『ゲーム』
私は、ずっと密かな疑問をひとつ抱えている。
とても、些細なことだ。素朴な疑問。
だが、その疑問に答えられる人が答えてくれるかが疑問で、聞こうに聞けないでいる。聞くタイミングを逸している。訊くこと自体を忘れていたり。
いや、別に聞かなくたって、どうなるわけでもない。でも、なんだか、もぞもぞするっていうのか、なんていうのか、収まりが悪い感じだ。
「なんだ」
そうしたら、落ち着かない雰囲気を感じ取ったのか、向こうから訊ねてきた。
「人の事をあまりじろじろ見るな。何か企んでいるようで気分が悪い」
「べつにじろじろ見てはいませんよ。なにも企んではいないし」
不審者扱いすな!
「そうか。身構えて獲物に飛びつこうとしている猫のように感じるが」
そう言って、ディオはからかうように笑う。
なにげに失礼だ。
「それとも、もう手詰まりか」
「まだです」
「そうか。そのわりには一向に手が進まないが」
言われて、むっ、としながら目の前のボードに視線を戻す。黒と白の駒が升目の中で入り乱れて戦闘中。
黒がディオで、白が私だ。
私達は、今、こちらの世界のボードゲームをしている。チェスと将棋を足して二で割ったようなゲームだ。まあ、コミュニケーションというか暇潰し。冬の季節が長いこの国では、ポピュラーなものらしい。
チェスに、飛車角にあたる戦車と投石器のふたつの駒が増えたようなものだ。戦車が飛車で、投石器が角。あと、女王の動ける範囲が三マス以内に限定されたくらいか。
もともとチェスなんぞ基本ルールは知っていたが、嗜みはしなかったのでよく分らない。が、これだけでもずいぶんと雰囲気が違うように感じられる。
超初心者なので、教えてもらいながら相手をしている。にしても、容赦がない。普通、も少し手加減しないか? 飛車角落ちとか、なんなら、王様を落してもらってもいいぞ。
うーっ! 流石にディオは現実の戦闘でも無敗を誇るだけあって、こういうのも得意なようだ。
「言いたいことがあるなら言え」
余裕綽々の、偉そうな口の聞き方。むかつく。
司祭で兵士を蹴倒すように取った。
ぱちっ、と暖炉の薪がはぜる音がした。
「ひとつ疑問があるんですが」
「なんだ」
「私の名前を、いつ発音できるようになったんですか? 練習したんですか?」
すると、引き締まった男らしい口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。
「そうだな」、とわざと間をもたせる様にゆっくりとした口調が答えた。
「おまえがこれに勝てたら教えてやろう」
戦車が動いて、騎士が取られた。
むかつくっ!
「勿体ぶりますね」
男のこういうところは苦手というか、嫌いだ。
城を黒の戦車が狙える位置まで運ぶ。城はもうひとつの騎士と投石器でバックアップしてあるから、戦車が城を取れば、次の手で戦車を奪うことが出来る。
「そうした方がおまえも真剣になるし、ゲームも面白くなる」
そうしたら、全然、関係ないところの兵士が一コマ動かされた。
うーっ! やばい、こちらの戦車が狙われた。ここは、ブロック。
「その労力に見合うだけの内容ってことですか」
そう訊けば、「さあな」、と面白がるような答えがあった。
ちぇっ!
私はゲームに集中することにした。
そして、半刻後。
「くやしぃいいいいっ!」
満足そうな笑みを浮かべるディオを前にして、私は叫んでいた。
当り前に敗けた。惨敗だ。盤上に残った駒の数が明らかに違う。
「初めてにしては、なかなか筋が良い」
いっさい危なげなく勝っておいて、そんな事を言う。マジ、むかつく!
「お世辞なんか良いです」
「もう一局、相手をするか?」
「やです。やだ。何局やったって勝てる気がしませんもん」
くすん。ちくしょう、拗ねてやる。
「では、答えは保留だな」
「ずるい」
「なにが狡い。最初からそういう話だったが」
「そうだけれど、狡いです。最初から、私が勝てないって分かって言っているんだから」
言い返せば、くくっ、と咽喉が鳴った。
「ならば、他の訊ね方をしてみるんだな」
珍しくも悪戯めいてさえ見える表情に、思わず半眼になる。
少しは甘えてみろ、おねだりしてみろって事らしい。はっきりと口にするわけではないが、たまあにそれらしい事を要求されたりしているところからしても。
思惑に乗る手もあるが、それも癪に障る。それに、やれ、と言われてやれる性格ではない。というか、スキル不足は、目一杯、自覚している。中途半端にやったところで、どっちもストレスになるだけだろうよ。
女子力なんて、元々あったかどうかも怪しい。日本での異性との付き合いは、甘えるよりも甘えられることの方が多かった。そんなんで今更、こっ恥ずかしくて出来るものか。酔ってもいない状態で!
にやつく顔を前にして私は、相手陣内で鎮座したままだった黒い駒の王様を拾い上げると言った。
「王様は人質に取りました。返して欲しくば、教えなさい」
「それに人質の価値があると?」
「あるでしょ」
駒のひとつでも欠ければ、ゲームも出来まい。私は指先でつまんだ王様を開いたドレスの胸元にしまい込んだ。……コルセットで持ち上げてるから、それくらいの谷間はあるぞ。
私はにんまり笑って言った。
「きょうはこの王様と一緒にすごします」
ディオの顔から笑みが消えた。
「返せ」
「嫌」
私は笑って、胸の谷間から覗く王様の尖った頭を指先で撫でた。前から伸びてきた手は、座っている椅子ごと後ろにずれて躱した。そうしたら、睨みつけられた。
軽い溜息ののち、「まあ、いい」、と声がある。
「では、ヒントをひとつやろう」
「ヒント?」
「東にモルスタークという小国がある」
「それがヒントですか」
「あとは自分で調べることだな。分かるまで王はおまえに預けておくことにする」
ふうん? 調べるのは手間だが、そう難しい内容ではないという事だろう。
「では、早速」
立ち上がると、「部屋に鍵をかける必要はないぞ」、と念を押すような言葉があった。
そして、その通り、その日の内に黒の王様は無事に黒の王妃の隣に戻された。
モルスタークは、ランデルバイアと未だ国交のない小さな国である事。単語の違いはあれど、モルスタークの使用言語が日本語の発音に似ている事を私は知った。
私の名前を呼べるようになった経緯は、どうやら、国交を開く為にすこし言葉を学んだ上での副産物であったらしい。
「筋肉の動きと舌の動かし方さえ覚えれば、簡単だった」、とその夜、私の寝室を訪れたディオは言った。
「でも、どうして、急に国交を開こうって話になったんです? 小さな国でそう利益もないでしょ」
新たな疑問に訊ねれば、「さあな」、とまた思わせぶりな返事があった。
……ああ、舌も器用なのはよく分かったよ!
私がその答えを知ったのは、季節が変わって随分経ってから。
毎日、出される料理と味付けに変化がみられた時だった。新たなスパイスが加わり、中華により近い料理に私が喜んだのは言うまでもない。そして、なにより、いつでも米と豆腐が食べられるようになった事に。
黒の王様に白の王様が勝つことはそれから先もなかった。
でも、黒の大公殿下が白猫のようと言われる伴侶を膝の上に抱える光景は、珍しくなくなった様だ。