「いまとぜんぜん違います。師匠が人だった時は、その姿だったんですか?」
「そうだよ」
 黒の娘は頷いた。
 カミーユは鼻を鳴らした。
「なるほど、その容姿では余程のことがないかぎりは、目立ちようがなかったでしょう」
「ああ、だから、旅の最中もさしたる危険もなかったようだ。途中、戦に巻込まれるまでは」
「つまり、その姿だからこそ、我が祖もその時には女として見なかったというわけか」
 その時、まだ完全とはいかないようではあるが、立ち直りかけたらしいルーファスが指摘した。
「そうらしいな」、と娘の姿のまま魔女も肯定した。
「この娘とディル・リィはしばらくの間、ザムドの隊にまざって移動をした。目的地である魔女の家はその頃、国境を越えた先、ブロワーズの国にあったからだ。隊は、折りよくブロワーズに落ち延びて王位奪還の機会を窺っていたシュナイゼルからの連絡を受け、合流すべく国境に向かっている途中だった。ザムドとしても、怪我人が多い戦場にあって娘の薬草などの知識は有用だった。まじないも、絶対ではないが、矢が当たらないようにすることぐらいはできるから。女手もなんだかんだで必要だしな」
「ああ、下働きを手伝っていたわけですか。しかし、男ばかりの中でいくらその容姿でも、問題はあったのではないのですか?」
 カミーユの問いに、黒の娘は首を横に振った。
「いや、それはなかったようだ。娼婦らしき女たちが出入りしていた記憶もある。それに、シュリにも仕込んだ身を守る方法は、この娘も先代から教えを受けていたからね。腕前は、おまえも知っているだろう」
 それには、ルーファスも苦虫を噛み潰した表情で、「ああ、あれか」、と答えた。
「こう見えても、それなりに剣の心得もある。シュリは嫌がって使いたがらないが。それでも、ザムドには面白かったようだ。暇潰しと言って、一度や二度ほど相手をさせられたりもしていた」
「怖くはなかったんですか?」
 シュリの質問は、いいや、とすぐに否定された。
「本心ではどうかはわからないが、娘は文句やら罵り声を浴びせながら剣をあわせていた。顔をあわす度になんやかやと戯れにからかわれては、喚いて応えていた。そして、その時のザムドの記憶は笑顔ばかりだ。怖れているだけでは、そんなことばも表情をみせることもあるまい」

 ――なに、顔赤くしてんだ? もしかして、おまえ、俺に惚れたのか? 残念だったな。おまえがもうちょっと美人で、抱き心地よく育っていりゃあ、他の女たちと同じようにかわいがってもやったろうに。その貧相さじゃあ、とてもその気にはならねえな。

 ――うるさいっ! だれがあんたなんかにっ!! そんなこと言ってる暇があるなら、さっさとこんな戦、終らせてよ!!

「馬鹿が!」
 唐突に、ルーファスが吐き捨てた。
 カミーユがそれに答えるように言った。
「流石、貴方の祖先だけあるということでしょう」
「なんだと」
「そのままの意味ですよ。しかし、歴史で習った人物像とはずいぶんと印象がちがって聞こえます。ザムディアック公はなぜ、シュナイゼル殿下の旗下に入ることを選んだのですか? いまの話からだと、自ら王になろうと考える方が自然なように思えますが」
「その辺の詳細はわからないが、会話した記憶からは、ザムドも最初はそうしたかったようだ。だが、シュナイゼルの方に大義名分があったことや、兵たちは寄せ集めの烏合の衆とも言えるばかりであったこと、あと、補給する物資の問題などがあって、渋々、選択せざるをえなかったようだ。でなければ、事が成った暁には、今度はこっちが潰されるかもしれないと言ってな」
「ああ、そういう現実的な判断はできたのですね。すこし安心しました」
 カミーユはルーファスに向かって微笑んだ。
「そうやって、いちいち俺を見るな!」
「おや、失礼。しかし、そういうところから、ディル・リィ=ロサ王女を娶ることにもなったのでしょう。シュナイゼル殿下もザムディアック公の功績から無視もできなかったのはわかります。ディル・リィ=ロサ王女は、納得を? 元は傭兵で性質もあまりよくなさそうだ。いやがったのでは?」
 その問いに答えるまで、すこし間があった。
 



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