『郷に入れば』


「本当はいけないことなのではないか、とたまに思ったりします」

 ミズ・タカハラは表情を変えることなく、淡々とそう口にした。そして、こうも言った。

「なにげなく言ったひとことや、それこそ、わたしの一挙手一投足がこの世界になにか大きな影響を与え兼ねないかと思うと、身がすくむ思いをしたり。いまは他愛ない騒動ですんでいますけれど、その内、取り返しのつかないことになるのではないかと思ったりもして怖いですよ。ディオたちがいてくれるのでなんとかなっていますけれど、それでも後悔に似た思いは、これまでもしてきましたし」

 それは、茶を飲みながら語るには、少々、重い話だった。
 わたしとミズ・タカハラは、生国はまったく違えど、同じ二十一世紀の同じ世界から、すべてが異なるこの世界へとやってきた。
 神の思し召しか、単なる偶然か運命の拍子によるものかはわからないが。
 文化も文明も、言語すらもまったく異質なるこの世界に、なんの準備もなく放り込まれた。
 わたしは既に五十代の坂途中にあり、彼女は二十代後半とまだ若い。しかし、世代間の感覚の違いはあるにしても、共通する知識や価値観の方が更にそれを上回る。だから、私たちは互いに時間があると、彼女の部屋で茶を飲みながらのんびり語り合うのが、最近の習慣になっている。それは、元いた世界への思慕を補うものであり、互いにこの世界での立ち位置を確認するためであったりする。無駄のように見えて、わたしにとっては必要不可欠な時間だ。おそらく、ミズ・タカハラにとっても。
 わたしはかれこれ二十年近くを、彼女よりも先に来てひとりで過した。時には、あまりもの価値観の違いや考え方の違いに、何度も気が狂いそうになる思いをしてきた。三十年以上培ってきたすべてのものが根底から覆されかねない恐怖は、想像を遥かに上回る。そして、自然と身についた認識で話せる相手がいないことに、なんともいえない焦燥感と虚しさを常に感じていた。
 それが、ここにきて偶然、ミズ・タカハラに出会えたことは、わたしに取っても法外の幸運だったと言えるだろう。それまでの己の不安定さを、やっと自覚できたほどに。
 それには、ミズ・タカハラが聡明さと優しさを備えた女性であったということが、大きく影響しているに違いない。
 経験の足りなさからくる頼りなさは仕方ないにしても、礼儀正しさも含めて、好感を抱くには充分だった。……もちろん、年の離れた友人として。たとえわたしが、もう二十歳若くあったとしても、まず、彼女の伴侶となった男性と争う気にはなれなかっただろうと思われる。彼女に魅力がない以外の理由で。
 しかし、そんなことよりも、話を元に戻すと、話題のはじめは、わたしのつまらない愚痴に端を発してのことだ。
 医師であるわたしは、この世界では相当に進んだ医学知識と技術を持っていると自負しているのだが、いかんせん、それを発揮するための設備や道具がほとんどない、ということを口にした。
 ここランデルバイアに来たのも、その開発のための王室の資金提供をあてにして、という部分が大きかった。だが、それにしても、下地となる技術すら未開発であったりするから、計画は遅々として進まない状況にある。
 なにせ、ステンレス、アルミなどの合金もなく、プラスチックもない。粗悪なビニール袋一枚、手に入れることが不可能だ。なにより、それらを作るに必要な電気すらないのだから。
 X線など、夢のまた夢。聴診器ひとつ、メス一本にも事欠くありさまだ。これでは、診察も治療も正確さを欠き、むずかしいなんてものではない。不便の域を通り越している。
 そう言う話だ。

