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 目を開けた途端、刺す痛みにマーカスは呻いた。
 窓から射し込む明るい陽の光が、彼の瞳を貫いていた。
 のろのろ身体を起こし、いつの間にか机に突っ伏して寝ていたことに気付いた。
 ここは王宮にある自分の研究室で、昨日聞いたばかりの魔女の詠唱の研究に没頭していたことも。
 そして、扉を乱暴に叩く音で目が覚めたことも知った。

 こんこんこんこんこん!

「ふあい」
 欠伸をしながら、返事をする。
 あちこちが軋む身体を引き摺るように立ち上がり、扉を開く。
 そして、目の前に現れた髭面にげんなりした。
 すでに一日を台無しにされた気分だ。
 伝令役ぐらい可愛い女の子にすればいいのに、と内心で愚痴る。
 髭面の兵士が言った。
「マーカス・ミルン一級魔法師であるか」
「ふあい、私です」
「本日よりルーファス殿下の視察に随行せよとのご命である。早急に最低限の装備を纏め、転移用陣の間に参じるよう」
 びし、と鼻先に命令書が突きつけられた。
 げ、とあげそうになる声をマーカスは、慌てて呑み込んだ。
 どうやら、厄日らしい。
 今日は昨晩に引き続き、魔女の詠唱内容の解析をするつもりをしていたが、予定変更だ。
 昨日の騒ぎで、動ける魔法師がほかにいないため、彼にお鉢がまわってきたにちがいなかった。
 あぁーあ! 研究するつもりだったんだけれどなあっ! 研究したかったなあっ!
 そう愚痴りたくなるのを我慢して目前を見れば、ルーファスからの命令にはありがちな書式。
 畏まった文面のわりには、行き先も期間も空欄だ。
 これでは命令書の意味もなさないのだろうと思うが、手続き上、必要なのだろう。
 少なくとも、彼が不在理由の報告書にはなる。
 ひょっとしたら、多少、給金にも影響するものなのかもしれない。
 マーカスはしぶしぶ、空いている場所に受諾のサインをした。
 そして、一応、訊いてみる。
「日帰りですか」
「ご婚約披露の宴までには戻られると聞いている。詳細は、直接、殿下よりご説明があるとのことだ」
「目的地は」
「それも、同様である」
 やれやれ、やっぱり。
 マーカスは吐息で応じた。
 何日になるかはわからないが、転移用の陣の解析をさせているチームの者たちに、不在の間の指示をしておく必要があるだろう。
 とは言っても、昨日の騒ぎでどれだけまともに仕事ができる者がいるか、不明だが。
 兵士が付け加えるように言った。
「ただし、討伐を目的とするものではなく、野営の予定もないとのことだ」
 それは、朗報。
 実に珍しい。
 と言っても、ルーファスのことだから、いつ何時なにがあるかわからないが。
「了解しました」
 髭面が踵を返すのを確認して、マーカスは扉を閉めた。
 それからすぐに、荷造りに取りかかった。
 普段から研究室に泊まり込むことは多い。必要なものは捜すまでもなく、揃えられた。
 討伐目的でなければ、武器も防具も必要ない。しかし、万が一のことを考えて、最低限の法具は用意しておく。
 予備の杖も一応。
 そして、着替えと日常の必要なものをいくつか。
 あとは、もし、暇な時間が取れるようであれば、思い付きや研究に繋がる考察を纏められるように、筆記具と愛用の参考書を一冊。
 それと、忘れてはいけない、心の慰めのキャンディを一袋。
 それで全部だ。
 すべてをひとつの鞄に収めて肩からかけると、マーカスは部屋を出た。
 でも、このタイミングでルーファスはいったいどこへ?
 鞄に入りきらなかった疑問は、胸の内に抱えた。

*


 キルディバランド夫人は、ぐるり、と周囲に視線を巡らせた。
 険しい顔で。
 獲物を捜す獣の目付きで、ゆっくりと、じっくりと室内を眺める。
 王宮の一室、大事な客を迎えるための迎賓室。
 塵よし、窓ガラスよし、調度よし、灯よし、寝台よし。
 指さし確認をするように、チェック項目をひとつづつ確認する。
 すっ、と窓枠に指を滑らせますます顔を顰めると、後ろに控えていた侍女達に向かって声を荒げた。
「ここに埃が。すぐに拭きなさい」
「はい! 申し訳ありません」
「塵ひとつ残してはなりませんよ」
「はい!」
 その様子は、嫁をいびる意地悪な姑を思わせる。
 我が世の春を謳っていた昨日の笑顔はどこへやら。
 鬼気迫るものさえ、感じられる。
 そして、実際、その胸中に抱いているのは、やり場のない怒りだ。
 なぜ、今、自分がここにいなければならないか、ということで。
 本来ならば、夫人は今頃、娘とともにシュリの傍にいて、出立準備を手伝っている筈だった。
 だが、今朝になって急に、ビストリアから王宮に残るよう命が下った。
 娘もいっしょに。
「その方らには、レディン姫の接待役を命じる。後々、あれが悪かったこれが悪いと文句をつけられることなきよう、シャスマールにも他国にも我が方に非ありと思わせることなく、一分の隙なく尽くせ」
『こちらも大して準備もないが、いたらぬことがあろうとも、気にする必要はないということであろう』
 昨日そう言った同じ口で言われた。
 これは、いったい、どうしたことか。
 狼狽えないわけにはいかなかった。
「し、しかし、それですと、シュリさまのお世話は如何なされますか」
「問題ない。王宮でなければそれほど体裁を繕う必要もなかろう。もとより、身の回りのことは自分でできると聞いている」
 答える声も表情も上機嫌。
 滅多にないほどの。
 いったい、王妃になにがあったというのか。
「ですが、ルーファスさまの随行となりますと、どうしても男性に多く囲まれることになりましょう。年頃の娘ひとり、心細くもありましょう。せめて、娘だけでも供にお加えいただいた方が宜しいのでは?」
「なに、カミーユ・ガレサンドロのほか、護衛として女騎士もつくとのこと。心配はあるまい」
「カミーユ・ガレサンドロ……」
 忘れていたわけではないが、その名を聞いて、久し振りに夫人の神経のあちこちが引っ張られる感覚を覚えた。

