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 びったん、びったん。

 床を叩く音だ。それに、擦る音もつづく。

 びったん、びったん、すりっ、すりっ、びったん!

 ほう、と切なげな溜め息も付け加えられる。

 びったん、びったん、すりっ、すりっ、びったん、ほう。

 妙にリズミカルだ。
 ついでに、耳障り。
 貧乏揺すりを間近にしている感じだ。聞いているだけで、苛々してくる。
「我が背の君……」
 プラス、独言も。
 否、譫言《うわごと》か。
 赤く燃える宝石のような眼差しは、遠く窓の彼方。
 あさってどころか、百年先か千年先まで眺めているようだ。
 心ここにあらず、をそのまま体現している。
 恋する乙女と説明を受けずとも、一目瞭然。
 しかし、その姿を『たおやか』と表現してよいものか。
 離れた位置に立ったサシャリア侯爵夫人は、薄ら寒い思いでその姿を目に映す。
 勿論、失礼がない程度にこっそりと、気持ちが表情に出ないように注意深く。
 顔を背けつつ、怖いものみたさの感覚で。
 どこからどう見てもトカゲだ。大トカゲ。
 鱗はないし、そこら辺で見かけるちょろちょろと走っているものとは、微妙に違うけれど。
 手の形は夫人とそう変わらないが、細く筋張っている。
 白魚のようというには硬そうで、不器用そう。
 鋭く尖った爪は見るだけで痛く感じるが、あの形はわざとではなくて天然物だろう。
 足は靴で隠れているからわからないが、手と似たようなものに違いない。
 だが、顔の輪郭や目の位置などはトカゲ。直立歩行するトカゲだ。
 トカゲ族だから当り前なのだが、間違いなく。
 しかし、トカゲ族に初めて接する者としては、当り前のことでも目の当たりにすれば、驚きを感じる。
 話に聞いて知っていても。
 そして、その象徴ともいえるパーツもちゃんとある。

 びったん、びったん、すりっ、すりっ、びったん、ほう、びったん、びったん……

 尾が動く度にリズミカルな音がたち、ドレスの裾の皺の形を変えている。
 それが、不意に止まった。
 トカゲ族の侍女が近付き、耳打ちしたからだ。
 窓に向けられた頭がわずかに動き、ひそひそとした返事があった。
 そして、また、尾が動きだした。
 トカゲ族の侍女は夫人の元まで戻ってくると、言った。
「急な訪いでありながら、サシャリア侯爵と夫人のお心配りには、姫さまも大変ご満足されております。また、下の者にも不足なく、お二方には感謝していると仰せられております」
「勿体なきお言葉、光栄に存じます」
 トカゲであっても、やんごとなき御方。
 公式行事の席でなくても、直に話すことは許されないらしい。
 なんと勿体ぶったことか。
 付き従う侍女の所作ひとつ取っても、人のそれと変わらず優雅。
 それどころか、一分の隙もない。
 大陸公用言語を完ぺきにマスターしていることにも。
 これには、夫人もとても感心した。
 もっと、野蛮な種族だと思っていたから。
 特に言語についてはその国ごとに違うが、魔法を使える国では習得する以前に魔法で翻訳してしまうことも多いと聞く。
 それはそれで便利ではあるが、やはり、生身の言語としての微妙なニュアンスが互いに伝わりにくく、誤解も生まれやすい。
 なにより、このマジェストリアにおいては、その程度の魔法すら使うことは出来ない。
 国境を越えた瞬間に、金だらいの洗礼を受けることになる。
 つまり、地の教養が必要だということになる。
 もともとトカゲ族は魔力をもたない種族だけあって、言語スキルを磨くのは当然であろうが、侍女レベルであっても高い教養があるという証明だろう。
 とは言っても、やっぱり、トカゲはトカゲだ。
 この無駄に放たれる威圧感はなんだろう?
「姫君には、御出発までの時間、どうぞごゆるりとお過ごしいただきますよう。なにかご要望、必要なものが御座いましたら、なんなりとお申し付けてくださいませ」
「お気遣いかたじけなく存じます」
 では、と軽く挨拶を交わし、夫人は客間を辞した。
 扉の前に立つ護衛のトカゲ族にも、軽く会釈をしてその場を離れた。
 廊下の角を曲がったところで立ち止まり、ほっ、とひと息。
 昨夕から強いられている緊張と疲労に、どうにかなりそうだった。
 膝が崩れそうなところを、なんとか堪えて自室を目指す。
 実際、彼女も侯爵家夫人として、これまで幾度か国賓の世話を任された経験がある。
 王宮へと通じる街道筋に近い場所にある侯爵邸は、外来の賓客の宿泊場所として提供するよう、王命を受けることが多い。
 そして、サシャリア侯爵家は代々、それを誇りのひとつとしている。
 単にもてなしもてなされる者としてだけでなく、人脈を得ることで外交上のパイプライン役を担い、事があらば、いつでもそれを開けられるように保持する。
 これは、誰にでもできることではない。
 それなりの知識と教養とノウハウと経験が必要。
 勿論、快適に過せる宿泊設備も。
 これ大事。
 初見の相手に、短い滞在期間に百パーセント以上の満足度を与え、信頼を勝ち取る。
 その第一印象を、国に対する評価とできれば成功。
 つまり、サシャリア侯爵家はマジェストリアの外交の玄関口。
 期間限定の超高級五つ星ホテル。
 王侯貴族向けの迎賓館と同等の役割を果たす。
 その点においては、サシャリア侯爵家はマジェストリア王家より随一の信頼を置かれている家と自負している。
 その証拠に、家の長い歴史の中では複数の外務大臣を輩出し、乞われて他国王家に嫁いだ娘さえいる。
 その話は一大ロマンスとして、マジェストリア国内に限らず、戯作としても広く語り継がれている。
 夫人もこの名家に嫁いで以来、ホステスに足り得る者として頑張り、手腕を揮ってきた。
 しかし、今回に限っては、やる気にならないどころか虫の息。
 王家より事前に連絡あったはよいが、こうもスケジュールを変えられては、整えるべきものも整わない。
 レディン姫の滞在も『一週間後』の筈だったのだ。
 一昨日の朝の段階では。
 それでも急がなくてはならない状態であるというのに、同日夕刻には『明日の夕刻』に変更された。
 つまり、本来六日間かかる日程を一日でこなす勢いでやってきたということだ。