「釘一本つくるにしても、一本、一本、手仕事だったりするからね。丁寧であっても、出来上ったものは、形も長さもばらばらだ。鋳型を作って 大量生産するという考えもないのだから。しかも、鉄だから、錆びやすい」
「資本主義とは違いますから。他よりも良い品を大量生産して低価格で安定させることで広く流通させる、なんて考えにはならないでしょう。国同士での争いも日常的だってことも影響が大きいのでしょうね」
「ああ、移動手段が徒歩かせいぜい馬となれば、流通するにも限度があるし、需要も限られるだろうから。何より、民間で行うには資本が足りないだろう。とはいえ、まったく欲がないわけではない。そう言う意味からでも、法治国家とはいえ、安全とは言いがたいよ。力任せの不逞の輩も多い。ひょっとすると、アメリカとそう変わらないかもしれないが」
「そうですね、でも、こちらには、弓はあっても、まだ銃はありませんから」
「ああ、その辺はまだ助かるな」
 流浪の身であった時も、それで助かった面はある。しかし、医師としては、抗生物質もないことで、破傷風などの病原菌が致命傷とも成りえるところで、なんとも言えない。
「でも、結局、そういうことなんですよね」
 ミズ・タカハラは吐息混じりに頷いた。
「元の世界でもそうだったように、技術の発展は歴史的に見ても、なんだかんだ言って軍事に直結していますから。それこそ、研究開発に莫大な資金が必要だったりしますからね。正当な理由つきで捻出するには、まず、軍事関連とするのが適当でしょう。国防の名のもとに開発されて、安価な汎用性の高いものにランクを落して、民間に流通されるって大きな流れがあったでしょう。ヒトラーがいなければ、自動車の発展も遅れただろうと言われるし、コンピュータにしても、水爆を作る計算のために必要だったから、急速に高性能になったと聞きました。その廉価版として、パソコンがあそこまで民間に普及したのでしょう。通信衛星もそう。電気だって、原子力なんて、もとは大量殺戮兵器としての爆弾だったし。だからこそ、最初から不要となった時のことを考える必要がなかったのかな、と思います」
 そう話す彼女の姿は、初めて会った当初、結うには短かった白い髪も伸びて、ピンなどを使って美しく纏められている。身に着けていた黒い軍服はシャンパンゴールドの上品なドレスに変わり、この世界でも通用する立派なレディだ。しかし、その口にすることばや内容はとてもシビアで、時には辛辣ですらある。そこが彼女の良いところでもあるのだが。
「しかし、それは切っ掛けというものだろう。使い方さえ間違えなければ、よりよい世界に繋がりもする。現に、パソコンにしても、軍事関連以上に日常で人の役に立っていた。ハッキングやテロなどの犯罪にも使われたが。つまり、使う者の意志次第ということだろう」
 そう答えながら、わたしも内心、苦々しさを抱く。
 わたしの持っている人を生かすための知識も、裏を返せば、簡単に人殺しの方法になりえるのだ。だとしても、わたしを含めて、扱う者の人間性や成熟度など測る方法などない。
「もちろんそうですが、大体、そういう知恵はあとからついてくるものでしょう? なにか弊害が起きて――放射能とか、処理しきれないゴミの問題とか、健康被害とか、温暖化とかの環境問題とか」
「そうだが……しかし、そんなことを言っていては、なにも出来ないよ。我々は聖人君子などではないし、間違いも犯す。問題は、してしまった間違いをどう正していくかではないのかい? そうやって、人は進歩し、成長していくものだろう」
「そうなんですけれど……」
 彼女の肩が下がった。
「でも、元からこの世界の人が求めて発明し、発展させるものならば良いとも思えますが、いたずらに私たちが介入してはいけないような気もします。民主主義も資本主義の声も聞こえてこないこの世界の流れを狂わせてしまうというのか、本来あるべき流れを阻害してしまうような……うまく言えませんけれど」
「なるほど」
 彼女の言わんとしていることは、なんとなくだがわたしにも伝わった。
 本来、この世界に則した速度で努力し発明され、改良し、発展すべきものを、すでにある程度の完成形を知っているわたしたちは、その中間の努力をすっ飛ばして与えることになりかねない。その結果、この世界の人びとに私たちの元いた世界とは、また違う弊害を与えかねないということだろう。
「例えは悪いが、赤ん坊に刃物を持たせてしまうかもしれない危惧だね」
 わたしが言うと、ああ、と苦笑が返された。
「そういうのもありますが、技術が発展して便利になったと喜ぶのと同時に、或いは、それが人を傷つける、人殺しの為に発明された道具であったという事実も忘れてはいけない気がします。それを踏まえた上で、問題点を認識し、改善しようという試行錯誤を断ち切ることもしてはいけないのではないかと思ったりします」
「便利さの影に隠れるマイナス要因に、目を瞑るべきではない、か」
「そういうことになりますか。本当に必要であれば、いつかこの世界でも自然と誰かが発明し、作り上げると思うんです。物だけでなく、思想やシステムにしても、独自の発想で試行錯誤しながら。それを、私たちが便利だったから、それが良かったから、の理由だけで、もたらしてはいけない気がします。いずれは同じ道をたどるにしても」
 では、例えば、と問う。