 ――ひょっとして、また、あの腹黒小娘がっ!?

 胸中で、咆哮があがった。
「それに、今回は忍びであるゆえ、動くにも少ない人数がよいと、ルーファスよりも申し出があった。或いは、レディン姫に気取られぬよう、途中で移動することも考えられる。慣れぬその方の娘では、足手まといにもなろう」
「それはそうかもしれませぬが……」
「もとより、直接、娘に務めを仕込みたいというそなたの申し出からしても、その方がよかろう。トカゲ族とはいえ、王族であるレディン姫のもと立派に務めをこなせれば、一人前の女官として認められもしよう」
「……はい、そうでございますね。王妃さまのおっしゃる通りでございます」
 キルディバランド夫人は、呆然と青い鳥が飛び去っていくのを見送った。
 そして、狸だけが頭上に居残る。
 しかも、狸は、いつの間にかぼうぼうの火だるまになっている。かちかち山の狸だ。
 ほくそ笑む火付けの犯人の兎は、逃げ足も速く去っていく。
 いや、兎なんて可愛いものではなく、狐が皮をかぶって化けているに違いない。
 あの金色の毛並みの、性悪な。

 ――おのれ、カミーユ・ガレサンドロ!

 ぼうっ、と一頻り炎が燃え盛り、狸がのたうちまわった。
 そして、現在。
 火は鎮静化したものの、まだ燻っている。
 狸はすでに炭の状態。
 しかし、じりじりと遠赤外線の熱を放ちながらも、居座り続けている。
 それはそれで、温熱効果があって身体には良さそうではあるが。
「お母様」
 と、色々な備品をのせたワゴンと共に娘が部屋に戻ってきた。
「遅かったのね」
 ぐずぐずするな、と暗にこめて言えば、彼女の娘は無表情に頷いた。
「ええ、どれを選んでよいか迷っていたら、時間がかかってしまったの。レディン姫がどのような物がお好みかわからなかったので」
「そんなもの適当でよいのよ。お客様なのだし、もともと良い品ばかりが揃えられているのだから、多少、お好みから外れることがあっても、全体の雰囲気さえあっていればよいの。水差しなど使えさえすればよいものだし」
「でも、気に入った物がひとつでもあれば、それだけで落ち着くし、居心地のよいものになるでしょう?」「最初から、そこまで気にする必要はないわ。気に入らないと言えば、その時に好みを聞いて、取り替えればいいだけのことでしょう」
「ああ、そうね。なるほど、そういうものなのね」
 当り前のことに、のんびり頷く娘に苛ついた。
 なんと気が利かないことだろうと思う。
 大体、なんでこんなに落ち着いていられるのか、不思議で仕方がない。
 自分の将来に繋がっただろう大事な機会が潰されてしまったというのに!
「お母様、この花瓶はどこに置いたらよいかしら」
「それはそっちのテーブルに。あなた、お茶のお道具はそちらへ。乱暴に扱わないで」
 怒りつつも、夫人は娘と侍女達に指示をだす。
 取りあえずは、今は己の務めに専念すべきだろう。
 レディン姫の到着まで、そんなに時間はない。
 腹を立てた揚げ句につまらないミスで、評価を下げる真似だけはしてはならない。
「あ、」
「お母様どうなさったの?」
「……いいえ、なんでもないわ」
 キルディバランド夫人は答えながら、己の左手首を握った。
 手首にいた筈のちいさなトンボが、いつの間にか消えていた。

