カミーユは軽く揺すられる感触に、目を覚ました。
浮き上がる意識と共に目を開ければ、まだ若い彼女の秘書の顔があった。
「こんなところで寝ておられるとお風邪を召します」
どうやら、起床時刻らしい。
薄目で時計を見やれば、朝の九時。
おおよそ三時間ほど寝た計算になる。
予定通りだ。
ほんとうは、もう少し眠っていたいが、あとの予定がつまっている。
痛む背に顔を顰めながら、カミーユは執務室の長椅子から身体を起こした。
その間にもジュリアスは部屋を動き回って、彼女のために洗面の用意などをしていた。
覚醒するまでの間、ぼんやりとその背を眺める。
「せめて、宿直《とのい》室の寝台をお使いになられればよろしいのに。昨日もお帰りになられなかったのですか」
「ああ、なんだかんだと明け方までかかって。最初から仮眠のつもりでしたから」
欠伸をしながら、背筋を伸ばす。
「夜明けまで? お忙しいのはわかりますが、そんなことを続けておられるとほんとうに身体を壊してしまいますよ。もっと、お気を付けになってください」
「大丈夫ですよ」
心配を通り越して咎める声音になった少年に、カミーユは笑みを深くした。
しかし、かえってますます機嫌を損ねてしまったようだ。
「大丈夫じゃありませんよ。淑女なんですから、もっと御身を労ったとしても罰はあたりませんよ」
「ああ、でも、今だけのことですから。今日から、すこしは楽になると思いますよ」
「そうであっても、不用心です。せめて、鍵をおかけになってからおやすみになって下さい」
「ああ、そうですね。気をつけます」
まるで母親のような注意には、カミーユは軽く両手をあげて答えた。
万が一、不埒者が忍んできたとしても、返り討ちにできる自信はあったが、それは黙っておく。
「ところで、急ですが、本日から殿下に従い、二週間ほど王宮を離れます」
「二週間も? 急ですね。どちらへ」
「詳細はまだ言えませんが、まずはフラベスを予定しています」
「フラべス、ですか」
青い瞳が丸くなった。
「ええ、貴方の実家のある。それで、父君にもお会いしたいと思っていますが、先日お願いした件、伝えていただけましたか」
「あ、はい、研究をご覧になりたいという。はい、父にも伝えたところ、是非にと。父もカミーユさまに直接、お礼を申しあげたいと手紙には書いてありました」
「そうですか。それはよかった」
目の前にある、ふわふわとした金髪を撫でたくなった。
「では、近日中に寄らせていただきましょう。貴方にも同行をお願いします」
そう言えば、え、と意外そうな返事があった。
「貴方も久し振りにご家族に会いたいでしょう。どうせ、私がいない間はさして仕事もないでしょうから、休みをとってゆっくりしてきなさい」
「よろしいのですか」
「ええ。途中、戻ってからの準備もありますし、貴方だけ先に帰って頂くことになるかと思いますが、それでも、一週間くらいなら大丈夫でしょう」
「ありがとうございます! うれしいです!」
少年の顔面に満面の笑みが広がった。
朝いちばんのコミュニケーションは上出来。こうでなくては。
カミーユも満足げに頷いた。
「では、さっそく貴方も荷造りにかかって下さい。お昼前には出発します。私のものは終っていますから気にしなくてもよいです。ああ、それと、アーサーが来たら、すぐに顔を出すように伝えてください。不在の間の指示をだします。くれぐれも行き先等については、まだ洩らさないように」
「承知しました。朝食はいかがいたしましょう。お持ちしましょうか?」
「ああ、ありがとう。コーヒーだけ頼みます」
昨晩、遅くまで軽食をつまみながら話していたつけが、少しきている感じだ。
「畏まりました」
秘書というよりは、執事のような甲斐甲斐しさをみせるジュリアスが部屋をでていくのを待って、カミーユは長椅子から立ち上がった。
顔を洗い、身嗜みを軽く整える。
寝不足で気分爽快とはいかないが、悪くはない。
精神だけで言えば、充実していると言える。
ここに来て、はじめて光明を得たような感覚。
自然と頬が緩みかける。
が、そうなる前に、両手で軽く叩いて引き締めた。
なにせ、まだ先は見えない。
ただ、現状を突破するためのいっぽんの道筋が見えてきたような気がする……その程度だ。
それでのぞむ結果を導きだせるかは、これからの働きにかかっている。
しかも、約半月の期限の間に。
時間との戦いだ。
実質、正念場。
己だけに限らず。関る者すべて。
だが、それをするだけの価値はある。希望がある。
そして、大義名分も。
それだけで、ずっと『楽』だ。
人とは、なんと単純なものか。
苦笑いを浮かべ、カミーユは自分の執務机に移動する。
兎に角、いまは計画に専念できるように、下準備をしておく必要がある。
目下のところ必要な書類とこれから必要になるだろう書類を確認した。
と、扉をノックする音が響いて、焦げ茶色の髪をもつひとりの青年が顔を出した。
「おはようございます。お呼びでしたか」
「おはようございます、アーサー。朝早くから申し訳ありません。急ぎの用がありましたもので」
カミーユは、にこやかに挨拶を返した。
アーサー・コルニウスは主にルーファス直属の文官たちを取り纏める役目に就いて、約二年になる。
ヒー、イズ、ア、官僚。
所謂、事務次官というやつだ。
年齢は二十六歳と、ルーファスやカミーユとも近い。
そのポジションにつくのにはまだ経験も足りなく若すぎる、という心配ともやっかみともつかない声を受けながらも、いろいろと頑張っているようだ。
野心家というほどではないが、上を目指したいという欲を明確にあらわしている。
