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 すっきりとした目覚め、というわけにはいかなかった。
 続く不規則な睡眠は、はしたなくも繰り返し、大口をあけての欠伸を誘発する。
 着替えもせずに眠ったため、ドレスもしわくちゃ。
 長い髪も、ぼさぼさ。
 それでも、そんなだらしなさも、もとの外貌の出来がよいと、可愛らしくも見えたりもするマジック。
 その効果を人は、『萌え』と呼んだりもするのかもしれない。
 どうあれ、シュリにもそれが働いていた。
 本人は、まったく無自覚だったけれど。
 また、そこに一緒にいた者にも、まったく影響がなかったけれど。
 約一名、精神的に悶絶するだろう者はいるけれど、幸いその者はその場にいなかった。
 ちょうど、母親と交渉をはじめたところだ。
 お陰でこの部屋だけは、静かで平和な朝を迎えていた。
 そして、シュリは、部屋にまだ祝福の魔女の姿があることにも安堵した。
「おはようございます、師匠」
「おはよう。先ほど、ここの者が着替えを持ってきた。そこにあるから、早く着替えなさい。すぐに、朝食も運んでくるそうだよ」
「はい」
 今日のドレスは薄桃色。
 美味しそうな色だ。
 もぞもぞと身体を動かして、綺麗に畳まれていたそれに袖を通した。
 もちろん、靴下も下着も新しいものに替える。
 着替えながら、椅子に座る魔女を盗み見た。
 いつも通りの師匠だ。
 若くて、綺麗な。
 シュリの幼い頃から、まったく変わらない姿。
 小鳥の雛が巣立ち、森の木々の葉が何度も色を変えても、シュリの師匠だけはなにも変わらない。
 見上げていた筈の顔が、正面にくるようになった今でも。
 そのことにシュリが不思議に思うようになったのは、いつの頃だったか。
 おそらく、それが、朧げながらシュリが『魔女』というものを認識した最初だったのだろうと思う。
「なんだい」
 向ける視線に気づいたのだろうその人から問われた。
「ええと、師匠はいつまでここにいてくれるのですか」
 また、甘えていると叱られるかもしれない、と身を竦めながらシュリは訊ねた。
 だが、ハンマーを取りだされることはなかった。
「そうだね、暫くは、おまえたちと行動を共にすることにしたよ」
「ほんとうに!?」
「ああ。都合にあわせて別行動もするが」

 わあ!

 思わず、歓声がシュリの口をついて出た。
 しかし、
「おまえひとりの手には余りそうだからね。弟子の尻拭いをするのも師匠の務めだろう」

 あうぅ……

 一瞬で、喜びも霧散。
 シュリは萎れた。
「まあ、それ以外にも、渡りに船というか、利害の一致もあってね」
「利害の一致?」
「ああ、その説明をおまえにもしなければね。これからの行動の予定も含めて。しかし、その前にまずは食事にしよう」
 料理を運んできた侍女たちの姿に、シュリは慌てて残っていた片方の靴下を履いた。