「どんな軍事行動だっ!?」

 報せを受け、彼女の夫であるサシャリア侯爵は叫んだ。
 まったくだ。
 他国に入って、しかも、王族の姫君を運んでその早さは、まずありえない。
 どれだけ馬車が揺れたことだろう。
 レディン姫は、余程、丈夫な尻をしているのだろう。
 それにしても、あの馬車!
 あれを見ただけで夫人は、民族性の違いというか、考え方、価値観の違いを見せつけられた気がした。
 相容れない深い溝を感じた。
 だが、そんなことを考える間もなく、前日からサシャリア侯爵家は上から下への大騒ぎとなった。
 部屋を整え、主に食事の準備と支度に追われることになった。
 早馬を走らせ、近隣農家より食料を掻き集めた。
 食事内容については、王宮料理人のエンリオ・アバルジャーニーに予めリサーチしておいたのが幸いした。
 それにしても。
 野菜しか食べないレディン姫はよいとして、その他の者たちの食欲には参った。
 やはり、相当に体力を使った結果もあるのだろう。
 一食の合計で、牛を五頭、豚を八頭、鶏を十羽、潰した。
 今朝の分も含めて余分に用意した筈なのに、一晩で食糧保存庫がすっからかんになってしまった。
 それでも、まだ物足りなさそうな雰囲気を漂わせていることに、見ている方が、胸焼けと胃もたれを感じた。
 放っておけば、一晩中でも食べつづけていたのではないだろうか。
 そして、昨晩の内に、朝食分の確保のために近隣農家や貴族の邸に連絡を取り、買い取り交渉を重ねてヘトヘトだ。
 甲斐あって、なんとか間に合いはしたものの、朝から同じ量がトカゲ族の男たちの胃袋に消えていった。
 だが、夫によれば、この邸に滞在したのは、随行員の約四分の一人員だけだそうだ。
 王宮入りする人数を制限したルーファスのおかげあって、なのだそうだが、素直に感謝する。
 まったくもって、恐ろしいばかりの食欲だ。
 もし、全員を任されていたら、破産とまではいかないまでも、予算オーバー。
 あからさまな財産の目減りは、避けられなかっただろう。
 賓客の滞在中にかかる経費は、通常、家の負担とされる。
 残り四分の三の随行員が滞在し続けるというタスラの砦では、どれだけの量の肉が消費されたことか。
 想像するだけで、ぞっとする。
 レディン姫の滞在中に、マジェストリア中の家畜や家禽が、トカゲ族たちに食べ尽くされるのではないかとも思う。
 とてもではないが、夫人には、これ以上、もてなしきれない。
 今回に限っては、頼むからもう堪忍して、の状態。
 トカゲ族については、この先二度とノーサンキューだ。
 悪い人たちではないとは思うが、思いたいが、合わせていられない。
 申し訳ないが、仲良くしたいとは思わない。
 しかし、これもあと数時間の我慢。
 レディン姫一行さえいなくなれば、我が家にまた穏やかな日常が戻ってくる。
 それを心の支えに気を引き締めて、この接待を完遂すると、夫人は堅く心に誓った。

