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 次の日も快晴というわけではないけれど、雨の予兆はないので宿を出発した。
 さようなら、愛しの露天風呂……なんか、これまでで一番、名残惜しいわ。ごめん、ルーディ。
 馬車の移動も慣れてきたせいか、途中、仮寝をしていた。そうしたら、いつの間にか山道に入っていたことに気が付いた。
 外を見たら道幅がかなり狭くて、馬車が通るのもギリギリ。しかも、片側はかなりの断崖絶壁になっていて、ちょっとびびった。落ちたら、確実に死ぬ。
 先の見えない坂道は曲がりくねって、どこまで続いているのか先が見えない。そこを一列になって進んでいる。
 馬車の中にいても身体が冷えるのは、北に上って来た事もあるが、標高の高さも影響しているのだろう。
 国境は山を越えた麓に敷かれているが、実質的にはこの山が国を分けているんだそうだ。山の向こうのハイランド――そこが、ランデルバイア国。
 偶に、ことん、ことん、と馬車の屋根を叩く音が響く。
 最初は何の音かと思っていたが、どうやら斜面から石が落ちてきて当る音のようだ。怖っ! その内、どっかり大石が崩れ落ちてくるんじゃないかと心配だ。これも一昨日の雨の影響か。
 前に進むに従って、視界が開けていった。窓からの眺めも広がっていく。
 白い稜線上に広がる空は薄く灰色で、彩りに欠ける。山の地肌は茶と灰色ばかりが目立ち、元々、植生に乏しいのか、春まだ浅くてこうなのか。影には、泥混じりの雪が残る。
 でも、不思議と奇麗だ。尖った清潔感みたいなものが感じられる。荘厳、とでも言うのか。
 偶像神より、この眺めにより神性を感じてしまうのは日本人だからなのか。厳しいだろう自然環境を考えれば、土地の人たちもそう感じても不思議じゃないだろうに……
 なんて事をぼんやり考えていたら、峠をひとつ越え、ふたつめの峠近くで取った休憩場所に神殿らしき建物があった。ああ、やっぱりね。
「見てきてもいいですか」
 馬車から下りるのに手を貸してくれたアストリアスさんに訊ねたら、いいですよ、との答え。
「でも、それより向こうにはいかないで下さい。崖になっていますから」
「分かりました」
 こどもじゃないからね。言う事はきくよ。

 ひとり離れて建造物に近付く。
 あちこちにまだ根雪が残るそこは、ファーデルシアのお城にあったそれとは違い、石造りのごつごつとした作りのそれは、長年風雨に曝されてきたせいだろう。石の表面も滑らかに、施されていた彫刻も摩滅して浅くなっている。ところどころ朽ちかけ、苔むしている。だが、そこにまた歴史を感じてしまう。無神論者の私でも、敬虔な気持ちになったりもする。
 うん、いい汚し具合だ。金ぴかの新品の仏像よりも、金箔も禿げて、少々、欠けたところがあった方が有り難みを感じたりするのと一緒だ。
 建物のあちこちには、覚えのある文様が刻まれていた。ミシェリアさんから貰ったペンダントの石に刻まれている文様と比較して、やはり、ここはタイロン神の神殿であることを確認した。
 しかし、たまに通りすがりの旅人が祈るぐらいなものなのだろう。管理する者も誰もいなかった。実際、こんな場所に暮してもいけないだろうし、仕方がないのかもしれない。
 いつか、この神殿も風化して自然に還っていくのだろうか……そんな事を思う。
 扉のないアーチ状の入り口から中に入ると、上の方に開けられた窓がいくつかあるくらいで、射し込む太陽の光も僅かで薄暗いばかりだ。なのに、吹き込む風雨を防ぐ手立てには乏しく、湿っぽい。
 正面の祭壇らしき場所には、蝋燭の燃えかすが並び、台には雨水が溜っていた。
 神様もこんなんじゃ浮かばれまいよ。
 そう思いながら上を見上げれば、ごつい男性神らしい像が立っていた。
 元は白かっただろうその姿は、表面に黒い筋がいくつも流れ落ち、灰色に薄汚れている。
 踵まであるずるずるの長い衣服を身に着けて、左手の握り拳を胸に置き、右手は開いて肩の高さにあげている。如何にもそれらしいものではあるが、平凡すぎて有り難みに欠ける。彫像としての出来も大した事はなく、芸術的価値は見出せなかった。
 せめて、顔ぐらい作りが良ければ良いのに、眼が寄り過ぎ。鼻のバランスが悪い。不細工。
「なにか祈ることでもあったか」
 背後から声がかかった。
「こんなもんに祈ってどうかなるってんですか」
 私はエスクラシオ殿下を振り返り、答えた。
 さあな、と返事がある。
「黒き瞳を持つ者が祈れば、タイロンの神の奇跡が望めるかもしれん」
 私は鼻をひとつ鳴らした。
「そんなもんを信じてんですか。私ならそんなのを当てにせず、もっと実質的な努力をする方向を選びます」
「神に遣わされた者が信仰心を持たないのか」
「基本的にはないです」
 かつかつ、と石床に足音を響かせて、大きなその人は近付いてきた。
「元いた世界に神はいなかったのか」
「いましたよ。山ほど」
「山ほど?」
「私の国に限ってのことでしたが、八百万いると言われていました」
「……そんなにいるのか」
 流石に驚いたらしい。
「実際はその数ではないんですけれど、具体的な形は持たず、神の御霊があちこちに宿っているって信仰です。植物や石や、太陽や月、自然のありとあらゆるものが信仰の対象となります。神話では人の姿をしていますが、これと言った偶像は持ちません」
「自然を崇拝しているのか」
「まあ、そうですね。大昔は農耕を主とする民族でしたから、人知の及ばないところでの力が作物の出来に大きく影響しました。そこから発生したんでしょう。どうしようもなくなった時に祈る対象としての神の存在です。そういう貴方は、この神の存在を信じているんですか」
 隣に立ったその人に訊ねた。




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