「あ、ところで、昨日のわんちゃんどうなりました? 姿が見えませんけれど」
「ああ、あの子は、おまえが寝ている間に、森の精霊たちに預けてきた」
「そうなんですか」
「ちゃんと躾けてくれるよう頼んでおいたから、成長したら、おまえの使い魔にするといいよ。番犬代わりになるだろう」
「ほんとうですか。うれしい!」
 久し振りに、師弟向かい合っての食事。
 雰囲気は、とても和やか。
 実年齢や精神年齢は別にして、年頃の美しい娘ふたりの食事風景は絵になる。
 やっぱり、本人たちには関係ない話だけれど。
「昨日も思ったのだが、大将の作る料理はあまり味がしないな。おいしいかい?」
 サラダを突きながらの師匠の問いに、シュリは頷いた。
「おいしいですよ。しょっぱさも甘さも、ちょうどいいです」
「私には、よくわからないな」
「師匠は、『美味しい』『まずい』をほとんど食感できめているみたいに感じます。だから、師匠が料理をすると、見た目はおいしそうだけれど味が極端だったりするのかな、って」
「そうかな」
「だと思いますけれど。前から不思議に思っていたんですけれど、魔女は食べることを必要としないですよね。でも、師匠が食べたり飲んだりするのは、食べること自体が好きなんですか」
「好きというか、そうだね。たぶん、おまえとこうしているのが好きなんだろうな」
「え、そうなんですか? 食べることじゃなくて?」
「うん、おそらくね。これも、人であった頃の娘の記憶に影響されているのだろうけれど」
「昨日、話してくれた?」
「そう。ザムドたちと会って、はじめて他の人間と一緒に食事をした時の驚いた印象が焼き付いている。兎に角、その賑やかな様子に。以来、他人の表情を見たり、話を聞きながら食べることを好んだようだ」
「はじめてって、師匠の師匠は、師匠といっしょに食事をしなかったのですか」
「そうだね。その記憶はない」
 ふうん、とシュリは相槌をうった。
 そう言えば、昨夜、シュリもはじめて、師以外の人間と一緒に食事をしたことに、いまになって気がついた。
 賑やかというより騒がしくはあったが、時間が経つのがあっという間だったように感じる。
 その時はそうは思わなかったが、多分、面白かったのだと思う。
 料理がおいしかったこともあるが、いろいろな話を聞けたことにも。
 だから、眠くなっても、つい、頑張ってしまった。
 眠っている内に師匠がいなくなってしまうのが嫌、ということも大いにあったのだが。
「……師匠の師匠も、師匠といっしょに食事をしたらよかったのに」
「どうして、そう思う」
「ううん、と……いまもそうですが、私が師匠と勉強以外のことを話すのって、食事をしている時がほとんどだったな、と思って。だから、師匠の師匠も、師匠といっしょに食事をしていれば、もっと色んな話ができたと思うし、魔女になることとか、ディル・リィ姫のこととか、師匠も早いうちに知ることができたんじゃなかったかなあ、って思います。そうしたら、もう少し変わっていたのかなあって」
 ひょっとしたら、ディル・リィ=ロサが祝福の魔女になっていたかもしれない。
「そうだね。そうかもしれないね」
 頷きがあった。が、
「だからこそ、そうしなかったのかもしれない。先代には先代の考えがあってのことだろう。余程のことがなければ、私が魔女になることが決まっていたから」
「そうかもしれませんけれど、だとしても、その事をザムドさんに早く伝えることもできただろうし、そうすれば、みんな、辛い思いもしなくてすんだんじゃないかって思います」
「それは、逆に言えば、娘がディル・リィに魂を渡した時に、そのぶんだけ経験の足りない状態で渡すということになる。それは、心が育っていない、と言い換えることができる。僅かなことかもしれないが、ディル・リィにとっては、のちのち大きな差となったかもしれない。それに、最初から娘が魔女になることを知っていれば、娘がザムドに心を寄せることもなかったかもしれない。でも、それより前に、そもそも旅に出る必要もなかっただろう。いくら先代の言い付けがあったとしてもね。人里離れた森で、人としてひとり静かに生き、朽ちていったかもしれない」
「あ、そうか」
 魔女になりたくないと思えば、そうすることも可能な筈だ。
 そうすると、今もディル・リィ=ロサは精霊のままだったかもしれないし、ザムディアック公爵と結婚することもなかっただろう。この国に金だらいの魔法もなかったにちがいない。
「そうすると、おまえも産れてこなかったことになる」
「……不思議……」
 ほんの些細な行動の違いが、国単位で大きな変化をもたらしたことに、脅威さえ覚える。
 そして、己の存在にも。
 シュリは、ぶるり、と身を震わせた。
「本当に、人とは不思議なものだよ。ごく僅かな心の動きひとつで、今あるすべての有り様さえ変えてしまう」
 しみじみとした口調で、シュリの師も言った。
「私も魔女として長く人の営みを見続けてはいるが、人の心の働きには、ときどき魔法以上のものを感じもするよ。ひとつを成すにも、一瞬でというわけにはいかないが、時を重ね、数を重ね、想像以上の結果をもたらしもする。善しきにつけ、悪しきにつけ。しかし、その結果も、いずれは時の中に埋もれもする。ディル・リィやザムドたちと同じように」
「……こんなことがなければ、私もお師匠さまの魔女になった時の話を聞くことはなかった気がします」
 シュリも答えた。
「そうだね、私も話さなかったかもしれないな。でも、魔女については、まだある。今度、それも話してあげよう。でも、今は、それよりも、話さなければならないことがあるからね」
 そうして、言った。
「シュリ、おまえには、近々、クラディオンの地に行ってもらうことになったよ」
「え?」
「そこでおまえは、署名の儀式を行いなさい」
「え?」
 ぼちゃん、と音をたてて、シュリの口元にあったベーコンが、本日のスープに向かっておおきくダイビングした。
 黄金色のコンソメスープとベーコンの相性は幸いにも悪いわけではないが、いかんせん、サイズが大きすぎたようだ。
 ベーコンは、だらりと半分、舌を出すようにみっともなく縁からはみ出た。
 スープは脂も浮いて、わずかに濁る。
 エンリオ・アバルジャーニーが見たら、眉間に縦皺を寄せること請け合いだ。
 しかし、シュリは、それを取り出すことをしなかった。
 というか、気付いてすらいなかった。
 口を開けたまま、全身、金縛り状態。
 すぐには、なにを言われたか理解できなかった。
 師匠の言うことならば、いつもはすぐに反応できるのに、できなかった。
 それだけ、シュリには唐突で、とんでもないことだった。
 だが、徐々に金縛りが解けると共に、思考も追い付いてくる。
 そして、