 ――ああ、殿下もお気の毒に……

 国の為とは言え、さぞかし辛いことだろう。
 彼女は一時的な辛抱ですむが、ルーファスは一生、付き合っていかなければならないのだ。
 公私に渡って。
 同じことをこれまでも茶飲み話をしながら言いはしたものの、口先だけの実感の伴わないものだった。
 だが、今では心底、同情する気持ちをおさえきれない。
 夫人は、眦に溜まった涙をハンカチで拭った。
 レディン姫がこのまま嫁してくることになったら、このマジェストリアは、一体どうなってしまうのか。
 人族の慣例にならって姫の身ひとつで、ということはトカゲ族では有り得まい。
 きっと、お付きの者もぞろぞろついてくることだろう。
 今回みたいに。いや、もっと数を多くしてくるかもしれない。
 そうなったとしても、マジェストリアに断ることはできないだろう。
 なにせ、国同士の力関係では向こうの方が上なのだから。
 癪に障ることに。
 だが、こんなに身体も胃も丈夫な者たちが常にいることになれば、すぐに国中の食料の底がついてしまいそうだ。
 特に肉類が。
 しかし、そんなことよりもそれよりも、もっと重大な問題にサシャリア夫人は気が付いていた。
 とても単純だが、大事なこと。
 それ即ち、トカゲ族の顔をどうやって見分けたらよいのか、だ。
 ひとりだけ皮膚の色が白いレディン姫だけは判別できるが、夫人には、今、滞在しているトカゲ族侍女四名の顔の区別が、まったくつかない。
 トカゲ族なりに美醜もあるらしいのだが、だれがどうなのか、さっぱりわからない。
 体格差はあるようだが、比較する者が傍にいてわかる程度。
 しかも、そろって、つるっぺた!
 くびれなんぞどこにもない……太った痩せたの話ではなく。
 茶だかプラセンタだかなんだかわからない成分色々の、栄養補助食品やサプリメントを摂取したところで無駄だろう。
 なにせ、侍女だけでなく、護衛の近衛兵すら同じ体形に見えるのだから。
 はっきり言えば、顔どころか性別の区別すら出来ない。
 身に着けている服装でなんとか区別しているが、もし、侍女と近衛兵が服を取り替えて入れ替わっていても、夫人には判断がつかない自信がありまくりだ。
 トカゲ族同士、よくも互いを見分けられるものだと感心する。
 だが、現実問題、接する人間側としては、これはとても困る。
 ものひとつ頼めないし、うっかりしたことも口にできない。
 本人を目の前に陰口を叩くことだってあるかもしれないからだ。
 もし、それが原因で外交問題に発展でもしたら……?

 ――ああ、いやっ!!

 反対だ! 断固、この縁組みには反対だ!!
 細やかなストレス解消にもなっているおしゃべりが規制されてしまったら、どうやって鬱憤を晴らせばいいというのか。
 今更、どうにかなるものではないのかもしれないが、できるものならば、なんとかして欲しい。
 このことを、だれかに話したい。早く伝えなければ! いますぐにでも!
 きっと今頃、王宮はレディン姫の話題でもちきりだろう。
 サロンは、新しい情報を求める者たちがひっきりなしに出入りして、ああだこうだと推測しあっていることだろう。
 そんな皆に、真実を伝えるべきだ……愚痴も含めて。
 でなければ、サシャリア夫人自身の神経がもたない。
 兎に角、あと数時間の我慢だ。
 手にしたハンカチを、力一杯に握り締めた。
 ぎゅうううううううぅっ、と引き千切らんばかりに伸ばしもって。
 日々、こういうことがあるから、貴婦人の握力は見かけによらず、存外、強い。
 ぶちぶちと糸の切れる音を聞きながら、一日千秋の思いで、サシャリア夫人はその時が来るのを待った。




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