「いまこの世界にあるもので、短い間だけ豆電球ぐらいの灯をつけることは、わたしでも可能だ。学校で習った簡単な科学の知識でね。しかし、それを見たこの世界の人間の誰かが、もっと長く人工的な灯をつける方法はないかと考えたとする。それもいけないことかな?」
 我ながら、意地の悪い質問だ。
「それは……むずかしいですね」
 案の定、困ったような表情が返された。
「でも、結果的に、この世界にあった形でもたらされるのであれば、いいような気もします。切っ掛けは、どこにでも転がっているものですし、私たちのいた世界とは、また違う方法で発展することもあるでしょう。それが、より良い結果をもたらすかもしれません。もちろん、逆の可能性もありますが」
「どう発展させるべきか選ぶのは、この世界の人びとであるべきということか。しかし、そうなってくると、より基礎教育の重要さが増すね」
「感性も育てることが必要だと思いますよ。その辺は、島国だった日本と大陸のそれとは随分と違うように感じますが」
「そうかい? 例えば、どんなところだい?」
「ええと、たとえば、」
 と、その時、扉をノックする音があった。
 すかさず、ミズ・タカハラ付きの召使いが確認し、すぐに中に招き入れた。
 ミズ・タカハラの伴侶であるエスクラシオ大公殿下だった。
「ディオ、どうしたの、こんな時間に」
 驚くでもない彼女の呼びかけと共に、挨拶に立ち上がろうとしたわたしを低い声が制した。
「かまうな、私用だ」
 そう言って、ミズ・タカハラに書類らしき紙の束を手渡した。
「この前、おまえが欲しがっていたものだ」
「わざわざ届けに来てくれたの? 言ってくれれば、取りに行ったのに。ついでに、だれかに渡しておいてくれるとか」
「それも手間だ。それに、息抜きにもなる」
 ミズ・タカハラはクスクスと笑い声をたて、笑顔を向けた。
「ありがとう」
 わたしよりも二十歳以上年下とは思えない落ち着きと、大抵の女性が放っておかないだろう魅力を持つ男性は、それにほんの微かな笑みで応え、きょうの夕食の誘いを口にしてからあっさりと部屋を後にした。
 わたしは彼のその態度に、すこし違和感を感じた。
「なにかあったのかい」
 そう訊ねると、何を言われたかわからない様子で、きょとんとした顔で見返された。
「いや、随分とそっけないと思ってね。喧嘩でもしたのかい」
 すると、ああ、と照れ臭そうな表情に変わった。
「なにもないですよ」
 ただ、と付け加えた。
「挨拶にしても、人前でのキスとかは、ちょっと……日本人でも平気な人もいるんですけれど、わたしは慣れないものですから、そう言ったんです」
「ああ、そういうことか」
 少女を思わせるシャイな発言に、わたしは微笑んだ。
 それも、大陸と島国の違いと言うものなのか、単なる文化や習慣の違いと言うべきか。しかし、感性の違いと言えもするだろう。
「でも、他人には、やはり、そういう風に見えるんでしょうか」
 『郷に入れば郷に従え』とは言うんですけれどねえ、とミズ・タカハラは溜息まじりに言った。
「まあ、いいんじゃないのかな、彼が承知してのことならば。彼が君を愛しているのは間違いなさそうだし、君もそれがわかっているのであれば」
 忙しいだろう中を、わざわざ彼自身が書類を自分で持ってきたことも、そうだろう。
 彼女の顔を見たかったし、できるだけ他の男に会わせる機会も与えたくないのだろうな。
 途端、女性らしい曲線を描く頬に、うっすらと赤みが差した。初々しいその様子に、わたしは笑い声をたてる。そして、言った。
「我々がこの世界にどれだけ関与すべきかという、先ほどの話だがね、」
「ああ、はい」
「君の危惧は当たっているとは思うよ。私たちの持つ知識は、軽々しく扱うべきものではないだろう」
 しかし、
「それでも、わたしもだが、君なんかは特に、この先、よりこの国と繋がりを濃く持つことになるだろう。この地に骨を埋めることは間違いなさそうだしね。そう考えると、君が君自身や君の周囲の大事な人の幸せのために力を尽くし、良かれとその知識を使うことは、自然なことだと思うよ。その結果、その知識が先々、歪んだ形で伝わろうとも、悪用されることがあっても、それは仕方のないことなんじゃないかな。大体、先がどうなるかなんて、誰にもわからないし。国のためとか、世界のためとか思うよりも先に、そのために今ある感情を歪めてしまうほうが問題だと思うね」
「そう……なんでしょうか」
「うん、例えば、わたしでもわたしの持つ知識で、ひとりでも目の前で苦しむ人を救えるならば、使うに躊躇わないだろう。そして、そういう気持ちもきっと周囲の者に伝わると信じているよ。そして、ひとりでも多く同じ気持ちで医療を学び、携わってくれる人が増えることを願っている」
 理想論だが、これはわたし自身の意志確認でもある。しかし、わたしの中にも、こんなことを口にできる青臭いところがまだ残っていたか。
「君も、真に君の愛する人のことを思うならば、何を憚る必要もないんじゃないかな。わたしはそう思うよ」
 こんなことを言わなくても、おそらく、ミズ・タカハラは遠からず彼女が宿すだろう新しい命を守り、育てるために、無条件に力を尽くすことになるだろう。いや、もう始めようとしているのか。そして、間違いなく、そんな彼女とこどもたちを、夫である彼は、必ず守りきってみせるだろう。お伽噺に出てくる王子のように。……そうでなくては!