 ええええええええええええええっ!!

 驚愕の声をあげていた。
「儀式の呪文や進め方は覚えているね。でも、いちど、おさらいしておいた方がいいだろうな」
「ななななな、師匠、師匠っ!! なんで、なんでですかっ!! どうして、急にそんなっ!? 無理です!! むり、むり、むり、無理ですっ!!」
「なにが無理だい。昨夜、自分の言ったことを忘れたのかい? できるだけのことはしたいが、なにをしたらよいかわからない、と。だから、おまえにできることを、みんなで一晩、話し合って決めたんだよ」
「それとも」、と黒い瞳があやしい光を放った。
「まさか、私が教えたことを全部、すっからかんに忘れてしまったのではないだろうね」
「おぼえています、覚えていますっ!! 忘れていませんっ!!」
 一応。
 血と汗と涙の努力は、なにもスポーツだけの話ではない。
 幼い頃から叩き込まれた知識はすべて、シュリの骨肉となっている。
 だが、実技ともなると、話は別だ。
 教わるだけ教わって、一度も使ったことのない魔法など山ほどある。
 シュリが知る中でも、最上級の、最大の魔法のひとつとなれば、尚更。
 銀髪と手にしたフォークを振り回して、シュリは叫んだ。
「でもでもでもでもでもっ! わたしひとりでは無理ですっ! 精霊王を全員、呼びだすなんてっ!! 師匠だって、魔女にしかできない魔法だって言ってたじゃないですかっ! 下手なことをすれば、精霊王たちの怒りを買って、その場でぎったんぎったんにされるって!! それより前に、クラディオンの地って、立った途端にわたし死んじゃいますうっ!!」
「だいじょうぶだ。死んでも魔女になるだけだから」
 さっくりと言われる。

 ふぇえええええええええええええん!

