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 それから、また五日経った。
 私はまだ生きていた。
 何かの拍子に右目の下辺りに痛みが走ったりするが、幸い骨折はなかったようだ。身体も似たような状態で、自分の力だけで起き上がれるようにもなったし、パンをスープに浸して食べられるぐらいまでには回復した。
 レティは、そんな私の面倒をよくみてくれた。
 甲斐甲斐しいまでに世話をしてくれて、時間がある時などは、ベッド脇に座って他愛ないお喋りに興じた。私は専ら聞き役で、彼女の話しに相づちを打つのが仕事みたいだった。でも、全然、嫌な気がしなかった。
 どうやら、レティはグレリオくんの事が好きみたいだった。そうはっきりとは口にしないが、彼の名前が話題の端々に上った。その時の表情も、他の人の話の時よりも生き生きとして、頬の明るさが違って見えた。
 うまくいくといいな、と思った。お似合いだと思う。偶には、耳に良い話が欲しい。そして。
「今日のウサギちゃんのご機嫌は如何かな」
「お兄さま」
 レティはランディさんの妹だった。エメラルドみたいな瞳の色が、おんなじだ。
 あれからランディさんは言葉遣いもすっかり砕けて、私を『ウサギちゃん』と呼ぶ。白い髪がそう言わしめるのか。二十七才の女の呼称にしてはこっ恥ずかしいものがあるが、年を知っていて呼ぶのだから相当の強者だ。どうせ、そう長い期間でもないし、面倒臭さもあって、好きに呼ばせておく事にした。
「もう、起きても平気ですよ。いつ出発しても問題ないです」
「それは良かった。でも、まだ顔色も悪いし、痣も残っている。もう少し回復してからだね」
 こんな言い方をするが、実は私よりもひとつ年下だ。まあ、日本人は年齢よりも若く見られがちだから、こういう事にもなるのだろう。
 因みにグレリオくんは二十二才で、最年少。カリエスさんは、それより十才年上の三十二才。アストリアスさんは三十六才の最年長で、エスクラシオ殿下の右腕的存在なんだそうだ。これは、レティから聞いた。
 で、エスクラシオ殿下は……二十七才。私とタメだそうだ。正直に言って、とてもじゃないが、そう見えない。絶対、年上だと思ってたんだけれどな。
「でも、一週間以上も予定が遅れていますけれど、大丈夫なんですか」
「ウサギちゃんが心配するような事はなにもないよ。その辺の調整はディオ殿下がきっちりとなさっておいでだし、天候の加減なんかでそのくらいの狂いはあって当然さ」
 ああ、そうか……時間の感覚も、あっちの世界とは違うんだな。
 スケジュールの遅れが、金銭的、物理的損害を招くというのは、広告業界に限らずどんな業種でも当り前の感覚だった。
 キャンセル料や生産量の減少による損害、株式相場の変動。一分、一秒の遅れが、得られる利益に大きく影響する。タイム・イズ・マネーの言葉通り。
 それこそ神経質なまでに、時間を厳守することに躍起になっていた。ヒステリーを起こさんばかりに。
 だが、人知の及ばないところで壗ならなさが当り前に残るこの世界では、そこまで細かく時間割をするほうが無駄というものなのだろう。
「焦らなくても大丈夫だよ。それより自分の身体を良くすることを考えて」
 そう言って、こどもにするように頭を軽く叩く。
 自分の心配ってったってなぁ……もう、何もないんだけれど。私がする仕事なんて、残っているのはほんの少しだけだ。王様に会って、適当に話して、それで終り。
 だから、多少、身体が痛かろうが問題ない筈なのに、なのに、みんな、代わる代わる私の様子を見に来る。なにをそんなに心配しているのか。
 どうせ、早晩、死んでしまう身なのに。