 ミズ・タカハラとの茶話を終え、帰る廊下の道すがら、わたしは自分に残された時間とその使い道を考える。限りあることの残酷さに曝されて、焦りも諦めも感じずにはいられない。だが、立ち止まってもいられない。
「先生! ケリー先生! ちょっとお聞きしたいことがあるのですが、いいですか?」
 と、医師研修生とも言える立場の青年が、わたしを見付けて駆け寄ってきた。
「なんだい」
「今朝の講義であった腹痛の症状によって病名を判断する方法についてなんですが、各治療法でわからない点が……」
 わたしの知識を求める熱意ある若者は、ここにもいる。
「ああ、どれについてかな」
 わたしも、まだまだ若い者には負けてはいられない、ということだ。


 ミズ・タカハラが私費を投じた温室のプロトタイプが完成したのは、その数ヶ月後のことだ。元の世界の有名な建築家が考えたという六角形と五角形を組みあわせたドーム型のものを模した、美しく効率の良い設計だ。
 そのお陰で、季節を問わず、必要な薬草を手に入れられることが可能になり、わたしが感謝したのは言うまでもない。……元々は、肉が食べられない彼女の、冬期における食の確保を目的に作られたものだったそうだが。
 しかし、それが彼女のこども達の命を救うことにも繋がるのは、数年先のことになる。






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