*


 ダイアナは思いきり眉を顰めて言った。
「なんで、私なんですか。ムスカでもいいでしょう」
「ううん、そうなんですけれど、君の方が先輩だし、ここの事がよく頭に入っているでしょう。どこにどんな本があるかとか、知識もそれなりにあるし、殿下からのご質問にも答えられるでしょう。それに、ムスカくんには、残っている本の整理とか力仕事を頑張ってもらいたいですからねえ」
 タトルは珍しくも、上司らしい言い方で答えた。
 口調は、いつもの欠伸をするかのような間延びしたものだったが。
「でも、そういう理由だったら、館長がいくのが一番いいでしょう。誰よりもここの事に詳しいんですから」
「最初は、そういう話だったんですけれど、でも、私は年寄りで足も遅いですから。転ぶと起き上がるにも難儀しますし。出先で必要な本がわかって転移方陣を使ったとしても、取りに来るのもひと仕事です。甲羅干しもできるかわからないですしねえ。ダイアナさんだったら、その点、必要な時にすぐに行き来できるでしょう。難しいことではありませんよ。旅行ついでにお使いをお願いするだけの簡単な仕事ですから、心配することはなにもありません。殿下に訊かれてわからないことがあっても、わからないと素直に答えればいいだけのことです。お咎めもなにもありませんよ」
 それに、と言う。
「時間がある時は、シュリさんの話し相手になって欲しいそうです。ついでに、常識とかそういったものを教えてあげて欲しいそうですよ。あの娘は、ずっと森にひとりで暮らしていて、そういうところですっぽり抜け落ちている部分があるそうだから。その点、ダイアナさんは常識もあるし、物知りですし、女の子同士でよいだろうということになりました」
「そう言われても、私はあの娘のことをよく知りませんよ。それに、クラディオンのお姫さまなのでしょう? そんな人の相手だなんて、」
「大丈夫、大丈夫」
 ほっほっとした笑い声がたつ。
「お姫さまと言っても、もう国はないから関係ないですよ。それに、シュリさんは良い娘ですよ。私たちの知らない魔法の知識ももっているみたいですから、話し相手として面白いでしょう。ダイアナさんのよいお友達になれるかもしれないですし」
「でも……」
 シュリが良い娘だということはダイアナも知っている。
 だが、それだけでは駄目なのだ。
 この突然の、理不尽な命令を受ける理由にはならない。
 なぜなら、ルーファスの想い人だから。
 うっかりと気を悪くさせでもしたら、ルーファスが黙ってはいないだろう。
 そうなった時が怖い。
 それでなくとも、勝手がわからず慌てるのは好きではない。
 みっともないのは嫌だ。
 失敗するのも嫌いだ。
 恥をかくのは大嫌い。
 他人に馬鹿にされたり、笑われたりするのは許せない。
 慣れた場所で、いつもと同じように安全で、安心していたい。
「ダイアナさん」
 黙って俯いていると、優しい声で呼びかけられた。
 ちいさなこどもに言い聞かせるような。
「本でたくさんの知識は得られますが、それだけでは、本当に知ったことにはなりません。実際に体験してみなければ、わからないことはとても多いです。知識には得る喜びや蓄える喜びもありますが、役立てる喜びもあるのです。それは、この書庫に籠っているだけでは得られませんよ」
 そんな喜びは知りたくない。
 すくなくとも、いまは。
 腰が落ち着かず、足先を動かしたくなるのを堪えた。
「ダイアナさんにとっても、新しいことを学ぶよい機会になるでしょう。これも社会勉強だと思って、行ってきなさい」
 いつもは気にならないタトルのゆっくりとした口調が、嫌みったらしく聞こえて仕方がなかった。
 でも、とダイアナは語気の鋭さを隠すこともできずに言い返した。
「でも、私にも予定があるんです。こんな急に遠出しろって言われても困ります。それも、何日も」
 今日にもフランツが会いに来るかもしれない。
 シュリにおまじないをしてもらったのだから。
 まだ、どんなに待ってもなにひとつ変化は起きていないのだから。
 顔をあげると、タトルの瞳の下半分に膜がかかってみえた。
 それだけで、いつにない厳しい表情に見えた。
「ダイアナさん、これは殿下より直々のご命令です。断ることはできません」
 それは、ダイアナにも最初からわかっていることだ。
 だが、抵抗せずにはいられなかった。
 無駄だとわかっていても。
「わかりましたね」
 念押しすることばに、ダイアナは声を出さずに顎をちいさく引いて返事にかえた。
 意地悪、と心の内で呟いた。
 こんなに嫌がっているのに、すこしも慮ってもくれない。
 上司なのに。
「さあ、急いで荷造りをしに一旦、お戻りなさい。お昼前には出立の予定だそうです。こちらには寄る必要はありませんから、そのまま転移用陣の間に行くように」
「失礼します」
 ダイアナは慇懃なほどに深く礼をすると、振り返ることなく書庫の出口へと向かった。
 腹を立てていることを主張する靴音を立てながら。
 扉が閉まるまで、タトルからかけられる声はなかった。
 いってらっしゃい、も、行かなくてもよいとも。
 ダイアナは唇を噛み締めて、足を速めた。
 己を含めた、世の中すべてに腹を立てながら。
「……若い娘さんは難しい」
 足音の消えた書庫で、深い溜め息がこぼれた。




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