「起きても大丈夫と聞いたが」
 今度はカリエスさんがやってきた。
「はい。もう平気です」
 ベッドからも出て、椅子に腰掛けてお茶を飲んだ。
「なんで皆さん、あの時、気が付いたんですか」
 兼ねてからの疑問を私は口にした。カリエスさんが一番、答えてくれそうだから。
「いや、まあ、」
 カリエスさんは口ごもりながら教えてくれた。気になったからだ、と。ひとりにされた私がどうしているか、大丈夫なのか、と気になったと言う。
「虫の知らせとでも言うのか」
 ただ、そこに打合わせた訳でもなく、皆が揃っていたのは驚いたそうだ。
「それで、君を襲った者たちのことだが……」
 口も重くカリエスさんは言った。私は答えた。
「ファーデルシアを敵視するのは当然でしょうから。それに、格下だと思ってた相手に逆らわれたような気持ちなんですよね。多分、ですけれど」
 私なりの推測。口にしていた遺恨のほかにも、私の知らない事情があるのかもしれない。詳細な事は知らずとも、先走る高揚感に加えて、常に緊張感を強いられる仕事上で蓄積されたストレス。アンド、かなり酒も飲んでいたみたいだ。
「正常な判断を失う者がいたとしても、仕方ない事なのかもしれません」
 私には、その気持ちは分からないけれど。でも、戦時に捕虜を虐待する者がいるのは、常なる事らしい。どんなに上が戦の意味を説明しようが、人道主義を謳おうが、管理しようとしたところで、大勢の人間が集まる中では、はみ出す者だっている。怒りなのか、憎しみなのか、嗜虐心なのか、高揚感を求めてなのか。なんであれ、変わらぬ現状に精神が耐えられなくなる者がいる、という事なのではないかと思う。ひょっとすると、日常で起っていた犯罪や暴力行為なんかも似たような原因なのかもしれないな、と思ったりもする。
「君は、本当に不思議な人だな」
 カリエスさんは言った。
「そうですか」
 どの辺が?
「見た目は頼りなくこどものようであるのに、時々、何十年も年を経た者のような言葉を口にする」
 まあ、三十年近く生きているしね。それとも、涅槃が近付いた分だけ悟りが開けつつあるのかも。
「人は見かけによらないって事ですよ」
 そう苦笑すると、カリエスさんは、そうかもな、と頷いた。

 夕方、暇潰しに持ってきた本を眺めていたら、アストリアスさんが顔を出した。
「おや、大分、良いみたいですね」
「はい、お陰様で。レティによくして貰っています」
「それは良かった。一時はどうなるかと心配しましたからね。僅かの怪我でも命を落す者はいますから」
 ああ、そうか。
 医療技術も未発達なんだよな。感染症とかの知識もないに違いないだろうし、身体を開いての手術なんて、まだ出来ないのかもしれない。内臓破裂していてもおかしくなかったしな。
 でも、私に限っては、気にする事でもないと思うんだけれどなぁ。
「やっぱり、私が無事に国王にお会い出来ることが、アストリアスさんたちにとっても良い事なんですよね」
 そう確かめてみたら、ダンディなお髭の顔が顰められた。
「そんな言い方はやめなさい」
 叱られた。
「すみません……」
「まったくね。殿下が苛立たれる気持ちも分かりますよ」
「エスクラシオ殿下が?」
 いつも呆れられたり、むっつりされているのは分かるけれど、苛立っているのか……でも、なんで?
「はっきりと口にされるわけではありませんが、貴方のことを御心配されていますよ」
 ええと。で、苛々していると?
「やっぱり、自分のところの兵士が怪我を負わせた事を気にされているんでしょうか」
「それもありますが、それよりも貴方自身の事をですよ」
 私のこと? ああ、ええと……あれか。同情されてるのか。いいのになぁ、別に。と、言っても無理なんだろうな。
「有難うございます。でも、もう本当に大丈夫ですから、殿下にもそうお伝え願えますか」
 そう答えたら、お髭が揺れた。
「貴方は……いえ、やめておきましょう」紫の瞳がまっすぐ私を見下した。「ただ、人の気持ちというのは、立場で決められるものばかりではないのですよ。ディオクレシアス様もその事ははっきりと弁えておられます。貴方についても。その上で、貴方の事も御心配されているのです。それだけは、分かって差し上げて下さい」
 つまり。
 全部分かって、自分の立場では私を必要以上に気に掛ける事は間違っているって分かっていても、私の立場ではどうする事もできない事を分かっていても、心配してくれている、情をかけてくれていると。そういう事?
 ああ、なんていうのか、こういう時、なんて答えたらいいんだろう? 私は……
 黙っている私に、アストリアスさんは言葉を続けた。
「こういう事は、ほんとうは口にすべきではないのですが……私達も心を痛めています。皆、黙っていますが、心の中では、貴方を死なせたくないと……そう思っていますよ」
 しくり、と胸の奥を刺す痛みを感じた。
「貴方にとっては、勝手な言い分に聞こえるでしょうが。辛いのは、貴方だけではないのです」

 なにも答えることが出来なかった。




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