『側近の溜息』


 彼女は聡明だ。
 外見からはとてもそう感じさせないが、殿下の意図を読み取ったところもそうであるし、自分の考えを理路整然と語る口調からもそれが分かる。おそらく、交渉事にも慣れているのだろうと思われた。
 しかし、今は我々相手にそうする事もすっかり諦めてしまったかのように思えてならない。すっかりと生きる気力をなくし、観念しきっているように見えた。
「よろしいので?」
 殿下に訊ねてみると、なにがだ、と短く問い返される。分かっておられるのであろうに。でなければ、眉間に刻む皴の言い訳もあるまい。
「キャスの事ですよ。このままにしておいて宜しいのですか」
 それとなく答えを催促してみれば、溜息を吐いていつもより低い声が答えた。
「仕方あるまい。それに、下級兵士と言えど秩序を乱す行為を許すものではない」

 ……まだ、空惚けられるか。

 お側近くに仕えて数年になるが、ディオクレシアス殿下は難しいお方だ。一度、導火線に火が点いた時は何を何処までするか分からないところがある。悪い意味で。下手に頭も気も回るお方だから、隙を作る事もなされない。だから、私も口を出そうにも出せないところがある。
 だが、キャスの事は私とて気になる。私だけでなく、カリエスもランディもグレリオも気にしている。
 この短い期間の中で、あの少年のような女性は、私たちの間に置かれていた椅子に、いつの間にか、するり、と滑り込んできて納まってしまったように感じる。そして、その事は殿下も気付いていらっしゃる筈だ。
 だが、このままでは、十中八九、彼女を死に追いやらねばならないだろう。何をしたわけでもない、罪のない彼女に、処刑の命が下されるに違いない。
 国の特使と言っても、名ばかりの者だ。巫女そのものではなく、王族でもない。ただ、瞳の色が黒いというだけの、普通の女性だ。陛下は御会いにすらならないだろう。おそらく、大臣レベルで処断される程度の案件である事は、私にも分かる。
 殿下は深々と息を吐かれると、椅子から立ち上がられた。
「先に行く。後を任せて良いか」
「はっ」
「回復を待って、出来るだけ時間をかけて来い」
「畏まりました」
 殿下の急な御出立に、皆、驚いたが、逆に納得もした。
 おそらく、彼女を救って下さるに違いない。そう思い、安心したのである。そして、後日、現実にキャスの命は救われた事を知り、私達は安堵に胸を撫下ろしたのである。

 だが、しかし。
「は?」
 最初、それを聞いた時、我が耳を疑った。
「あれに、グスカとファーデルシアの攻略手段を考えさせる事にした。上手くすれば、我が国の損害は減らす事もできようし、犠牲者も少なくてすむかもしれない」
 事務的な表情と声でおっしゃる殿下を前に、私は嚥下しながら、しかしながら、と異を唱えた。
「女性にそのような事を、戦に関らせようというのは無茶ではありませんか」
 キャスのドレス姿を殿下もご覧になられただろうに。その上で、血腥い事に関らせるとおっしゃる。
「上手くいかなかったとしても、かかる損害は軽微ですむ。逆に上手くいけば、利益となるばかりか、政治の面でも良い結果を生む事になろう」
「そうでしょうが、ですが」
「女扱いもしなくて良いぞ。多少、行動範囲の制限は必要だが、城内であれば、さして心配する事もあるまい。要は瞳の色さえ誤魔化せれば良いのだからな。ただ、兵と同じ扱いにするにも、馬の訓練と多少の剣の扱い方を教える必要があるだろう。最低限、身を守れる程度には。あと、礼儀作法も教えるよう手配しておけ」
「……キャスはそれで納得を?」
「すべて了承済みだ。私直下の部下として、もう宣誓もすませた」
 なんと! 騎士の誓いまで立てさせたというのか!?
「穏やかに暮させる方法もおありでしたでしょうに」
 眉をひそめての進言には、ディオクレシアス殿下は、ふん、と鼻をひとつ鳴らされた。
「女にしておくのは惜しいと言っただろう」
「それは言いましたが」
 あの時は、まだ彼女の少年のような面しか知らなかったからだ。
「人はパンのみにて生きるにあらずだ。一生、神殿で来る日も祈るだけの窮屈な生活に、あれが納得するものか。それこそ、死んだほうがマシだと答えるだろう。それに、使える者を最大限に使ってこそ、それが上に立つ者の伎倆であり、責務というものだ」
 そうおっしゃって、太い笑みを浮かべられた。

「なあ、アストリアス。ディオのあれは、一体、どうしたものかなぁ」
 後日、陛下は溜息を洩らしながら私に溢した。
「分かっていて、わざとそうしたのだろうが、頑固というのか、我が弟ながら難しい。結局は戦絡みとは……まったく、こうと決めたら道を外れる事をしないやつだ」
 さあ、と私も答えに困る。
「どうであれ、時が経てば変わるものもございましょうが」
 しかし、これからどうなるのか、なにが変わるというのか。それも分からない。
「だと良いが。益々、意固地になられても困るしなぁ。そういうところは幼い頃とまったく変わらない。なんであれ、周囲も含めて面倒には違いないが、これからも頼む」
「勿体なきお言葉、いたみいります」
 そして、私は陛下に続けて溜息を溢したのである。






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