『猫の護衛』


「ウェンゼル、君を信頼してひとつ頼みがあるのだけれど」
 猊下はいつもの様に命令するのではなく、私に言った。
「あの子を守ってあげて欲しいんだ。無事にここへ戻ってこられるように」
 あの子、がキャスを指す事は私にも直ぐに分かった。
「戦場に出す事はないと言っても、女の子がひとりでは危険すぎるよ。ディオの騎士がついていても、あの子だけにかかりきりという訳にはいかないだろう。その点、君ならば、護衛についてはよく分かっているし、あの子の事も知っているからね」
「ですが、キャスは私を知りません。警戒されるのでは?」
「それでも、あからさまに出しはしないだろう。それは君にも分かっているだろう」
「……ええ」
 彼女は神経質だという事は、様子を見ている私もなんとなく気付いている。無自覚なのかもしれないが、神経質と他人に悟られないようにしているとすら、私には感じられる。
「ディオとは違う意味で難しい子だよ、あの子は。他の者ではなかなか護衛も務まらないだろう。だから、頼むんだ。ただでさえ厳しい環境にあって、余計な負担をかけさせない為にも」
 振り返り、隣室に通じるカーテンの影に身を潜めていた私をその紫の瞳で捕える。
 私はゆっくりと影から出て答えた。
「分かりました。猊下のお望みとあらば、この身に変えましてもキャスをお守り致します」
「うん。でも、君にも戻って来て欲しいからね。それは忘れないで」
「はっ」
 私は主たるその方に向かって、頭を垂れた。
 そして。
 その護衛対象となるキャスは、先ほどから私の前で細々とした作業を続けている。小さな丸い塊をナイフで削っては、粉に変えている。
 かりかりこりこりと微かな音をさせて、黙々と作業を続けている様子は、小動物が食べ物を齧る様を思い起こさせる。
「それは、何をしているのですか」
 訊ねれば、
「ええと、一円玉を削って粉末にしています。火にくべると、一瞬で燃えるように」
「一円玉?」
「ああ、私の国のお金です。アルミニウムって金属で出来ているんです。燃えると明るい光を発する筈なんです。うまくいけば、ですけれど」
「そうなんですか」
「はい」
 こういう時の彼女は、なぜか子供を相手にしているように感じる。どこか頼りなく、無邪気そうに見えて、でも、油断がならない。
 彼女は猫の瞳のように、持つ雰囲気を一変させる。
 グスカで同じ屋根の下で数週間、共に過して感じたのは、彼女の異質さだった。
 価値観も考え方もまるで私達とは違う。見ているものさえ違う。それは発想や言動の違いに顕著に現れる。
 彼女は、まるで、野に暮す動物のように自由だ。そして、やはり、同じように警戒心を抱えている。
 ベルシオン卿が彼女を『ウサギ』と呼び、猊下が『子猫』と称す気持ちが分かる。
「手伝いましょうか」
「あ、お願いできますか。あともう少しなんですけれど。溢さない様に気をつけて下さい。勿体ないから」
 私は傍らに座り、彼女の前にある平たい小さな白銀のひとつを拾い上げた。腰から小刀を取り出し、削り始める。
 硬い硬貨は、不思議にもすぐに削り出せた。指先に、蝶の鱗粉のような粉がついた。
 削りながら、私は訊ねた。
「貴方は何故、彼等の為にここまでするのですか。貴方にとって、彼等は通りすがりの人物でしかないでしょう」
 自分の身を危険に曝してまで。
「ウェンゼルさんもスレイヴさん達の事、嫌いじゃないでしょう。もう、敵でもない人達をこのまま放っておいても気になって仕方がないでしょう」
「そうですが」
「私もそうです。このまま死んで欲しくないです。この先、何もしなかった事をずっと後悔し続けて、夜、眠れなくなるのも嫌だし、だから」
 樹の影の中では濃い色としか判別できない黒い瞳が伏せられる。
「そうですか」
 それは、優しさとは違うのかもしれない。彼女にとっては、別の意味で己を守る為の行為であるのだろうから。それとも、そう自分にも言い訳しての発言だろうか。
 いずれにせよ、こういったところも、彼女の神経質な一面と言える。

 作戦は見事に成功した。
 途中、私は彼女を見失うという失態を犯し、心臓が止まるほどの焦りと苛立ちに苛まされたりもしたが、幸い、彼女はディオクレシアス殿下に助けられ、無事、合流する事が出来た。
 彼女の無事な姿を見た時ほど、ほっとした事はこれまでなかった。
 猊下の為。ディオクレシアス殿下の為。
 彼女を無事にランデルバイアへ帰す事こそが私の務めだ。

「ウェンゼル、君は聞いた事があるかい、ディオが飼っていた猫の話」
「チャリオットという名だけは存じていますが」
 それは、猊下と彼女の会話の中で耳にしている。大事にしていた猫だと聞いていた。
「うん、チャリオットはディオにとって、お守りみたいな存在だったんだよ」
「お守りですか」
「母上が亡くなって、暫くしてから飼うようになったせいもあるんだろうね。不安定になりかける心を慰めるように傍に置いていたんだよ。チャリオットもそれが分かっている様にいつも傍にいた。でも、ディオが戦場にいる時に、置き去りにするように一匹だけで死んでしまったんだよ」
「そうでしたか」
「うん、だから、今度は君があの子を守ってあげておくれ」
 猊下の言葉は、まるで、ディオクレシアス殿下の飼い猫を守れ、と言っている様に聞こえた。

 そして、私は今もキャスの傍にいて、彼女を守っている。

 ……だが、猫は時により人を翻弄する。瞳の形を変える様に。
 それを私は、この先も身をもって知らされる事になる。






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