 泣いた。
 遠慮なく、泣いた。
 なにが悲しいのか自分でもわからなかったが、本能的に泣いていた。
 呆れたような溜め息が、魔女の口から吐かれた。
「心配せずともいい。おまえの意志が定まらない内は、魔女にはさせない。できる限り、手は尽くすよ」
「でもぉ……」
「そうならないように準備も整えるし、必要な人員も揃える。遣り方も、おまえに合わせて、多少、変える。もちろん、私も一緒だよ。結界のこともあるから、他の魔女たちにも協力を頼まなければならないし。それに、おまえの身になにかあれば、王子が黙ってはいないとさ」
「王子さま?」
「もし、おまえが死ぬようなことがあれば、『大陸中で戦を起こさせてやる』、だそうだ。すべての魔女が滅ぶまで。あれは、本気だね。まったく、そういうところもザムドに似て、無茶苦茶な小僧だよ。でも、儀式の間、自らおまえの傍で盾となって、近付いてくるだろう魔獣などから守るそうだ。正直言って、心強い。なんだかんだ言っても、人としては破格の魔力持ちだからな」
「でも、でもっ! それこそ、わたしなんかより、お師匠さまや他の魔女がやった方が成功するんじゃないですか? 可能であれば、だれが署名してもいいわけですから」
「いいや、クラディオンであるからこそ、おまえでなければならなのだよ。ディル・リィの血をひき、フェリスティアの娘でもあるおまえでなければ、精霊王たちは認めないだろう」
 真摯とも言える眼差しが、シュリを見据えた。
「嘗てのロスタ国に最後に署名されたのは、六百年前。署名者は、ディル・リィ。ディダルの禁忌魔術を無効化するために行ったのが、そうだ。だから、精霊の律の上では、クラディオン領域は、未だディル・リィの管理下にあるものとされている。これに上書きをするには、ディル・リィの血を受け継ぐ者の方が、成功率が高い。他の血では、反発が起きる可能性があるからね。そして、クラディオンを荒廃させる原因となったのが、フェリスティア――おまえの産みの母親の死であり、また、実の父親であるクラディオン王の過ちによるものだ。それを娘のおまえが正すことは、自然の理にかなっている。おまえが儀式を行うことで、いまだあの地に留まる精霊たちの怒りを鎮められようし、精霊王たちも了承するだろう」
「うう、そうかもしれませんけれど、でも、でも、儀式をするにしても、クラディオンには毒が満ちているのでしょう? それは、どうするんですかぁ」
「それが、私にとって一番の難題だったのだけれどね。昨晩、王子たちの話を聞いていて、なんとかなりそうだよ。儀式を行えるだけの狭い範囲ならば、一時的に瘴気を防ぐ手立てになりそうだ。確認して、必要あれば手も加えて、うまくいったところで儀式を行うことになる。ほかにも、こちら側にいる精霊たちの力を借りるし、魔女全員の力をもってすれば、なんとかなるだろう」
「ドラゴンもいるのでしょう、三匹も」
「それは問題ない。助っ人がいるからね」
 助っ人とは、だれのことだ?
 ルーファスのことだろうか。
「……そんなので、ほんとうに、だいじょうぶなんですかあ? 私は兎も角、王子さまが死んじゃったりしたら、大変ですよう」
 師匠を信用していないわけではない。
 儀式を行うことに、反対なわけでもない。
 ただ、不安だった。
 不確定要素が、あまりにもありすぎて。
 大きな不安に呑まれて、シュリは半べそをかきながら訴えた。と、
「絶対に安全、とは私にも言えないな」
 返答に、また、泣きそうになった。
「でも、『必ず、成功させる』、と王子は言ったよ。クラディオンを開放することによってマジェストリアを守り、おまえも、カミーユという娘も、他の者たちも必ず守ると。儀式を成功させ、無事に生きて帰ることで、すべてを丸く治めてみせると。そうして、己自身をも救うつもりだ。それで、絶対におまえと番うつもりでいるよ」
 ふ、と、笑みが浮かび、そして、消えた。
「精霊を産みだすほどの魔力と、強い心を持った男が言ったことだ。信じるに値するだろう。それに、口では言わなかったけれど、王子はこれにすべてを賭ける気でいる。命も、人生も、なにもかもすべて。さっきの話ではないけれど、そんな強い意志を前にして、世界がなにも応えないわけがない」
「すべてを……?」
「そう。そうまでせねば通らない望みであることを、あの男もわかっているのだろう。依頼主がそこまで覚悟を決めているんだ、おまえはどう思う? 祝福の魔女の弟子として」
 どうしてだろう、とシュリは思う。
 どうして、そこまで強く思うことができるのだろう。
 己の命を危険に曝してでも。
 何故、他人を守るためにそこまでできるのか。
 しようとできるのか。
 命を失っては、元も子もないというのに。
「……かなえてあげたいと……思います」
 番の話は別にして。
「では、おまえは、おまえの意志を示しなさい」
 師のことばに、いつもならすぐに出る返事ができなかった。
 もやもやしたものが胸につっかえて、声に出すのを阻んでいるようだ。
 シュリは俯いた。
「怖がってばかりでは、人も、精霊も、なにも応えてはくれないよ」
 おまじないが必要だった。
 勇気の出るおまじない。
 冷めてしまったスープを見ながら、シュリは思った。
 だが、そんなまじないは、この世に存在しない。
 魔法と言えど、直接、人の心に働きかけるものなどない。

 ――どうしよう……

 結局、シュリは途方に暮れたままだ。
 覚悟までには、ほど遠い。




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