そのためになら人の信頼を得るようにもするし、ありがちな偏見をおさえる度量も持ちあわせている。
たとえば、前任者のような、『女の下につくは恥であり、虫酸が走る』というような態度は、すくなくとも務めの中では控えている。
お陰で、カミーユとの関係も良好。
相手はどう思っているかは知らないけれど。
「早速ですが、これから殿下とともに二週間ほど王宮を離れることになりました。不在の間も、逐次、殿下よりの指示はお伝えしますが、その時に必要になるかもしれない書類はここに用意してあります。貴方には、必要にしたがって、これらの書類を各関係部署にまわしていただきたいのです」
カミーユは、手にした書類の束をアーサーに差し出した。
「承知しました」
顔立ちに華やかさはないが、全身から誠実さを醸しだす青年をカミーユは見上げる。
すばやく書類を捲り、確認する手が止まった。
「使用済み魔硝石の廃棄処理の一時停止命令、ですか」
「はい、まだ必要になるかどうかはわかりませんが、一応」
常にない命令に、目が引かれたらしい。
見逃すことなく、見るべきところは見ているということだろう。
「そうですか」
疑問はあるだろうに、それ以上、追究してこないところもよし。
宮仕えには出来てこそのスキルだが、存外できない者の方が多い。
上出来、と心の内で呟きながらカミーユは微笑んだ。
こうでなければ、ルーファスに頼んで前任者と首をすげ替えてもらった意味がない。
アーサーから質問もなにもないのを見計らって、カミーユは言った。
「それで、貴方にもうひとつお願いがあります」
「なんでしょうか」
「こちらの様子を知らせて欲しいのです。特にレディン姫周囲のことを。なにかあった時だけでなく、日常的な様子についても、できるだけ詳しく」
それには、ふむ、と考える表情が浮かんだ。
「レディン姫に近付くこと自体、難しいですね。シャスマールの者が警戒しましょう」
やはり、口先だけで返事をする者とは違う。
「しかし、些細なことであっても、のちのち外交上の問題にも発展しかねないこともあるでしょう。できるだけ把握しておきたいのです」
「そう言われれば、余計に難しい。あとで責任を、この首で取らされることになってはかなわないですから」
「その点については、貴方ご自身に非が及ぶことがないよう取り計らうことを、ルーファス殿下の名のもとにお約束しましょう。それに、方法は貴方にお任せいたしますが、シャスマールがどれだけ警戒しようとも、こちらにも耳目の数はありましょう」
「それは、思った以上に私のことを買っていただけているようだ」
青年の顔に苦笑が浮かんだ。
「首尾よくいったとして、褒美はいただけるのでしょうか」
「手当てに上乗せすることを考えておりますが、ほかになにかご希望がおありでしょうか」
カミーユはにっこりとした笑みで返した。
「さて、ないことはないですが、いまはまだ。ひとつ貸しという形で如何か」
「内容によってはお望み通りの対価の保証はできませんが、貴方がそれでよいのであれば」
「なに、その時はその時で。気が変わり、別のものをお願いするやもしれません」
商談成立。
がっちり握手はないけれど、双方、笑顔はおなじ。
そう言えば、と世間話のさりげなさでアーサーは言った。
「今朝はことのほか、宮中じゅうの侍女たちの機嫌が悪いようですね。朝の挨拶ひとつにしても笑顔ひとつなく、皆、足早に行ってしまう」
「そうなのですか」
「ええ。どうやら、昨日の騒ぎの片付けができない内からレディン姫のお越しとあって、手がいくらあっても足りないようです。手の空いている兵士らも動員して片づけにあたっているようですが、端から見ていても、鬼気迫るものを感じさせます。さながら、戦をむかえるが如く」
「……それは、それは、大変だ」
「ええ、彼女たちにも、それなりに報いが必要でしょうね。いまは、レディン姫への愚痴で気を紛らわせているようですが」
「なるほど」
つい、人の悪い笑みがカミーユの口元にものぼる。
「それは困りましたね。粗相がないとよろしいのですが」
「ええ、ほんとうに。クラディオンの姫が生きておられるという噂もあって、よけいなのでしょう。やはり、トカゲ族の姫君よりも、妖精族の血を受け継ぐ姫に心情的な贔屓もあるでしょうし」
「ああ、そうですね。女性は恋愛ごとには、特に関心が強いですから」
「自国の王子の話となれば尚更でしょうね。美しい女性が絡むとなれば、色恋沙汰に疎い男であっても興味が湧きます」
「そうかもしれませんね」
「ええ。そして、よほどのひねくれ者でない限りは、お伽噺のような結末を望みましょう。『皆、幸せに暮らしました。めでたし、めでたし』、とね。それでみなの心は慰められ、それまでどんな苦労があったとしても、忘れもしましょう」
「なるほど。確かに、現実でもそうあって欲しいものですね」
その王子の脳みそは、すでに恋の病に腐り落ちかけてはいるが。
しかし、腐っても、王子。
それでも平和が保たれるのであれば、なんの文句もない。
折りよくコーヒーを運んできたジュリアスと入れ違いに、アーサーは執務室を去った。
「道中、お気を付けて」、というひとことを添えて。
思っていた以上に有能な男らしい、と閉まった扉の向こうにカミーユは感想をもつ。
……ペテン師の可能性もあるけれど。
そうであっても、いまは使いこなせている。
使える者を遊ばせておく手はない。
万が一、手を噛まれたとしても、『褒美』によって再交渉が可能。
今の遣取りで、それは明白。
つまり、いまは安全圏内。
そして、コーヒーに添えられた小さなマフィンがひとつ。
少年の細やかな気遣いは、幸先の良さを伝えてくれるようだ。
カミーユはひとり、ほくそ笑んだ。